FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

10 | 2008/11 | 12
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

「満ち足りる心」とは?

満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(第一テモテ6章6節)

 先週の甘木朝倉連合音楽祭での教会聖歌隊「ジョイフルクワイヤー」の讃美が祝されたことを主に感謝いたします。聴かれた方々から、「耳なじみのある賛美歌で、よかった!」とか、「聴きましたよ。よかった!」などと声をかけていただきました。中学生たちの息の合った合奏に始まり、かわいい子どもたちのコーラス、円熟したハーモニー、楽しそうに歌う高齢者グループ、力強い太鼓の演奏とプログラムも多彩で、聴きごたえがありました。自然の美しさを愛で、人の情感を歌う曲の中に、イエス様の救いに与った者たちの神への讃美の歌があったことは、新鮮な感動であったにちがいありません。「ジョイフルクワイヤー」の紹介文に始まる演奏の様子は教会のホームページで、お聞きいただけます。

 イエス様の、「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」(マタイ5-15)というみことばの真理の実践でした。ある方は、「ああいう大舞台で歌うから、いいんですよ。」と励ましてくださったそうです。その方は、このような機会がなければ、賛美歌を聴くことはできなかったでしょう。演奏を終えて会場に留まった中学生たちも、世に賛美歌という美しい音楽があることを、初めて知ったかもしれません。この地域の若者たちの中からも、このすばらしい信仰の遺産を継承し、後世に歌い継ぐ人たちが育ち行くよう祈りましょう。

ところで、他の合唱にはなく、私たちの聖歌隊だけにあったものといえば何だったのでしょうか。それらは、ちょうどこの秋学んできたテモテへの手紙で強調されている「敬虔」と「満ち足りる心」であってほしいと願います。聴衆のうちの幾人かでも、「あの人たちは確かに神様を知っている。」と感じたでしょうか。「キリストは確かに、あの人たちの中に生きておられる。」と見えたでしょうか。それが「敬虔」であり、イエス様を証することです。

 では、「満ち足りる心」とは何でしょうか。それは、たくさんの物を手に入れて感じる満足感とは、どう違うのでしょうか。パウロがピリピ書において、「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」(4-11)と記しているように、それは生まれながらに持ち合わせているものではなく、信仰の訓練を経て学び取っていくものです。また、「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。」(12)とあるように、状況の浮き沈みにも動じない、安定した心です。これもまた、信じる者たちの内に住みたもうキリストの霊の恵みなのです。

 どうやら、日本の経済状態も特別給付金を出さなければいけないほど悪くなっていくようです。果たして、私たちはそのようなときにも「満ち足りる心」を保てるでしょうか。良き信仰の訓練のときと感謝して、互いに祈り合い、励まし合って、キリストの家族としての成長を目ざしてまいりましょう。



無題 | 18:07:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
信じてベストを尽くす!

2004年10月週報より
彼(アブラハム)は望みえないときに望みを抱いて信じました。
(ローマ書4章18節)

今年は相次いで台風が日本列島に上陸し、甚大な被害をもたらしました。幸い教会の兄姉は守られましたが、苦難を経験された皆様のため神の御助けを切にお祈りさせていただきましょう。聖書は、「主はすべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。」と告げています。

今回の水害などは百年に一度あるかないかの豪雨を想定して作られた防災対策を超えて起こったと報道されました。更なる努力が必要でしょうが、人知をはるかに超えた神への真摯な祈りが、私たちに求められているにちがいありません。

アブラハムがそうであったように、私たちはイエス様に召され、クリスチャンとして新たな旅立ちをした者です。イエス様は、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束しておられます。これは試練のない人生を保障されたのでしょうか。いや、むしろ日々襲い来る試練の中にあっても、聖霊が共にいて戦ってくださることの保障です。

アブラハムの信仰は弱くもろいものでした。しかし、失敗をくり返しながら、堅固なものへと成長していきました。約束の子イサクが与えられるまで25年も待たされることによって、彼の信仰は練り上げられていったのでしょう。

私たちも信じ通せない者です。神を小さくし、「そんなこと無理だよ。」と考えがちです。しかし、神は真実であり、その恵みは驚くばかりに豊かです。
教会も今、礼拝のための宮を主にお捧げするように導かれています。わずかな教会員にとって、それは夢でしかないように思えます。しかし、みことばは、「神にとって不可能なことは一つもありません。」と約束しています。

イエス様はしばしば、「このことを信じますか。」とお尋ねになりました。今、私たちにも同じ質問をしておられます。「はい、主よ。信じます。」と応えて、最善を尽くす教会でありましょう。



無題 | 11:41:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
与えられた能力を、どう活用して生きるのか?

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。   (マタイ伝20章28節)

先日、牧師夫妻は小さな高齢者のデイサービスを訪ねて、歌のプレゼントをさせていただきました。牧師の方は既にある芸能ボランティアに所属して、こうした活動を数年続けてきていますが、賛美歌を歌える雰囲気ではありませんので、独自に機会を開拓してみることにしました。大変歓迎してくださり、事前に拍手の練習までして、くつろいだ雰囲気で、全員参加の楽しい音楽会をすることができました。なつかしのメロディーや季節の歌とともに、一足早いクリスマスキャロルも歌わせていただきました。最後には世界の平和を祈って、「きよしこの夜」を合唱しました。終わってから、何名かの方々と握手し、「また来ますね。」と再会を約束しました。

 連日ニュースで聞かされる痛ましい出来事を思い巡らすと、「何かしなければ。」とあせりを感じます。何か人の心に訴えかける活動をせねばと迫られるのです。パウロは若き牧師テモテに、「あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」(Ⅰテモテ4-14)と書き送りました。イエス様を信じ、救われた人たちは、なんと幸いでしょうか!聖霊が共に住んでくださり、それぞれに賜物を与えていてくださるのです。しかし、授かった人には、その賜物を磨き、イエス様の御用に用いていく責任が問われています。教会の内外を問わず、私たちは能力を活用し、神と人のお役に立つことが求められているのです。

 もう一度、オバマ時期アメリカ大統領の語った、「私たちはできる!(Yes,we can!)という言葉を引用させてください。アメリカの現状はイラクやアフガニスタンをはじめとする外交の行き詰まり、巨大企業の経営危機など、大変な事態に陥っているようです。しかし、オバマ氏の演説は希望に満ちています。おごり高ぶりを棄てて、建国の精神に立ち返るなら、「我々は必ず明るい未来を切り開ける。」と、国民に協力を要請しているのです。国が何かの施しを約束しているのではありません。国民一人一人に、崩れたレンガを積み直す勤労を呼びかけているのです。

 イエス様は私たちに、「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5-14)と期待を込めて語ってくださいました。ですから、暗い所を照らさなければなりません。しかし、それは必ずしも目立つことである必要はないのです。置かれている場で、「イエス様、あなたの御国がきますように!」と家族・隣人の魂の救いを祈るところから始まるのです。

 今日も連合音楽祭で賛美歌を歌う機会が与えられています。また、数箇所でクリスマスコンサートもさせていただけることになっています。これらの機会を感謝し、謙遜に奉仕に当たらせていただこうではありませんか。無理やりに自らの信念を押し付けるのではなく、聖霊の感動によって信仰に至る人が起こされるよう、主の奉仕を勤めさせていただきましょう。



無題 | 18:31:12 | トラックバック(0) | コメント(0)
前進するために何が必要?

2004年10月週報より
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
(創世記12章1、2節)

私たちの教会が所在する甘木の町の変化は大きくはありませんが、それでもあちこちに新しい動きを散見することができます。閉じていた店舗がにぎわいを取り戻したり、一つの時代を終えた廃墟が整地されたりしています。果たしてそれだけの投資に見合う見返りがどれだけあるのかなあと思わないわけではないのですが、その企業精神には刺激を受けます。

アブラハムという人物も親の築いた地位と財産にあぐらをかいていれば、それなりの安定した生活が保障されていたのですが、更に優る祝福をめざして出発しました。それは彼が75歳の時でした。彼の旅立ちは信仰に根ざしていました。

神様が彼を選び、彼に誓われたのです。それは大きな祝福の約束でした。現状にとどまっていてはならなかったのです。彼は見えない約束を見ているかのように、希望に向かって旅立ちました。
彼の父は月を拝む地に住んでいました。真の神は忘れられ、代用品が人々の心を奪っていたのです。そこには神様の祝福はありませんでした。どんなに反映していても、神なき文化とは決別するよう求められたのです。

アブラハムが出発してすぐに、私たちは彼の人生に祝福の成就を見ることができるでしょうか。彼は長いこと待たされたり、自分の弱さに負けたりしながら、それでも信仰にしがみついて希望を失わなかったのです。聖書は、「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」と教えています。

イエス様は、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」と約束しておられます。私たちはイエス様に向かって旅立ち、とどまり続けます。イエス様を離れて神の栄光を現わすことはできないからです。



無題 | 08:30:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
この姿勢があれば、問題は克服できる!

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ書4章13節)

 先ごろ、アメリカの次期大統領に選出されたオバマ氏は、その勝利演説において、「皆さんなしでは変化は実現しない。社会に奉仕するという新しい意欲がなくては、自分を捧げるという新しいスピリットがなくては、変化は実現しないのです。」とアメリカ国民に、いや、世界に向かって語り掛けました。皆が高い理想に向かって力を尽くし合えば、いかなる危機をも克服しうるという希望を喚起される演説だったと思います。小さな子どもたちから、年老いた方たちまで、一市民として、「私は地域に、社会に、隣人に、どうお役に立てるだろうか?」と常に考えていくなら、その国の人々の暮らしは、どんなに幸せなものへと変わっていくことでしょうか。

 私たちもまた、持てる力を出し合い、主イエス様の教会を建て上げていきましょう。誰かが理想の教会を万端整えてくれれば、私たちは本当に幸せでしょうか。何の骨折りもしない者に、達成感を味わう特権が与えられるでしょうか。信仰の喜びは、教会員として、主イエス様の十字架の一端を真剣に担ってこそ味わいえるものではないのでしょうか。

 パウロが若きリーダー、テモテに書き送った、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。」(Ⅰテモテ4-12)という言葉にはハッとさせられます。私たちは誰もが、多かれ少なかれ弱点を持っています。テモテの場合、年が若いという理由で抵抗勢力に合い、思うようにリーダーシップを発揮できなかったのでしょう。では、パウロはその弱点を、どう克服するようにアドバイスしたでしょうか。彼がアドバイスした解決策は、「ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」というものでした。

 私たちは軽く見られたり、馬鹿にされたりすれば、そうした相手に憤慨し、いかに反撃するかを考えがちです。しかし、聖書はそのような解決法を教えてはいません。まず、私たち自身の「ことば、態度、愛、信仰、純潔」を点検してみることを勧めています。そうして、私たちがキリスト者として整えられていけば、人の見る目もまた変わってくると言うのです。

 また、「神のことばと祈りとによって、聖められる」(Ⅰテモテ4-5)というみことばにも感動を禁じえません。残念ながら、私たちの周囲は、私たちが願うようには回って行くとはかぎりませんから、憂鬱な気持ちになることも多くあります。自分自身の醜さに愕然とすることさえあるのです。しかし、私たちは神のみことばを聴けますし、跪いて祈ることもできます。そうすることによって、私たちは周囲に聖い影響を及ぼし得るのです。

 オバマアメリカ次期大統領の、「私たちはできる!(we can!)という言葉が今年の流行語大賞に選ばれてほしいと思います。そして、私たち教会も、イエス様が先立っていてくださるのですから、「私たちはできる!」と告白し続けようではありませんか。



無題 | 16:10:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
この方を知っていますか?

2004年10月週報より
キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」(第二ペテロ1章17節)

私たちは今日まで多くの師によって教えられ、導かれてきました。中でも、特に影響を受けた何人かの恩師を上げることもできるでしょう。しかし、クリスチャンはイエス様の弟子です。どんなに恩師がいても、イエス様は私たちの主です。

イエス様はペテロの告白を賞賛されました。彼がイエス様を神と告白し、キリスト(救い主)と呼んだからです。この告白はキリスト教会の土台です。
この告白の後、イエス様はペテロ、ヨハネ、ヤコブをつれて祈りのためヘルモン山に登られました。そこで弟子たちが目撃したのは栄光に輝くイエス様の御姿です。

私は長いこと、この光景を想像できませんでした。まして、モーセやエリヤが現れて、イエス様と語り合ったとなると、あまり考えたくない箇所でした。しかし、今はこの栄光の変貌をイエス様が人と成られた神であることの重要な証拠として信じています。

天から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」という御声がかかったのです。これはイエス様がバプテスマを受けられた時にも響き渡った御声です。このように、イエス様は私たちの神として権威を帯びておられます。

このイエス様の栄光の変貌に十字架上のイエス様が重なります。どうして、イエス様の十字架の血潮が私たちの罪をきよめるのでしょうか。それは神が立てられた救いの方法だからです。
イエス様をあなたはどう告白しますか。私たちはペテロのように唯一の救い主「キリスト」と告白します。



無題 | 08:40:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
体の鍛錬以上に「有益」なものとは?

肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。(第一テモテ4章8節)

 アメリカの次期大統領にアフリカ系アメリカ人のバラク・オバマ氏が選ばれました。故キング牧師が語った、「私には夢がある(I have a dream!)」という演説は日本の英語教科書にまで紹介されていますが、正にその夢の一部が実現したかのようです。オバマ氏はその勝利演説で、「私たちにはできる!(We can!)と語り、すべてのアメリカ人が国の再建に積極的に参加するよう呼びかけました。アメリカには、私たちの教会のためにさえ祈り続けていてくださる多くの主イエス様の兄弟姉妹たちがいます。オバマ氏はまもなく聖書に手を置き、神の導きに従い国に奉仕する誓約をして、大統領に就任します。単なる儀式としてではなく、彼の在任期間中に、世界に神の愛と正義が実現されていくよう祈ります。

 アメリカの大統領が誓約に用いる聖書には、ハッとさせられたり、「ウーン」と首を傾げさせられたりするような記述もあります。「肉体の鍛練もいくらかは有益です」(Ⅰテモテ4-8)という記述も、昨今のスポーツ熱の高まりからすれば、体の鍛錬を過小評価しているとさえ響くかもしれません。「健全な肉体に健全な精神は宿るのであって、肉体の鍛錬こそ教育の最上位にくるべきが。」と主張される方々も多いことでしょう。ちなみに、昨晩テレビで紹介された視覚障害者家族の41歳のお父さんは、伴走者の協力を得て100キロマラソンに挑戦していました。そのような血の滲むような努力の結果が「いくらか有益」程度であるとするならば、それ以上に有益なものとは何なのでしょうか。

 聖書は、「敬虔は、すべてに有益です。」と主張しています。この「敬虔」とは、神を敬い、神の御前に慎んで生きる信仰生活を意味しています。具体的に言えば、日々、神のみことばを拝読することであり、何につけても、まず神に祈る生活です。日ごろ、マンガやテレビに浸っている世代にとって、聖書を読み進むことは容易いことではありません。まして、祈りとなれば、どうしていいものやらわからないことでしょう。しかし、これらの習得と継続こそ「すべてに有益」だと言うのです。

 最近カラオケやコーラスで歌う方々が増えています。健康や自己表現のために大いに役立つことでしょう。しかし、神を褒め称える賛美歌を歌うことは更に有益です。それは自己表現やストレス解消にとどまらず、神様への感謝の捧げ物だからです。そこに表現されている先人の信仰に合わせて、私たちの讃美、感謝、祈りを真心から神にお伝えするのです。

 人が救われるのは鍛錬の結果ではありません。それは、神の御子イエス・キリスト様が十字架に架かり、私たちの罪のすべてを負ってくださったことへの信仰表明に、神がくださるプレゼントです。それは100%神の恵みです。しかし、その後、私たちは次第に敬虔な生き方を深めていくものです。今週も一歩一歩と、キリストの敬虔を目ざして、信仰の歩みを進めてまいりましょう。



無題 | 17:01:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
「師」と仰ぐお方を持っていますか?

2004年10月週報より
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。                (マタイ伝7章21節)

子供は親に似ています。それは遺伝子によるものでもあるでしょうし、最も身近な者から学習した結果でもあるでしょう。また、人は尊敬する人からも影響を受けます。あなたの人格形成に最も強い影響を与えたのは、どなたですか。

イエス様の弟子たちもイエス様に引かれて話を聴くようになり、やがて仕事を辞めてイエス様に同行し、後継者としての訓練を受けるようになった人たちです。家柄がよかったわけでも、教育を受けていたわけでもありません。ただ彼らはイエス様を愛していたし、素直に聞き従う気質を持ち合わせていました。

イエス様の弟子になる人たちは、三つの段階を経ます。第一は好奇心の段階です。イエス様の周りに話を聴くため、病気を癒してもらうため、奇跡を見ようとして群集が押し寄せました。そのように、たまに教会の集会に参加したり、聖書を読み始めたりする段階です。

次は信仰告白です。好奇心からイエス様を観察した結果、「このお方こそ、私の神、救い主です!」と告白し、バプテスマを受けて教会に加わる段階です。
そして第三はイエス様の弟子となります。イエス様から託された宣教の使命を自覚し、失われた魂をキリストのもとへ導くために働く段階です。

イエス様は集まって来た群衆にご自身が神であること、彼を信じること、彼に従うことの意味を解き明かしました。そして、彼らは祈り、説教し、奇跡を行い、人を救いに導くイエス様を目の当たりに観たのです。

イエス様は今もなお、教会を通して私たちを教え、訓練し、ご自身の弟子へと育てておられます。そして、世界中に弟子を派遣し、迷う人々に救いの手を伸べ続けておられるのです。



無題 | 09:41:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
このことを備えれば、憂いはない!

この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マタイ伝24章35節)

 何か世界の金融界に激震が起こっているらしく、日本の株式価格も26年ぶりの安値を付けたということで、号外まで配られたそうです。100年に一度あるかないかの恐慌だなどとさえ言われていますから、相当の暗い長いトンネルを覚悟するひつようがあるのかもしれません。しかし、私たちには、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23-4)と言える信仰が与えられていることを感謝しましょう。

 今起こっている金融の崩壊現象について専門家のさまざまな解説がなされています。しかし、私には、「イエス様が語られた、「砂の上に自分の家を建てた」(マタイ7-26)という例えが、最も事態を的確に言い当てているように思えます。連日ガラガラと音を立てて崩れ落ちているのは、いつの日か終焉を迎えなければならなかった「砂上の楼閣」だったにちがいありません。

 では、どのような建築者を褒めているでしょうか。「岩の上に自分の家を建てた」(7-24)人たち、つまり、神のみことばを聴き、その心理の土台の上に人生を築いている人たちを、「賢い人」と称しています。どんな嵐が襲って来ようとも、キリストの救いは堅固な岩なのです。

 この世に属するもので、私たちの「永遠」を保障し得るものはありません。医学の進歩も、技術の革新も有益であり、便利なものですが、あと何年、それらを享受していられるでしょうか。その後に続く「永遠」のために、私たちは何を備えているでしょうか。

 イエス様は、「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16-24)と招いておられます。私たちは弱かったり、知恵が欠けていたり、勇気がなかったりします。それらの弱点は、私たちが負っている十字架です。イエス様は、「その恥ずかしいままで、私について来なさい。」と招いていてくださるのです。

 聖歌に、「悲しみ尽きざる浮世にありても、日々主と歩めば、御国の心地す。」(467番)という歌詞があります。この作者の証言は、今の時代に歌い聞かせる価値があるのではないでしょうか。ますます混迷していく世にあって、イエス・キリストに確かな救いがあることを証し続けてまいりましょう。



無題 | 15:21:49 | トラックバック(0) | コメント(0)