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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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あなたを応援するお方に気づいていますか?

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。               (第一コリント3章6節)

北京オリンピックの話題で盛り上がった夏でしたが、我が家の一大事は息子の少年野球チームの県大会出場でした。小学校入学と共にチームに入れてもらいましたが、四年生ともなると、観る者たちに感涙を流させるようなプレイをするようになるのですから、子どもの成長ぶりには驚きます。彼なりに礼拝堂に立って、「天のお父様」に助けを祈って出かけて行きましたが、後ほど応援にかけつけてみると、皆が「ここで一発!」と期待する場面で、走者一掃のタイムリー二塁打をかっ飛ばしたではありませんか。拍手を贈りながら、出かける前に読んでやったヨシュア記の、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(1-9)のみことばを思い出し、神に感謝を捧げました。

 勝ち進んで第3回戦は礼拝の最中でしたが、4対0と負けている中で迎えた最終回、トップバッターで登場した彼は、試合の流れを変えるホームランをかっ飛ばしたというのです。しかも、勢いづいた彼のチームは相手のエラーも誘いつつ、5対4と逆転サヨナラ勝ちしてしまったそうです。礼拝後、その報告が入り、家内は電話口で「勝った?」、「ホームラン?」と叫んでいました。午後の試合でも先制二塁打を放ち、9対1と大勝して、ついに大会第三日目の準決勝進出ということになりました。思いがけない展開に、監督以下、スタッフの皆さんはバスや弁当の手配に嬉しい悲鳴を上げたことでしょう。

 「最終日まで残ったら?」という希望的観測が心をかすめたものの、その日には美奈宜の杜での地域集会を準備していました。家内だけは、球場近くにお住まいのOさんご家族が観戦に来てくださるということもあり、応援に行かせていただくことにしました。バイブルの集いには久方ぶりの婦人たち二名が加わってくださり、聖書が強く勧める「価値ある選択」について耳を傾けてくださいました。もし、決勝に残るようなことでもあれば、務めを果たした後、応援にかけつけたいと思い電話を入れてみますと、「勝てなかった!」という家内の残念そうな声。私も現実に戻ったように、「ベスト4に勝ち進んだなんて、すごいよ!」と応えました。猛暑の中でも熱心に練習を続けた子どもたちに、神様は夏休み最高のプレゼントをくださったのです。どうやら、涙一つ流す子もいなかったようです。十分満足し切ったのでしょう。

 どの子でも応援を待っています。応援されれば、実力以上の力を発揮します。聖書にはすべての人に向けた、神様の応援のメッセージがいっぱい詰まっています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43-3)という言葉は、あなたに向けて語られた神様の愛のメッセージです。自分を粗末にしたりしては申し訳ありません。心に、救い主イエス様の応援のみことばをたくさん蓄え、神を讃えつつ、輝いて歩んでまいりましょう。



無題 | 13:32:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
人をすばらしく造り変えていくものは?

2004年7月週報より
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
(ガラテヤ書5章22、23節)

相次ぐ車の欠陥かくしが報じられています。また、「白い湯」をブランドにしていた温泉が入浴剤で白く濁していたそうです。宿主は「怖くて、怖くて、とても言えませんでした。」と告白しています。どれほど気の晴れることのない日々だったことでしょうか。

これらはいずれも事業を守ろうとする一心からでしょうが、結果は信用の失墜に至っています。知恵を使ったつもりが、汚名を負う結果を招いています。イエス様が語られた、「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。」というみことばのとおりです。

私たちは、「御霊によって歩みなさい。」と勧められています。自分の浅知恵に頼らず、キリストのみことばを判断基準にします。その結果は九つの恵みで彩られると約束されています。
卑しい欲望でうずまいていた心にイエス様の聖霊が宿り、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の恵みを実らせてくださいます。これらは修行や努力で得られるものでなく、神のプレゼントです。

潮流に乗って魚が回遊し、大気の流れを利用して渡り鳥が移動するように、クリスチャンは聖霊の導きにゆだねます。聖霊に逆らっては航行不能です。
イエス様への礼拝を通して私たちは聖霊の推進力を受け、キリストに似る性質へと脱皮していくのです。この聖霊の働きかけに期待しましょう。



無題 | 09:16:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
「この道を究める」とは?

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 (ローマ書12章1節)

過日行なわれた大分での夏季聖会で、私は貴重な初体験をしました。それはお茶会です。主催教会の中畑牧師が、「今回のキャンプには二つの目玉があります。」と言われましたが、その一つは、もちろん大木先生のメッセージを中心とする4回の集会です。そして、残るもう一つの目玉は、長年研鑽を積んでこられた方々による本格的なお茶のふるまいでした。例年はいくつかのレクレーションが用意され、選んで参加できるのですが、今回は、子どもからお年寄りまで全員がお茶会にお招きをいただきました。

 普段なら何の鑑賞の気持ちもなく飲んでしまうお茶ですが、このときはおごそかな静寂の中に導かれたようで、お菓子をいただき、お抹茶を味わわせてもらいました。お茶席には似合った花が生けられ、所作美しくお茶が差し出されました。ゆったりと流れていく時の中で、「ああ、これもまた、忙しい日常を離れて、本来の自分を取り戻す機会なのだろう。」と思いました。私などは、その道について何の素養もありませんので、すべて適当にごまかすしかありませんでしたし、「茶の道を究める」とは、どういう境地に達することなのだろうと考えているだけでした。

 そして、ふと関連づいたのは礼拝でした。主イエス様によって召される聖なる集いです。そのために、主のしもべたちは用意をします。ある者たちは礼拝堂を清掃し、花を生け、場をふさわしく整えます。別の者たちは用事を済ませ、主のお招きに応えるため最善を尽くすのです。

 奏楽者や聖歌隊は音楽の捧げ物を準備し、説教者は一週間かけて、その朝取り次ぐべき神のみことばを祈り求めます。みことばを聴く者たちの態度は、いかにあるべきでしょうか。イエス様は、「耳のある者は聞きなさい。」(マタイ11-15)と語られましたが、これは心を注いで聴くことを促した言葉でしょう。

 私たちは「真の礼拝者」(ヨハネ4-23)に近づきたく願っています。神のみこころを祈れるようになりたいし、神の御前に立ちのぼる芳しい讃美をお捧げできるよう修練し続けていきます。一方、教会に満ちておられる聖霊は参会者に罪を気づかせ、主イエス・キリストへの信仰に導いてくださるのです。

 救い主イエス様を信じて、天の父なる神に礼拝を捧げる人の少ないことを申し訳なく感じます。しかし、そのように神を悲しませる時代だからこそ、私たちは礼拝の豊かさを極めてまいりましょう。イエス様は私たちに、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17-21)と励ましていてくださるのですから。



無題 | 15:46:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
クリスチャンが留意すべき「七つのポイント」

クリスチャンが留意すべき「七つのポイント」

2004年7月週報より
謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
(エペソ書4章2、3節)

今日は参議院選挙の投票日です。クリスチャンは○○党を支持して、誰に投票すべきと書いてあるわけではありません。では、何を基準にしたらよいでしょうか。
 また、私たちは家庭を営み、職業を通して社会と関わり、教会に属して神にお仕えします。どこにおいてもクリスチャンとして、心に留めるべきことを上げてみましょう。

1.自分の行動が他者に及ぼす影響を考慮しましょう。「からだは一つ、御霊は一つです。」とあるように、他のメンバーと共存していることを心に留めましょう。
2.教会に関して言えば、その活動が福音宣教にプラスであるかどうかが大切な基準です。また、教会全体の成長のため、自分がどう行動すべきか考えましょう。

3.自らに関しては、そのことがクリスチャンとしての成長を妨げるようなものであれば、避けた方がよいでしょう。体の健康を損ねるような悪習慣からも遠ざかるべきです。
 4.その活動を確信をもってできるかも基準です。もし、良心の痛みを感じるようであれば、そこには神の祝福はありません。

 5.そのことは神様を喜ばすものでしょうか。クリスチャンとしてふさわしい活動でしょうか。それは聖霊の助けをいただけるでしょうか。それとも、聖霊を悲しませる選択でしょうか。これらも大切な基準です。
6.その選択はイエス様に習うものであるかを考えてみましょう。イエス様がそのことをしていることを想像できますか。また、その活動をしているところへ、イエス様が来られたらどうですか。

7.私たちの生活の中心にイエス様がおられるでしょうか。また、心を込めて神を愛しているでしょうか。
キリスト者としてのものさしを持つことによって、私たちは迷いや疑いから解放され、確信をもって行動できます。



無題 | 10:55:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
私たちが目ざす「金メダル」とは?

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。
(ローマ書11章33節)

北京オリンピックで金メダルが期待されていた女子マラソンの野口みずき選手が、脚の故障のため出場を断念しました。世界のトップランナーであるために当然のこととして、過酷とも言えるような練習を続けてきたのでしょうが、ついに筋肉が悲鳴を上げてしまったのでしょう。まことに残念ではありますが、ちょっと視点を変えてみると、目前で夢を阻まれた野口選手の無念さは、誇らしげに金メダルを胸にした姿以上に、多くの人たちを励ましてくれるような気がします。なぜなら、世に勝利者は一握りであり、挫折者は、はるかに多くいるからです。今回、スタジアムで喝采を受けることはできませんでしたが、日の目を見られなくても、黙々と努力を続けている多くの人たちを慰めるとしたら、それもまた金メダルと同じく価値あることではないでしょうか。

 伝道者の書を紐解く中で、いくつかの不可解な表現に出会いました。「悲しみは笑いにまさる。」(7-3)とか、「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」(7-2)とは、いったい何を言わんとしているのかと首を傾げたのです。それは、ひねくれた観察ではないかと感じました。しかし、不幸と思える出来事が飛躍のための足がかりになることは事実です。野口選手がこのアクシデントを克服して、どのような成長を見せてくれるか楽しみです。

 世に起こる事象を、しかと観察した後、伝道者は、「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12-13)という結論に達しました。体力も、能力も、財力も、何一つとして、「自分のものだ。」と誇ることのできるものはありません。みな、神様から管理を一時的に委託されているにすぎません。それらを活用して、どれだけ神様の栄光を現せるかが問われているのです。

 キャンプでは、聖書と物理学の双方を修められた大木先生が、この世界の創造者の英知を明らかにしてくれました。人間の研究と工夫は次々に便利な商品を作り出していますが、どこまでいっても、神様の創造をまねているだけです。それにひきかえ、神様がお造りになった空気、水、植物、動物、人などは、いずれを観ても、人知をはるかに超えた精巧さで仕組まれていることに驚嘆します。

 私たちは礼拝や祈祷会を通して、「神の愛とキリストの忍耐」Ⅱテサロニケ3-5)に近づいてまいりましょう。これはキリスト者の生涯を懸けての目標です。参会者の心からあふれ来る讃美と祈りが美しく撚り合わされた礼拝、それ以上に神様をお喜ばせするものはありません。イエス様が、「霊とまことによって」(ヨハネ4-24)礼拝することを教えてくださったように。



無題 | 15:42:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
天職に「召される」とは?

2004年7月週報より

こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。                 (エペソ書4章11節)

昨今の若者たちの多くが「フリーター」という肩書きで呼ばれています。「これだ!」と思える仕事に出会うまでの、とりあえずの小遣い稼ぎといったところなのでしょう。しかし、それは天職に至る備えの期間なのです。

あなたは生まれる家庭を選びましたか。両親や自分の容姿を自分で決めましたか。それらは与えられたものであり、感謝して受け入れるべきです。この態度は幸せの原点です。

神は愛であり、私たちに最高のものをくださるのです。神がお与えくださった両親を、伴侶を、わが子を、そして自分自身を感謝しましょう。それは神をほめたたえることです。そして、仕事をも神よりの授かりものと受け止め、精いっぱい励みましょう。

また、私たちは自分でクリスチャンになったのでしょうか。まず、神が私たちを選んでくださり、呼び出してくださったのです。そして、教会を通して神に仕える者として、任命を受けたのです。
兵士たちが召集を受け、戦地で戦っています。私たちはキリストの招きを受け、福音の証人として立てられました。これこそ天職です。

この甘木の地にイエス様はおられますか。教会によって今もなお、イエス様はこの地におられます。牧師だけではありません。イエス様に呼び出された信者の群れが教会です。
この尊い使命に召されていることを感謝しましょう。そして、立派にキリストの兵士としての職責を果たしてまいりましょう。



無題 | 12:38:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
「たましいの渇き」を癒すもの

わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。            (ヨハネ伝4章14節)

箴言のみことばに、「兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」(17-17)とあります。私は七年ぶりに兄姉を訪ねることができましたが、この間、彼らは苦労を重ねながら歳をとっていました。電話などで、その一部は聞かされて、神に祈りを捧げ続けましたが、それをもって「苦しみを分け合った。」とまでは言えません。せめてこれから、彼ら家族の精神的な支えにならなければ、神に立てられた者として、責任を果たしているとは言えないでしょう。

 伝道者の書のみことばには、「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」(4-12)とあります。「三つ撚りの糸」と聞いて思い浮かべるのは教会で兄弟姉妹が祈り合っている姿です。どんなに信仰熱かろうと、祈りの応援団を必要としない人はいません。また、どんなに逆境の中を通ることがあっても、祈りの仲間に支えられている人は希望の光を見失うことはないのです。

 今回、東京を通る機会に、ディズニーランドにも立ち寄り、4時間ほど楽しませてもらいました。徹底的に「人をもてなす」という点では、あの遊園地は極みのサービスではないでしょうか。常に向上心をもって、完璧なサービスを追い求めている姿勢がヒシヒシと感じられたのです。あの「もてなし(hospitality)の心は、イエス様の教会にこそ、あふれていなければならないものにちがいありません。

 イエス様は喉の渇きを癒す井戸を指して、「「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」(ヨハネ4-13)と語られました。どんなに人を興奮させる遊園地でも、神を慕う魂の渇きを満足させることはできません。むしろ、飽きの来ないうちに離れた方が幸いです。

 では、人間が根本的に欲している魂の渇きを癒すものは何でしょうか。イエス様は、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」(4-14)と、「永遠のいのちの泉」に目を向けるよう促されました。イエス様のみことばによって、私たちは「永遠の慰めとすばらしい望み」(Ⅱテサロニケ2-16)に導かれたのです。

 最高級の遊園地でさえ与えることのできない喜びが、イエス様の救いにあることを証しましょう。そして、ひとりでも多くの人たちと手を取り合って、天の父なる神に祈りを捧げましょう。この讃美と祈りの輪の中にこそ幸せはあるのですから。



無題 | 20:09:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
「永遠のとき」に、どう備えますか?

機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
エペソ 5章16節

今回、夏季休暇をいただき、心にかかっていた千葉の兄姉の家族を七年ぶりに訪ねることができました。旅費のことを考えると、ついつい電話の語らいで済ませてしまっていましたが、両家の家族の中に立ち、主イエス様の御名により祈りを捧げ、伝道者としての務めを少しばかり果たせたような気がします。歳をとり、病を経験した兄姉は、イエス様の救いに近づいているように感じました。両家の甥たちも休暇をとって歓待してくれ、別れ際には思わず、その優しさに涙がこみ上げてきました。

 子どもたちも互いに初対面でしたが、まもなく打ち解けて、カラカラ笑い合い、兄弟を得たかのように仲良く遊んでいました。全国の鉄道に精通しているL君はもっぱらツアーガイドで、私たちの方こそ迷親にならぬよう、後を付いて回るのに必死でした。本やテレビで得た情報を本場で確認しつつ、東京、埼玉、千葉の乗り物を次々に乗り継ぎ、大満足だったにちがいありません。

 ちょうど千葉周辺の教会は合同キャンプの最中でしたが、私が育った教会を訪ね、牧師夫人と語らうひとときも与えられました。先生は「甘木の宣教レポートを読んで、いつも祈っていますよ。」と力づけてくださいました。また、諸教会に良き実りを報告できるよう、力を合わせて宣教に勤しみましょう。

 ご近所だった方を訪ねてみると、「主人と同じ癌で息子も亡くしたのよ。」と悲しみをこらえて話してくれました。その他にも、あちらでもこちらでも、癒えぬ傷跡を散見し、心が痛みました。

 聖書は、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(伝道3-2)と伝えています。イエス様を信じて、永遠のいのちを授からないかぎり、人は日々衰え、重荷は増していくばかりです。生まれるときや死ぬときは神に属することですから、誰にもどうにもなりませんが、「救いのとき」はその人の決心次第です。一人一人が自分の永遠のときを責任を持って決めることができるのです。

 心を頑なにして、神との永遠の不仲を選び取りますか?それとも、救い主イエス様に拠り頼み、神の永遠の祝福に与りますか?聖書は、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(Ⅰテモテ2-4)と訴えかけています。皆が、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」(ヘブル12-1)、主イエス様に礼拝をお捧げすることを、第一に勝ち取ってまいりましょう。



無題 | 16:08:44 | トラックバック(0) | コメント(0)