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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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闇から光へ脱出するには?

2004年9月週報より
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」        (マタイ伝4章17節)

最初の人アダムとエヴァは神のかたちに創造されました。つまり、人は聖い神の性質を持つ者として造られたのです。では、昨今の人間の姿はどうでしょうか。神のかたちを保っているでしょうか。
人間の心に入り込んだ罪は神のかたちを侵食し続けています。憎しみや争いのために多くのエネルギーが浪費されています。これは人間の造られた目的を見失った状態です。

イエス様は「失われた人を捜して救うために来た。」と語られました。今、イエス様のこの働きは教会に引き継がれています。イエス様は教会の案内配布、伝道集会、個人伝道を通して、今なお失われた人を捜し続けておられます。

人が「悔い改める」とは二つの行動を伴います。一つは今執着している悪習慣から離れることです。そして、二つ目は神に仕える生活を始めることです。このどちらを欠いても、それは悔い改めではありません。
放蕩息子はそれまでの愚かを悔いて、向きを変えて父のもとへ帰り出したのです。この世の享楽を追い求める生活を後にして、イエス様を主として礼拝する生活を始めることが悔い改めです。それが魂の救い、永遠の命の証拠です。

聖書に関心を持ったり、教会の雰囲気に惹かれたりする人は多くあります。しかし、悔い改めなければ人は救われません。神以外のものを中心としていたことを詫びて、神のみこころを第一とする生き方を踏み出しましょう。この決心をする瞬間、あなたの魂は聖霊によって新しくされるのです。



無題 | 09:44:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
世の波風に弄ばれない「平安」とは?

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ書6章23節)

 先日、小学生たちによる秋の恒例の相撲大会があり、応援に出かけました。わが町は惜しくも一回戦で敗退してしまいました。その番、ソフトボールや相撲の指導に当たってくださった方々を招いての打ち上げ会が開かれました。そこで、出席した子どもたち全員が自己紹介や来年へ向けての豊富を述べていました。ほとんどの子が、「来年は。。町を倒して、優勝したいです。」などと、高い目標を口にしていました。目標達成のため、こつこつ努力を重ね、来年は更にたくましく成長した姿を見るのが楽しみです。

 その最後に相撲の大将を務めた六年生の子の挨拶に、思わず涙がこみ上げました。彼は運動会で足をけがしたらしく、ほとんど相撲の練習ができないまま、大会に臨まざるを得なかったようです。大役にありながら、チームに貢献できなかったくやしさをにじませてはいたものの、六年間訓育を受けた町の皆さんにお礼を述べ、一緒に成長してきた仲間に感謝し、下級生に自分が果たし得なかった夢を託す、その卒のない挨拶ぶりに、「六年生ともなると、あれほどまでに周りの人たちに配慮ができるようになるものか!」と感心しました。

 しかし、聖書は、人の姿を、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」(エペソ2-3)と表現し、どこまでも自己中心で、思いやりの欠けた者であると述べています。「仲間を大切にする」ことは美しいことですが、反面では異質な者を無意識に排除していることもあり得ます。その垣根を越えて、人を受け入れ、平和の輪を拡げていくことは至難の業であるにちがいありません。パウロもこの罪に苦悩した人であり、「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7-24)と叫ばざるを得ませんでした。

 では、パウロはどのようにして、この大問題に解決を得たのでしょうか。「人間は、そもそも罪深い者なのだ。」と自分に言い聞かせ、「解決はない!」とあきらめたのでしょうか。いや、彼は確かな解決を見出しました。彼は全人類の罪を負って十字架に架かってくださったイエス・キリストを信じることにより、罪の呪縛から解放されたのです。彼が伝えた、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(8-1)という証のことばほど、私たちに安心と希望をもたらすものはありません。

 今、連日のように、世界の経済が大混乱に陥っていると報じられています。どのようにこの危機を乗り越えるか、世界中が知恵を絞ろうとしています。私たちはパウロのように、イエス様への信仰に堅く立って、神の導きを求めて祈り続けましょう。イエス様は私たちに、「わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16-33)と約束していてくださるのですから。



無題 | 15:21:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
この「救い主」を知っていますか?

2004年9月週報より


「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」               (ルカ伝4章18,19節)

聖書の中に私たちの主イエス様が書かれた部分はありません。しかし、その全部がイエス様について書かれています。特に、福音書にはイエス様が行われた奇跡が多く記されています。

ガリラヤ湖上で嵐を静めたり、寝たきりの病人を癒されたり、悪霊に苦しめられていた人を解放したり、既に死んでしまった人をよみがえらせたりしました。これらの奇跡は4人の弟子たちによって書き記され、イエス様が神であり、救い主であることを証しています。

自然の猛威の前になすすべもない時、私たちはイエス様の御名を呼ぶことができます。不治の病を告げられる時、イエス様のあわれみを願って祈ることができます。心が騒いで落ち着かない時、イエス様の平安を求めることができます。イエス様こそ自然界、病気、悪霊、死でさえも支配する神だからです。

イエス様の奇跡を非科学的だとする人たちがいます。では、4人の弟子たちが口裏を合わせて偽証したのでしょうか。クリスチャンたちはそのでっち上げを命がけで伝えたのでしょうか。聖書自身が、「神にとって不可能なことは一つもありません。」と証しています。

この世は神に逆らっており、結果として惨状を招いています。しかし、イエス様は病に苦しむ人に深い同情を寄せ、癒されたのです。今もなお、私たちの苦悩に深く同情しておられます。私たちはイエス様に信頼し、助けを求めましょう。イエス様は最高の権威者だからです。

イエス様の十字架は仰ぎ見る者の罪を赦します。信じる人に永遠のいのちを与えます。イエス様は今もなお深い同情をもって、道に行き悩む人々を救い続けておられるのです。



無題 | 08:44:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
人生が好循環するためのカギは?

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル書11章6節)

 最近のニュースによると、振り込め詐欺が急増しているために、何万人もの警察官が銀行などのATMを監視し、詐欺を未然に防ぐために動員されているとのことです。「人を見たら泥棒と思え。」ということわざを実践しなければならない世の中になってしまったようで、暗澹たる思いにさせられます。というのは、物事を疑うことから始めなければならないとしたら、なんと不便で、不幸せなことでしょうか。詰まるところ、活動は停滞し、人は病気になり、やがて、その社会は滅びざるを得ないことでしょう。

 そんなことを考えているところへ、息子が、「ランドセルが壊れた。」と言って帰ってきました。聞いてみると、下校時に友達に突き飛ばされた子どもが、息子のランドセルにぶつかり、ストラップが破損したようです。そのことを知った担任の先生が道徳の時間を使って、悪ふざけをすることが、他人に大変な迷惑をかけることがあることを教えてくださったそうです。友達を突き飛ばした子は涙を流して、「ごめんなさい!」をしたそうです。身近な出来事を使って、すかさず大切なことを教えてくださった先生の気転に感心しました。

悪は手を変え、品を変えて増殖を続けていますが、一方において、「住みよい社会」、「思いやりの心」を育てるために活動している多くの人たちもいることに、安堵を感じます。どこかの有名な知事さんではありませんが、まことに、「今の時代、どげんかせんと、いかん!」のです。その手始めが、あの子のように、自分の非を認め、心から詫びることではないでしょうか。すべての人が神に罪の赦しを懇願しなければならないのです。

 人がだまされることを恐れて、疑い深く生きなければならないとしたら、それは人としての「威厳」(Ⅰテモテ2-2)をもった生き方とはいえないでしょう。聖書は、「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため」(ヨハネ20-31)と語り、「信じる」ことが、人間の幸福の基盤であることを教えています。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、」(イザヤ54-10)と約束していてくださる神様を信じるところから始めましょう。

 イエス様を信じ、毎日、「神様、ありがとうございます!」と謝していると、物事が幸せに回っていくのを感じます。体調も良くなり、気持ちも若やいできます。正しい判断力がついて、悪に近づかなくなります。ますます、イエス様のみことばに聞き従い、祝福の道を歩んでまいりましょう。



無題 | 17:25:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
「環境問題」を解くカギは?

2004年9月週報より

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。         (ヘブル書4章15節)

先週、私たちは強力な台風に襲われました。気象官はその大きさと動きを詳細に伝え、警戒を呼びかけてくれました。それを聞いて、厳重に戸締りしたり、避難をしたりはできますが、その先はただ被害なく通り過ぎるのを待つだけです。

神が初めに天と地を創造された時、これをご覧になり、「それは非常によかった。」と満足を表されました。自然界は美しく調和がとれ、生物は平和に共存できるはずでした。しかし、人間の歴史は過酷な自然との熾烈な闘いです。

人間が創造者をおろそかにする時、自然は神の偉大さを明らかにし、人の無力さを悟らせてくれます。地震や台風はないに越したことはありませんが、人間に謙遜を回復してくれる良い機会かもしれません。
「のどもと過ぎれば暑さを忘れる。」で、私たちは神のみこころを忘れがちです。神に求めることばかりで、神に仕えることを忘れます。それは神のみことばを聞いていないからです。

イエス様は悪魔に誘惑された時、どのようにその誘いを退けたでしょうか。聖書のみことばをバシッと投げ込んだではありませんか。いつでも聖書のみことばは巧妙な悪魔の策略に、有効なカウンターブローなのです。

私たちは台風を恐れますが、忍び込んでくる「誤った教えの風」に無頓着です。人間がアメーバから進化したとする教育に、人間の尊厳はありません。神に対する責任も感じる必要がないでしょう。しかし、人間は神ご自身に似た者として造られたのです。

イエス様は私たちに神を見せるために来てくださった救い主です。私たちがイエス様を信じる時、神は私たちの敵ではなく、永遠の保護者となるのです。



無題 | 10:59:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
「不思議」を解くカギは?

信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル書11章3節)

 今回、四人の日本人がノーベル賞を受賞したということで、日本中が祝賀ムードになっています。いずれの方々も、「どうして?」と思ったことに拘り続け、実験と思索を重ね、とうとうその不思議を解明されました。科学賞を受賞された下村さんはクラゲの放つ光の招待を追い求めた方だそうです。先生は、「なぜ、この生き物は光るのか?」ということを研究し続けました。その結果、クラゲの体内には緑色の光を放つ特殊なたんぱく質があることを発見し、その物質は今日の医学の進歩に大きく貢献することとなりました。

 多くの漁師にとって、クラゲは邪魔者でしかないでしょう。しかし、聖書は、「神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物を創造された。」(創世1-21)とあるように、クラゲもまた神様の作品であり、緑色に光る物質が、初めから仕組まれていたのです。それを発見したのが下村博士です。では、どれだけの人が、クラゲのような生き物でさえ、それほど価値あるものとして創造された神様に心を向けているでしょうか。

 夕べ、息子は四年生の課題だということで、望遠鏡を持ち出して、秋の月を観察していました。クレーターまで見えたそうです。私は神様が太陽、月、星を創造されたことを話しました。子どもたちは理科の授業で月について学ぶことで十分でしょうか。聖書を開き宇宙を創造された神様について聴くことなしに、月について「知った!」とは言えないでしょう。

 今朝のニュースによれば、世界恐慌に匹敵するような株の大暴落だそうです。日本が十数年前に経験したバブルの崩壊の再来です。長い経済の低迷が予想されます。しかし、イエス様は、「この天地は滅び去ります。」(マタイ24-35)とさえ予言しておられるのです。そして、「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14-1)と、ご自身への信仰に基づく救いの確かさへと招いておられます。

 私たちの安心の根拠は、どこにありでしょうか。神のひとり子イエス様が、私たちの罪のために十字架に架かり、私たちの罪の代価を支払ってくださったことに信頼しているでしょうか。この福音をよりどころとする者だけに、神は「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)を約束しておられるのです。



無題 | 13:17:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
この世界は、どのように造られたのか?

2004年9月週報より
初めに、神が天と地を創造した。   (創世記1章1節)

聖書を手にして、最初に目に飛び込んでくるみことばは何を私たちに印象づけるでしょうか。それは神の永遠の権威と力です。その御言葉を発せられると、虚しかった世界に光が生じ、空と陸が形づくられ、種類の異なる植物、動物、そして、神に似る者として人が創造されました。

この創世記1章に描かれている世界のはじまりは、私たちに生きる価値と目的を明らかにしてくれています。私たちに舞台をご用意くださった神を讃える者として、人をはじめ、全世界は創られたのです。この一節は私たちの迷いや不安を一掃し、人としての正しい姿勢を決定してくれます。

人は天然資源を利用して車を走らせ、電話網を張り巡らせ、宇宙を探検しています。しかし、神は無から世界のあらゆる基を据えたのです。人間が資源を生み出し、宇宙に法則を定めたかのように思い違いをしてはなりません。まず、神が人間のためにふさわしい環境を整えてくださったのです。

神は空に太陽を与えてくださいました。その発する光と熱エネルギーの恩恵はいかばかりでしょうか。毎日呼吸している空気のことを考えても、神の創造された環境がいかに完全なものであるかに驚かされます。

また、あなたは神が創造された植物や昆虫、動物のどれだけの種類をご存知ですか。海にも地にも私たちの知らない不思議な生物が、私たちを取り囲んで共存しています。なんと豊かで美しい環境を神は備えてくださったことでしょう。

進化論は主流な学説とされていますが、神は種類の境を定め、りんごがみかんになったり、猿が人になったりすることを許されません。神の聖い性質を持つ者として人を創造し、美しい環境を管理する務めを委ねてくださったのです。ハレルヤ!天地の創造者なる神を讃えます。



無題 | 08:09:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
一歩一歩の歩みが21年の一本線となって

創立記念に記す
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(ヨハネ伝12章24節)

 今日、私たちは教会の創立21周年を祝います。みことばに、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2-13)とありますが、主イエス様は四半世紀前に、I兄姉の心に働いて、「甘木に教会がほしい!」という願いを起こされたそうです。思い立ったら即行動のご夫妻のことですから、その夢実現のために、あらゆる手を尽くしたことでしょう。そのような中で、イエス様の福音のためなら、どこまででも出かけて行かれるB宣教師との出会いとなり、その後、ご夫妻宅での家庭集会へと発展していきました。

 そして、21年前の九月、E様の貸家をお借りして、本格的な宣教が開始されました。私は当時、千葉におりましたが、神学生として千葉教会で奉仕されたS先生が伝道師として甘木に遣わされたと聞き、親近感を感じたのを覚えています。その後、S先生ご夫妻が台湾へ遣わされ、教会は試練のときを経ましたが、B先生はじめ、Y先生、A先生が働きを維持され、9年前に私たちが着任するための場を保ち続けてくださいました。その頃の教会の様子については、生き証人である兄姉、先生がたが健在なうちに、是非書き残しておいていただく必要があるのではないでしょうか。

 私は9年前の春、思いがけず甘木教会を訪ねることとなりました。そして、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」(使徒16-9)というみことばに導かれ、すべてを主に委ねて甘木へ赴任してきました。当時の会堂は古く、みずぼらしかったですが、心の落ち着く場所でした。1歳半だった息子を連れて、三人で来る日も来る日も教会案内に回ったことが、つい昨日のことのように思われます。

 着任後、すぐに書き始めた週報のメッセージを、数年前から木曜にホームページニアップしています。本当に「私が書いたのかなあ」と思うような文章が多いのですが、その都度、聖霊が導いてくださった主のメッセージだったのでしょう。いつの日か、記念誌として出版できたらと、ひそかに夢見ています。

 もう一つ、着任後すぐに始めたのが聖歌隊でした。私たちとI兄姉が歌うと、誰も聞く人はいないのですが、讃美は「主にお捧げするもの」と割り切って、腹いっぱいの大声で歌っていました。今年もピーポートの大ホールで讃美しようとしていますが、神様は育み、高く引き上げてくださるものです。この記念礼拝でも、主が加えてくださった多くの兄姉と共に、厚みのある魂のハーモニーを主にお捧げできるとは、「驚くばかりの主の恵み」ではないでしょうか。

 聖書は、「福音によってあなたがたを召し」Ⅱテサロニケ2-14)と述べていますが、教会はまさに主イエス様によって呼び出された聖徒たちの集まりです。それ故に、一人一人が「高価で尊い」(イザヤ43-4)のです。復活の主イエス様に期待し、22年目に向かって、委ねられた福音のすばらしさを証してまいりましょう。



無題 | 18:48:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
不完全な世にあって、どう生きるべきか?

2004年8月週報より

私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。(詩篇90篇17節)

Kご夫妻宅にMちゃんが元気に産声を上げました。本当に喜びの知らせです。でも、Mちゃんを迎えるこの世は天国ではありません。戦争があったり、台風が来襲したり、突発的な事故が起こったりする世界です。

聖書は、神が「お造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」と伝えています。その美しい世界を汚す結果を招いたのは人間の罪です。ここに人間の苦難の原点があります。

時に神は人類に災難を送ることによって、正しい道へ戻そうとすることがあります。苦難の中でこそ神の聖さと愛に気づかされ、イエス様を信じて罪から救われた方々が多いのです。ダビデは大きな罪を侵しましたが、深く悔い改め、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」と歌いました。

今年も豪雨や洪水のニュースを多く聞きました。人間の営みにとっては極度の妨害でしかありませんが、それは自然界の規則的な活動に過ぎません。そのような過酷な面をも見せ付ける世界に私たちは生きています。そして、傷を負うことによって、私たちは神のみこころを悟らねばなりません。」

私たちは「知恵を尽くし、細心の注意を払ったのに」と思うことがあります。そのように不完全な者だからこそ、救い主が来てくださったのです。愚かさと無力を嘆くのでなく、イエス様に信頼することを選びましょう。
そして、お互い不完全な者同士が赦しあい、支え合う世界となるように、イエス様と共に働かせていただきましょう。



無題 | 12:02:22 | トラックバック(0) | コメント(0)