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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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正しい道を選んでゆくためには?

2004年7月週報より
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。       
(箴言3章6節)

あなたのこれまでの人生で、10の重大決心は何でしたか。それらの決心は、その後のあなたの生活に、どのような影響を与えましたか。正しい選択をしたと言えますか。それとも、その決心を後悔しますか。
 私たちの生活は決心の連続です。神のみこころを選び取るためには、

 1.聖書に聞く必要があります。キリストの弟子として互いに助け合い、愛し合うことなどは命令ですが、箴言のように、神の祝福にあずかるための原理が示されている場合もあります。また、第一に神を礼拝することもみこころにかなった選択ですし、聖書の人物たちの成功や失敗の実例からも、神の知恵をわきまえることができます。

 2.静まって思索する必要があります。みこころを求めて祈ること、牧師などの助言を仰ぐことなどは思索のために有益です。また、状況がどう動くかを見張ることも大切です。しかし、正しい状況判断のためには、聖書の命令、原理、優先順位などが尺度として用いられなければなりません。

 3.正しい決心は神のみこころに服従することを伴います。日々、キリストの聖さへと脱皮し、イエス様の心を持つ者へと造り変えていただきましょう。みことばの学び、神への讃美、日々の祈り、クリスチャン同士の交わりは私たちを霊的な高嶺へと引き上げてくれます。
 
神はそのみこころを求める者たちを愛し、聖め、強め、豊かに祝福してくださるのです。



無題 | 20:28:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
「労苦の中にしあわせを見いだす」とは?

喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。             (マタイ伝5章12節)
今回、神奈川県で牧会しておられるK先生ご夫妻が私たちを訪ねてくださり、主にある幸いな交わりをいただきました。北九州の視覚障害者信徒会で講師を務められてお疲れにもかかわらず、全盲のご夫妻が遠路旧交を温めに来てくださるとは、その行動力にあらためて敬意を表しました。放送伝道、テープ伝道に長年たずさわられた後、全盲のご夫妻でご自宅を開放しての開拓伝道に従事され、一昨年には新会堂も建て上げられました。主のみわざを崇めたことの一つは、この会堂建築の計画が進められていく中で、一人の大工さんが救われ、その方が大工としての最後の大仕事としてイエス様の会堂を見事に完成されたとのことです。「神様はイエス様を信じ、熱心にお仕えする信者を起こしてくださいます。」とのお証には実感がこもっていました。

 先生がたは牧会の傍ら、福音テープ雑誌「オアシス」の製作も続けておられますが、ジョイフルクワイヤーの讃美を取り入れてくださるとのことでしたので、先日の讃美礼拝の録音CDを差し上げました。私の甘木での伝道の証と共に、主の御用に用いていただければ幸いです。出発前に、先生は甘木教会のため、心を込めて祈りを捧げてくださり、猛暑の中を次の訪問地へと向かわれました。私も先生がたを見送りながら、残された旅の安全とお働きの祝福を祈らせていただきました。

 聖書には「すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。」(伝道3-13)とあります。私たちは労苦の中に幸せを見いだしているでしょうか。「苦労はいやなもの、避けて通りたいもの」と言うならば、本物の幸せは実感できないのかもしれません。介護は骨の折れる仕事ですが、何かをしてあげることのできる親がいるということは幸いなことです。子育てで苦労される方々もありますが、全霊を込めて祈ることのできる子どもが与えられているということが、その方自身を気丈に支えてくれています。もし、私たちが教会を建て上げるために苦労していうと言うならば、その奉仕はすばらしい神様からのプレゼントであるにちがいありません。

私たちの主イエス様ご自身、決して犠牲を厭われませんでした。「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」Ⅰペテロ2-24)とあるように、罪に苦しむ私たちの救いのために、進んで極度の労苦を耐えてくださったのです。その私たちがイエス様の教会のために祈り、捧げ、労することは当然のことであり、そこにこそ私たちの幸せはあるのです。

 思わぬ労苦を負っての人生の旅路も、決して果てしないものではありません。イエス様は、「あなたがたをわたしのもとに迎えます。」(ヨハネ14-2)と約束しておられます。この世で与えられている状況一つ一つを感謝しつつ、天の御国を目ざして、しっかりと歩みを進めてまいりましょう。



無題 | 20:12:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
七つのポイントをチェックしてみましょう。

2004年6月週報より
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。                (第一テモテ2章4節)

私たちは時折、「神様のお考えがわからない。」と言うことがあります。そんな時、聖書が明確に教えている神のみこころに従っているかどうかを、まず点検してみましょう。

 1.神様は、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ」ます。イエス様を信じ、罪から救われることは、神のみこころの第一です。

 2.「心の一新によって自分を変え」ていただくことは神のみこころです。神の礼拝のために、特別に分けられた者として、自分自身をイエス様にお捧げします。「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と教えられています。

 3.聖書は、「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。」とはっきり述べています。悪習慣を断ち切り、イエス様に仕える生活をすることは神のみこころです。

4.聖書は、「キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、」と教えています。また、聖霊に満たされることを賢い生き方として推奨しています。

 5.聖書は、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。」と法を遵守する生活を説いています。クリスチャンは勇敢なキリストのしもべであると同時に、善良な市民であるべきです。

 6.惜しむ心からでなく、喜んでする捧げ物は神のみこころです。聖書は、「神は喜んで与える人を愛してくださいます。」と約束しています。

 7.すべてのことについて感謝を言い表すことは神をお喜ばせすることです。なぜなら、私たちを愛しておられる神様は、いかなる試練をも私たちの益に変えることができるからです。
 私たちはどの点について改善が必要でしょうか。今週もイエス様の聖さに近づかせていただきましょう。



無題 | 08:21:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
人を「生かす」言葉、使えていますか?

そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。      (ローマ10章17節)

学期末恒例の授業参観があり、様子を観に出かけました。授業の内容は道徳に関するもので、親たちにも聞き応えがあったのではないでしょうか。特に、言葉の持つ影響力について、科学的な実験の結果も交えて、子どもたちの心に強い印象を残したように見受けられました。

その実験というのは、水に良い言葉がけと、悪い言葉がけをしてみて、その結晶に、どのようなちがいが生じるかを調べてみたということです。驚いたことに、「好きだよ」とか、「きれいだね」というような好印象の言葉がけをした水の結晶は形が鮮明で、キラキラ輝いているのです。ところが、「嫌いだ」とか、「汚い」とかの負の言葉がけを続けられた結晶は暗く淀んだ色になり、形もぼやけてしまったというのです。よく、バラにモーツアルトの音楽を聞かせると、きれいな花を咲かせるとか野菜に気持ちよく挨拶していると収穫量が増すとか聞いたことがありますが、水の結晶にもそのようなちがいが生じたとは、にわかには飲み込めないような話でした。

 子どもたちは次々に言われて嬉しい言葉を上げていきました。また、言われたくない言葉も上げました。先生は人間のからだは70%が水であることを説明し、みんなの中の水の結晶が、友達の言葉によって、「どんな色、どんな形になるのかなあ?」と尋ねました。最後に、多くの子どもたちが、お互いの中の水の結晶がキラキラ輝くような「親切な言葉、思いやりのある言葉、嬉しくなるような言葉を使いたい。」と決心を発表していました。

 聖書は、「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、」(詩篇19-7)、「神のことばは生きていて、力があり、」(ヘブル4-12)など、多くの表現を用いて、人の心を養う神のみことばの有用性を述べています。また、エゼキエル書37章には、干からびた骨が神のみことばを聞くことにより、息を吹き返し、互いに連なって活動を始める様子が描かれています。実に、神のみことばには希望を失い、死に瀕した魂をも生かす力があるのです。

 日々報道される痛ましい事件の多くが、抑制の糸を断ち切るような悪意ある言葉によって加速されています。逆に、プッツン寸前の激昂が、一言の慰めに満ちた言葉によって止められる場合もあります。当然、人は心に蓄えた言葉で話すしかないのですから、日ごろから神のみことばを蓄えることを心がけ、兄弟姉妹の交わりの中で、お互いの徳を高めあう言葉遣いを身に付けさせていただきましょう。

 人の心から不平不満、怒り、妬みなどの罪がとめどなく込み上げてくることがあります。そんなとき、イエス様が私たちの罪のために十字架に架かってくださったことを思い出し、祈りましょう。イエス様だけが、信じる者を新しく生まれ変わらせ、平安を取り戻してくださる神様だからです。



無題 | 14:51:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
人生には目的がある?それは何?

2004年6月週報より

こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。エペソ3章17節

私たちは日々、神様の御計画の不思議さに驚きます。「どうしてこの家庭に生まれたのだろう。」、「どうして、この伴侶と出会ったのだろう。」、「どうして、この教会に導かれたのだろう。」、その中でも最も驚くのは、神が「私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、」ということではないでしょうか。

 地球も宇宙も未だ形づくられる前に、私たちは既にクリスチャンとして選ばれていたというのです。数ある宗教の中から、私がキリスト信仰を選んだのではありません。また、神様が数十年前に思いついた計画でもありません。永遠の初めに、神は私たちを世継ぎとして決めておられたのです。

 それは、キリストのいのちにあずかることによって、私たちを「聖く、傷のない」ご自身の特別な家族に定められたということです。ここにおいて、私たちの人生の目的は明らかです。イエス・キリストへの信仰を通して、私たちは神の栄光をほめたたえるのです。

 重要な契約書には必ず印鑑が押されています。聖書は、「聖霊をもって証印を押されました。」と、私たちがキリストに所属することを宣言しています。「教会はキリストのからだ」ですから、信者はバプテスマを受け、キリストの体の一部として加わるのです。

 パウロは、「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」と地上における教会の果たす重要な役割を、その祈りにおいて示唆しています。甘木教会はキリストのからだとして良く機能しているでしょうか。どこかに障害をきたしていないでしょうか。

 永遠の初めに定められた神様の御計画を教えてくれる聖書とは何と偉大な書物でしょう。世の風潮に惑わされることなく、神のみこころを果たすことを喜びとしてまいりましょう。



無題 | 10:15:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
地球を救い、人を救うには?

主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。
(第一ペテロ3章12節)
地球規模の視点に立って、世界が直面している難問の数々を話し合う洞爺湖サミットが閉幕しました。温暖化、原油や食料価格の高騰にどう対処するか、いずれの問題も人類の死活に関る重要課題です。ソロモンは知恵ある王でしたが、「なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。」(伝道1-14)と人の努力のはかなさを嘆きました。今回、正解の要人たちの心中には、いかなる思いが残ったのでしょうか。

 知恵者ソロモン王が虚無感に侵され、開拓者魂を失ってしまったのは、神への信仰の迷いからでした。今日、世界のリーダーとして立てられている方々は、その重責の中で、全能の神に謙遜に導きを祈る思いがあったでしょうか。神を見失った世界が滅びに向かって突き進んでしまうのを、人は果たして回避できるのでしょうか。ソロモンが達した結論は、「人は神を恐れなければならない。」(伝道3-14)ということでした。

幼稚園生の息子さんを連れて釣りに行ったお父さんが、「果たしてこの魚は食べられるのだろうか?」と思案し、海をきれいにするために廃油を集める活動を始めたそうです。この活動はその地域に根を張り、他の地域にも普及に回っているそうです。スポーツジムに車で乗り付けて運動しなくても、歩いて用足しをしたら、いかがなものでしょうか。陽を上らせ、雨を降らせてくださる神様に感謝する心を持てば、私たちを取りまく環境は、優しいものへと変わっていくこと、まちがいありません。

 「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。」(箴言15-16)というみことばは、エコの原点に立ち戻らせてくれます。「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。「(15-17)というみことばは、幸せがどこにあるかに気づかせてくれます。また、イエス様は、「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(ルカ10-42)と言われました。

 すべての人に勧められている「一つ」のこととは、救い主イエス・キリストを信じて、罪の赦しをいただくことです。そうすれば、その人は、世界のあらゆる難問の解決を祈ることのできる「聖なる祭司」(Ⅰペテロ2-5)として任命されます。教会はしっかり立って、一人でも多くの罪人が悔い改めて神に立ち返ることができるよう祈り続けましょう。



無題 | 17:41:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
人は、どのようにして正しく生きうるのか?

2004年6月週報より
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。    (詩篇19篇7節)

人にはその魂をお与えになった神を求める願望が備わっています。上りくる太陽に向かって合掌したくなったり、雷のとどろきに恐れを感じたりするのは、こうした神への畏敬の表れです。これを神の自然啓示と言い、創造の偉大さを通して、神を知ることができるのです。

 ところが、自然観察によって充分に神を知りうるかというと、そうはいきません。そこで、特別啓示と呼ばれる神のみことばが必要となります。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とあるように、聖書は神について教えてくれる特別な神のみことばです。

 1.聖書のみことばは魂の食物です。聖書は、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とみことばがキリストの性質を形づくるために必須の書であることを説いています。

 2.聖書は悪しき誘惑に勝つための武器です。イエス様も誘惑者に向かって、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」という申命記のみことばを引用して巧妙な悪魔の誘惑を退けました。私たちも聖書のみことばをただしく解釈し、日々の戦いの武器として用いることができます。

 3.聖書には魂を潔める力があります。私たちはみことばを暗誦し、自らの生活に照らし合わせ、悔い改め、次の場面で思い起こし、キリストの聖さに似る者へと変えられていきます。

 4.聖書は私たちの知性を開き、正しい道を歩ませてくれます。ダビデは、「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」と、その日に必要なみことばの道案内を証しています。
 私たちはどのような姿勢で聖書に向かっているでしょうか。神のみこころを求めて聖書を読み、暗証し、聖霊が示してくださる導きに日々従ってまいりましょう。



無題 | 09:06:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
どん底へ落とされても,,,

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。         (ローマ書8章28節)

私たちは6回にわたって、ヨセフの生涯について学びました。父ヤコブの寵愛を受けていたことを妬まれた彼は、兄弟たちによってエジプトへ売られてしまいました。彼は、ひどい裏切りを経験したのです。しかも、それは信頼し切っていた兄たちの悪意に満ちた謀による外国への追放でした。

 北朝鮮に拉致された方々のことを思うと、その酷さに怒りを禁じえませんが、ヨセフの悲しみの深さは、それ以上だったことでしょう。彼は血を分けた兄弟によって売り飛ばされたのです。この悲惨な現実を、どう受け入れて、前向きな考えをすることができたでしょうか。父を懐かしんで故郷の方を見れば、自分を憎んだ兄たちの顔が浮かんでくる。彼の慰めは、どこから来るのでしょうか。

 聖書は彼が苦悩したであろうディレンマには触れることなく、「主がヨセフとともにおられたので」(創世記39-02)と、高いところからヨセフを見守る神様を描き出してくれています。地上で起こっていることは、まことに不条理なことなのですが、それらの背後に神の豊かなご計画があることに眼を向けるとき、人はいかなる境遇にあろうとも、希望をもって難局に立ち向かうことができるのです。事実、神の見守りを信じたヨセフは、「幸運な人となり」と証されています。見知らぬ国で、奴隷の身であったにもかかわらず、彼は活躍の場も与えられ、幸せ者だったのです。

 些細なことで(本人にとっては極まったことなのでしょうが)、親を恨んだり、自暴自棄になったりする人たちが増えています。私はそういう人たちに、ヨセフ物語を聴いてほしいです。物事は上っ面だけで判断してはならないのです。その人にとって、もはや為すすべのないことであっても、「神にとって不可能なことは一つもありません。」(ルカ1-37)と神は約束していてくださるからです。

 神の愛と期待を背に感じて生きている人には、どのような特徴があるでしょうか。まず、神様の目には、すべてがお見通しであることを知っていますので、正直であるはずです。そして、努力は必ず報われることを知っていますから、勤勉でもあるはずです。そうした人は全能の神が味方ですから、適切な判断を下すことができます。その結果、ヨセフはどこまで落とされても、その場のリーダーとして立てられたのです。

 私たちも主イエス様への真っすぐな信仰を貫きましょう。有識者の世相分析を聞いていると、不安が現実となり、困窮と混乱の時代に突入していくように予想されています。しかし、私たちは愛とあわれみの神に希望を置く信仰の群れ(キリストの教会)です



無題 | 13:52:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
人が幸せであるためには、何を知るべきか?

2004年6月週報より
ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。               (エペソ書5章17節)

世の人々の関心はお金儲けの方法であったり、いかにして異性の注目を集めるかであったりします。神様が自分に何を望んでおられるかに関心を寄せる人はまれです。しかし、聖書は、「あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」と神様のお考えを知ることの大事さを教えています。

 神様の御計画を知るためには、まず神様がどのようなお方であるかを理解する必要があります。聖書の中に明らかにされている神様の七つの御性質を上げてみましょう。

 1.神様は初めも終わりもなく、永遠に存在しておられます。(神の永遠性)
 2.神様は全能であり、その聖い御性質に反しない限り、不可能なことは一つもありません。
(神の全能性)
 3.神様はいたるところにおられ、神様の関わりの及ばないものは何一つありません。(神の遍在性)
 4.人間の知りうる範囲は限られていますが、神様はすべてを知っておられます。(神の全知性)
 5.神様は愛です。
6.神様は聖なるお方であり、罪の影響を受けません。
 7.神様はあらゆる権力の上に君臨される統治者です。

これらの本質的な神様の御性質を知ることによって、神に似たものとして創造された人間の生き方は決まってきます。神の本性に沿って生きることが求められており、逆らうことが罪です。
 神のみこころに沿って生きることには、次のような恵みが伴います。

 1.人生の目的を知り、進むべき方向が見えるようになります。(ピリピ3章7節から14節)
 2.直面する状況に関わりなく、喜んで生きることができます。(第二コリント6章4節から10節)
 3.永遠のいのちを実感します。(第一ヨハネ2章15節から17節)
 4.神のみこころを行う者同士は、家族以上の親しみを持つようになります。(マルコ3章34節)

己の欲のままに生きるのでなく、世の風潮に流されるのでなく、神のみこころを求めて生きることは祝福の道です。キリスト信仰に根ざして生きることは卓越した勝利に通じる生き方です。



無題 | 09:32:46 | トラックバック(0) | コメント(0)