FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

08 | 2008/09 | 10
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

「ありのままの自分」を受け入れるとき

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(第一テモテ1章15節)

 先日、小倉聖書バプテスト教会の献堂式があり、お祝いの心をもって出席させていただきました。リタイヤしてアメリカにお帰りになるはずだったB宣教師を、もうひとたび主イエス様が小倉の宣教に導かれたとは、まことに不思議というほかありません。いくつもの病を抱えておられ、最愛のL先生を天に送られた先生が、新天地に乗り込んで、新たなビジョンを掲げて宣教を開始されたのです。いささか遠くはありますが、私たちも当地の福音宣教のため、できることをもって応援させていただきましょう。

 お式において、長島めぐみバプテスト教会のK先生が説教者として立てられました。先生は高校の書道の先生だったそうですが、イエス様の救いにあずかり、大都会大阪から、人口一万人ほどの長島へ福音宣教のため赴かれ、34年間、主イエス様にお仕えしてこられたそうです。ときには涙しながら、真摯にみことばを取り次がれる先生のお姿に、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2-20)と語られた宣教者パウロを見る思いがしました。

 パウロが自らについて語った、「私は罪人のかしらです。「(Ⅰテモテ3-15)という表現には「ギクッ」とさせられます。聖い神のみことばを伝えようとする人が、「何もそこまで自分を卑しめなくてもよいのでは?」とさえ感じます。人前に立つ人が自分をよく見せようとするのは世の常だからです。たとえば、政治家や医者、教師が「罪人のかしら」だと名乗るのを聞いたとしたら、どう感じますか。普通は幻滅を感じ、誰もその人の話を聴こうとはしないでしょう。

 実は、パウロ自身、申し分のない家柄と輝かしい学歴を誇りとする人でした。しかし、彼は復活のイエス様にお会いし、自らの罪深さに打ちのめされたのです。その結果、それまで誇りとしていたものを「ちりあくた」(ピリピ3-8)と見なすほど、彼の中に価値観の大転換が生じました。それ以後、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」(Ⅰテモテ1-15)は、彼の語る説教の中心テーマとなりました。

 私たちは聖人ではなく罪人だからこそ、救い主が必要です。弱い者だからこそ、「私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエス」(1-12)に信頼するのです。すべてをご存知の神に罪を告白し、福音の恵みに基づく赦しをいただいて、喜びと感謝にあふれた歩みを始めてまいりましょう。



無題 | 19:22:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
災いの向こうに希望を見る!

2004年8月週報より
ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。
(ヨブ記5章17,18節)

今日、年間3万人もの人たちが人生に絶望していると報道されています。生きる意味を見出せなかったのかもしれません。苦悩の闇の中で自問自答を繰り返した末、悲しい結論を選んでしまうのでしょう。
ヨブは家庭に恵まれ、祝福の絶頂にありましたが、相次ぐ災難に見舞われた人です。家族を失い、自らも全身、病に侵されました。彼の妻さえ、「神をのろって死になさい。」と言うほどの悲惨な状態を味わったのです。

友人たちも、ヨブを襲った苦難は彼の隠れた罪への罰だと訴えました。こうした身近な人たちの非難は病の苦しみ以上に、ヨブを苦しめたことでしょう。

彼はどん底に突き落とされ、辛酸をなめる中で、何を悟ったのでしょうか。彼は超絶した神の聖さと偉大さに気づかされました。ヨブは礼拝者ではありましたが、自己中心の殻をかぶったままでした。苦難を経て、彼は身を低くし、「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。」と告白し、神の正しさに望みを置く信仰者へと引き上げられたのです。

自然災害や不慮の事故など、どんなに用心しても避けられないこともあります。当然人はその中で苦しみもがきます。そんな時、ヨブのように、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない。」と告白する信仰者でありたいものです。



無題 | 09:04:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
四つの「目当て」を達成する教えとは?

この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。(第一テモテ1章5節)

 学校からの連絡の中に、しばしば「目当て」という言葉が使われています。それは、「規則正しい生活をしましょう。」という目標を達成するために、具体的に起床・就寝時間を設定したり、日常の挨拶ができているかをチェックしたりすることを指しているようです。クラスの目当ても掲げられているようですし、個人的な目当ての発表を聞くこともあります。いずれの教育においても、学習者が成果を上げるためには、学習の目的をわきまえ、目標を目ざして、目当てを一つ一つ達成していく必要があります。

 イエス様が弟子たちに、「彼らを教えなさい。」(マタイ28-20)と命じられたのですから、聖書のみことばを正しく教えることは教会にとって極めて重要な務めです。そして、宣教者パウロは若き牧師テモテに宛てた手紙の中で、教会教育の四つの具体的な目標を明らかにしています。つまり、「神のみことば」として聖書を教えるということは、単に「聖書に関する知識」を増すことではなく、語られたみことばが、学習者の人格にどのような影響を及ぼしているかを問うてみる必要があるということです。

 まず、その教えが学習者の中に愛を増し加えているでしょうか。イエス様が「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を強調されたことを思い起こしましょう。(マタイ22-37~40) みことばを聴いた人たちは教会の伝道に協力しようとし、まだイエス様の救いに与っていない家族・友人・隣人のために祈り始めるようになっていきます。

 次に、教会の説教が聴衆の中に「きよい心」を育てているでしょうか。ただの「良いおはなし」で終わることなく、心に潜む罪に気づかせ、悔い改めの決心へと導いているでしょうか。聖霊に導かれた説教を聴く人たちは、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」(Ⅱコリント3-18)と、その姿変わりが美しく表現されています。

 第三に、教会で語られるメッセージは、聴く人の良心に影響を及ぼしているでしょうか。良心はすべての人に備わった能力であり、善悪の基準を示してくれます。しかし、今日、この良心の働きが鈍くなっていることは、頻発する食品偽装などから、明らかに見て取れるのではないでしょうか。聖書のメッセージは、その鈍った良心を、本来の感度へと回復する力を持っています。

 第四に、聖書の学びを通して、学習者の中に「偽りのない信仰」が育まれているでしょうか。自分を良く見せようとすることは愚かしいことですし、卑屈に自己卑下する必要もありません。自らの環境を感謝して受け入れ、神が与えてくださった能力を最大限活用して生き抜くことを、神は喜んでくださるのです。

 教会で語られるメッセージは、これらの目当てを達成しているでしょうか。私たちの祈りの生活は、讃美の奉仕は価値ある実りを生じているでしょうか。教会が主により良くお仕えしていくために、自己検証を繰り返しつつ歩んでまいりましょう。



無題 | 18:52:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
望みを抱いて「いざ出発!」

2004年8月週報より

その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
(創世記12章1,2節)

人は慣れ親しんだ生活様式を好みます。逆に言うと、変化を嫌います。ところが、現代社会は人が変わることを求めています。これに応えられずに、多くの人たちが不適応症状を起こしています。

イエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と語られました。では、この魂の生まれ変わりをもたらす信仰とはどのような内容のものでしょうか。

第一に、従う信仰です。聞いて知るだけではありません。実際に踏み出すのです。アブラハムは行く先を知りませんでしたが、旅立ちました。

バプテスマを受けて教会に加われば、親戚や町内会の付き合いはどうなるか、不安が起こってきます。いろいろな恐れがみな消えるのを待ったら、永久に信仰による出発はありません。信仰とは、不安要素をいっぱい抱えながらも、神の導きを信じて従うことです。

第二に、信仰は忍耐を伴います。礼拝を捧げ、祈る生活は何の困難にも遭うことがないと錯覚してはなりません。事実、予期せぬ不幸に見舞われることもあります。そこで、信仰の人は神の最善を信じて、今を生きるのです。

アブラハムは、「望みえないときに望みを抱いて信じました。」と記されています。彼は八方塞に見える状況の中で、なおも信じて夜明けを待つ信仰者だったのです。

第三に、神の約束への確信をあげましょう。人は過ぎ行くこの世で、永遠の御国のために備えるのです。天国に投資することは、信仰なしにできることではありません。
信仰の列伝に加えられたアブラハムでさえ、初めから立派な信仰者であったわけではありません。欠けの多い者でありながらも、なお従い続けたからこそ、彼は神の賞賛にあずかったのです。



無題 | 09:44:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
親身な友達とは?

群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。(マルコ伝2章4節)

 パラリンピックでメダルを取った選手たちが紹介されていますが、いずれもが、事故や病によって障害を持つに至った方々です。挫折の闇の中でもがき抜いた末に、障害者スポーツに人生の目標を見出し、血のにじむような練習の末、勝ち取った栄冠にちがいありません。しかし、私が最も感動するのは、むしろ、選手を支え、育てた周囲の人たちの愛や友情について書かれた記事を読むときです。これらの選手たちは、いかに絶望的な状態に陥った人でも、真実な励ましや協力があれば、思いも及ばぬ能力を発揮する可能性があるのだということを実証してくれています。

 友情の鏡とも言える人たちが聖書に出てきます。中風を患い、寝たきりとなった人を、イエス様のところへ連れ来たった四人の友達です。彼らには、是が非でも仲間を治したいという決心がありました。そして、イエス様なら治してくださるという信仰がありました。彼らは協力して行動しました。友達を救いたい一心で、屋根を剥ぐという常識破りなことまでして、無力な友をイエス様のそばへと運び来たったのです。

 「イエスは彼らの信仰を見て、(マルコ2-5)という表現は驚くべきことではありませんか。普通なら、人が救われるためには、その人本人だけの信仰が問われるはずです。しかし、イエス様は、仲間の救いのために大胆に行動した友達の信仰をも心に留めてくださったというのです。

 イエス様は、まずこの人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」(2-5)と、罪の赦しの宣言をされました。体を病み、不自由な身となった男は不満を周囲にぶつけ、身近な人たちを手こずらせていたのかもしれません。そうしては、自己嫌悪に陥っていたのでしょう。こうした「負の連鎖」を断ち切って、「光の子」(エペソ5-8)として歩み出すためには、まず、権威あるお方(イエス様)による「罪の赦しの宣言」が必要だったのです。

 イエス様によるリハビリは、そこで終わってはいません。「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」(2-11)と命じられると、彼は「すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。」(2-12)とあるように、彼の生活は一新したのです。

 イエス様は今日でも、ご自身を救い主として信頼するすべての人に、罪の赦しを宣言できる唯一のお方です。私たちの周りにも、イエス様の救いを必要としている人たちが大勢います。私たちも、あの四人の友達のように、勇気をもって、それら行き悩む人たちにイエス様を紹介させていただきましょう。



無題 | 14:05:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
状況を正しく見極めるには?

2004年8月週報より
だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。          (創世記45章8節)

聖書は、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」と告げています。私たちは人生が抗しがたい力によって、思わぬ方向に向けられていくのを感じることがあります。そのような逆境の中に身を置かされる時、私たちは状況をどう受け止めたらよいでしょうか。

ヨセフの経験は実にそのようなものでした。兄弟のねたみをかい、彼は外国へ売り飛ばされてしまいました。不幸のどん底に突き落とされたと言っても過言ではないでしょう。しかし、彼のそこでの生活は、「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、」と表現されています。

私たちにとって幸せな道は、神様と二人三脚であることです。どんな状況であっても、「神が共におられる。」と信じる人はゆとりがあります。ゆとりがあれば適切な判断ができます。そうすれば、思わぬ集中力で事に当たれます。

ヨナのように、神の命令を無視し、なお逆らい続けるなら、滅びるしかありません。そのような時には向きを変え、神のみこころに立ち返るべきです。しかし、ヨセフのように思わぬ逆境を通ることが、後に来る栄光のためであることも、しばしばあります。そのような場合には、襲ってくる試練の中にあっても、揺るがない主の見守りを信じ、委ねられた仕事を忠実に続ければよいのです。

あれやこれやと心配して、結局踏み出せずに終わってしまっては、後悔が残ります。どういう状況にあろうとも、イエス様への礼拝を第一にお捧げしましょう。その時、状況を正しく見極める神の視点が与えられます。



無題 | 08:56:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
最も大切な礼儀とは?

しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。 (ダニエル書3章18節)

 昨年、安部前首相の突然の退陣のピンチを、英断をもってリリーフした福田首相が、日本丸の舵取りを後継者に任せることとなりました。七十台とは思えぬ軽やかな語り口で、国民に落ち着きを与えてくれるリーダーだったのではないでしょうか。ショートリリーフであっても、なくてならない役回りを立派に果たされた首相に、「ご苦労様でした!」と拍手を贈りたいと思います。

 一国の王であったソロモンは世の営みを観察しぬいた結論として、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道12-13)と達観しました。この悟りは、いつの時代にも通じる真理です。日本の舵取りに関しても、「我こそは」と名乗りを上げる人たちが大勢いることは結構なことですが、朝に夕に、神の知恵を祈り求める、預言者ダニエルのようなリーダーが、この国にも立てられることを祈りましょう。

 エルサレムがバビロンによって侵略されたとき、ダニエルは捕虜としてバビロンへ連れて行かれました。そこで、彼はしばしば偶像礼拝を強要されましたが、唯一真の神への信仰を貫き通したのです。彼はひるむことなく、「天の主に向かって高ぶり」(ダニエル5-23)と、神を冒涜した王を断罪するような、確固たる預言者でした。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29-25)とあるように、ダニエルはそのまっすぐな信仰の故に、外国の地にありながらも、総理大臣として、バビロンの繁栄に貢献したのです。

 今日、日本の家庭では、あるいは学校では、何を最も大切なこととして子どもたちに教えているのでしょうか。挨拶の大切さは、しばしば強調されています。それは正しい教育指針であるにちがいありません。しかし、聖書は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6-5)と、まず神への礼を重んずべきことを伝えています。

 私たちもかつては、神への礼など見向きもしないような無作法者でしたが、神のひとり子イエス様が、私たちを救うために十字架に架かられたことを知り、初めて神との正しい関係に返ることができました。もはや神の刑罰を恐れる必要はなく、「天のお父様!」と祈ることができるのです。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8-31)という信仰は、弱い私たちに絶対の安心を与えてくれています。

 日本において、私たちキリスト者は少数かもしれませんが、イエス様は私たちに向かって、「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5-14)と呼びかけておられます。この呼び名に恥じぬよう、言葉と生活をもって、キリストの救いの恵みを証してまいりましょう。



無題 | 15:06:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
「祝福を招く人」とは?

2004年8月週報より
ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。
(ヨナ書3章3節)

私たちは神のみこころでないと知りつつも、その道を進み続けることがあります。預言者ヨナはニネベに行くはずでしたが、その命令を無視して、反対方向ゆきの船に乗りました。人は神のみこころに逆らい続けることができるでしょうか。

ヨナの不従順は大嵐を招くこととなり、乗船していたすべての人たちを恐怖のどん底に突き落としました。この自然の脅威を通して、神様はどこまでもヨナの悔い改めを求めたのです。

私たちは自然の猛威を見聞きし、また経験することがあります。それは私たちの信仰生活を点検する良い機会となります。ヨナは、「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。」と告白し、向きを変えて、主のみこころに従いました。

神のみこころに逆らうことはできますが、堂々巡りで時間を浪費するだけです。その愚かさに早く気づいて、神と歩調を合わせましょう。そうすれば、キリストの平安に満たされます。

ヨナが神の召しに従うことによって、ニネベの罪人たちは悪を離れ、神に立ち返ったのです。ヨナの不従順は多くの人たちに迷惑をかけましたが、彼の悔い改めはおびただしい人々の救いとなりました。
「世界の運命は私たちクリスチャンの信仰姿勢にかかっている!」

というぐらいに考えましょう。甘木教会がイエス様に忠実にお仕えすることは、まちがいなく甘木市民の祝福になるのです。



無題 | 09:24:48 | トラックバック(0) | コメント(0)