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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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みことばの原義を死守するとは?

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。          (ローマ6章4節)

原油が高騰しているために、さまざまな業種に影響が及んでいます。その一つが漁業への影響です。魚を捕っても、燃料代を引くと、利益が残らないそうで、近々、漁師たちが一斉休業をして、窮状を訴えるそうです。命がけで労苦しながら、「くたびれ儲け」では、「なんと、すべてがむなしいことよ

 そのような状況下で、なんとか利益を確保しようとすれば、悪知恵を働かせて、さまざまな偽装に走る者たちもいます。現に、違法行為が露見し、廃業に追い込まれる事例も増えています。果たして、当局は違反を取り締まり切れるのでしょうか。

 世の出来事を観るにつけ、教会も己の姿を省みる必要があります。私たちには無二のものさしがあります。それは聖書です。私たちの教会は、果たして神のみことばに則って建て上げられているでしょうか。
 イエス様は弟子たちに、福音を信じた人たちに、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、」(マタイ28-19)と命じられました。そして、「彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。」(使徒2-41)とあるように、教会はイエス様より授かった権威に基づいて、イエス様への信仰を告白した者たちにバプテスマを授けたのです。

 この「バプテスマ」という言葉は、世において通じないことがあるかもしれません。しかし、クリスチャンたちが聖書にある大切なこの言葉を、何か他の言葉で代用することが許されるでしょうか。「バプテスマ」と「主の晩餐」は主イエス様より授かった二つの守るべき定め(ordinance)であると、甘木聖書バプテスト教会は告白しているのです。

 聖書翻訳の任に当たられた先生がたが、なぜ、日本人にわかりやすい言葉を使わずに、あえて「バプテスマ」という原語を用いられたのでしょうか。それは、この儀式が持つ奥義を表す適切な日本語を見出しえなかったからにちがいありません。そうであるならば、私たちは安易に流れるのではなく、バプテスマの奥義をただしく理解する努力をすべきです。

 パウロはテサロニケの教会を、「あなたがたの信仰が目に見えて成長し、」(Ⅱ1-3)と賞賛しました。それは、彼らがイエス様のみことばを尊び、忠実に従おうとしていたからです。世においても法令順守が叫ばれ、懸命の努力が積まれています。私たちも聖書を信仰と生活の規範としていただいていることを誇りとし、その内容を正しく理解する努力を続けましょう。そして、「主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、」(Ⅰテサロニケ5-23)とあるように、主に忠なる教会を建て上げてまいりましょう。



無題 | 13:27:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
良き仲間の一員とされている幸い

2004年5月週報より
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
(エペソ書1章23節)

私たちは「使徒の働き」の学びを通して、キリスト教会の成立と福音の進展の様子を見てきました。それは、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき」というイエス様の予言から始まります。そして、宣教師パウロが囚人としてローマに到達し、幽閉の身でありながらも福音を語り続けるところで終わります。

 あのローマで囚われの身であったパウロがエペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書を執筆したかと思うと、新たな感動がこみ上げてきます。ユダヤ人たちはパウロを捕らえることはできても、聖霊の働きを押しとどめることはできませんでした。イエス様の十字架と復活は信者たちの口を通して証され、筆によって広められていったのです。

 私たちの教会もイエス様が、「地の果てにまで」と命じられた世界宣教によって結んだ実なのです。そして、私たちも更に地の果てに向かって、キリストの証人として立てられています。イエス様は、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束されたではありませんか。

 イエス様の霊が満ちている教会に属しているとは力強いことです。イエス様を歌い、御名により祈り、みことばを聴くことによって、教会は聖霊に満たされます。逆に言うと、悪霊の惑わしから守られます。
 聖書は、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。」と告げています。教会に集い合うことを喜び、キリストの御霊に満たされ、尊い福音の証人としていただきましょう。



無題 | 08:06:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
災害は何かを警告しているのか?

たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。            (イザヤ書54章10節)

中国の巨大地震から間もないにもかかわらず、東北地方で再び震災が起こりました。被災された皆様と、救援活動にたずさわる方々に、神の守りと助けを切にお祈り申し上げます。今回は地震警報が放送され、発生までのわずかな時を用いて、何らかの避難行動を取った方々も少なからずおられたようです。防災研究の成果でしょうし、更に精度の高い警報を発信していただける日も遠くないことでしょう。

しかし、どんなに警報が出ても、聞かなければ、何の行動も始まりません。たとえ、聞いても、その情報を信じて行動しなければ、せっかくの速報も意味がありません。私たちは、二千年前、イエス様が世の終わりについて、そのときには、「方々にききんと地震が起こります。」(マタイ24-7)と語られたことを思い出します。そして、これは真剣に聴くべき神の警告ではないでしょうか。

 では、世の終わりに生きているということを知ったなら、私たちは、どう行動したらよいのでしょうか。イエス様は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4-17)と心の向きを変えることを促しておられます。「世の終わり」と聞いて、あわてたり、絶望したり、自暴自棄になったりすることは愚かなことです。私たちの罪を担って十字架に架かってくださったイエス様こそ、「われらの救いの岩」(詩篇95-1)であり、「祝福された望み」(テトス2-13)なのです。

 私たちは新たに「伝道者の書」の学びも加えました。その書は、「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」(1-2)と始まります。そして、延々と生きることの虚しさが書き連ねられていくのです。救いの書であるはずの聖書に、どうして、これほど執拗に虚無が描き出されているのでしょうか。それは、真の神を知らない人生の虚しさを悟らせるためです。

 どんなにテクノロジーが進歩し、便利な携帯を手にしていても、生きる喜びや将来への希望をくれるわけではありません。聖書は、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」(ヤコブ1-17)と教えています。正しい神への信仰こそが満ち足りた平安と確かな希望を与えます。私たちはこの不安の時代にあって、救い主の「永遠のいのち」の希望を証してまいりましょう。



無題 | 17:11:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
残された行程を、どう生き抜くか?

2004年5月週報より
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
(使徒20章24節)

私たちはさまざまな人々の生き方を見聞きし、自分自身の生き方を模索します。今日はパウロが語った冒頭のみことばから、クリスチャンの生き方について考えてみましょう。

 まず、「自分の走るべき行程を走り尽くし」という句に目が留まります。最近、60歳代の女医がエベレスト登頂を果たし、5時間かけて300メートル下った所で命尽きたと報じられました。その行程はどれほど険しかったことでしょうか。しかし、彼女はそれらの困難を克服して、命をふりしぼって山頂に立ったのです。

 私たちにもキリストに召された者の走るべき行程があります。人様の道ではありません。私の道を走るのです。導かれた所でイエス様にお仕えするのです。

 次にパウロは、「任務を果たし終える」と決心を告白しています。教会は主イエス様より任務を授かっています。神の愛と救いを人々に説き聞かせることです。争いと焦燥に満ちたこの世に、永遠のいのちの希望を持ち行く務めです。

 私たちはイエス・キリストに信頼して救われました。イエス様はすべての人を救うために十字架に架かられたのです。このお方の弟子として働けることは誇り高いことではありませんか。

 第三にパウロは、「私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」と言い切っています。また、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」とも語っています。人生の目的を知り、一心不乱に歩む者の確信に満ちたことばです。

 パウロとは違い、私たちの任務は始まったばかりです。走るべき行程が前に広々と広がっています。この地域に福音の光を掲げる務めは、私たちに任されました。
 イエス様より、「忠実な教会」と声をかけていただけるよう働いてまいりましょう。罪の赦しをいただいている私たちは、既に天国を前味として味わっているのですから。



無題 | 10:34:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
鬱積した不満を取り除いてくれるのは何か?

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
(ルカ伝19章10節)
先週東京で起こった痛ましい事件に巻き込まれた方々に、神のあわれみと慰めをお祈り申し上げます。今回は残念ながら、誰もあの若者の孤独と不満を受け止め、駄々っ子のような暴挙を食い止めることはできませんでした。しかし、私たちは祈り、主イエス様と共に、闇の中で苦しむ人々の救いのために、ますます働き続けましょう。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」(Ⅰテモテ1-15)という事実に、揺るぐことのない救いの希望があるからです。

おびただしい数の人々がネットに不満を書き込んでいると聞きます。それらの気持ちを受け止めて、支えようとする善意の人たちも多くいるのでしょうが、絶望への決定打を浴びせてしまうような配慮を欠いた書き込みもあるのかもしれません。イエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイ11-28)と招いておられます。生きることに行き詰まってしまったなら、是非イエス・キリストの教会を訪ねてほしいのです。

イエス様は、「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18-27)とも約束しておられます。人に裏切られ、孤独を感じたとしても、そこで終わりではありません。いや、そこでこそ神の本物の慰めをいただくことができるのです。

聖書は、「いつも喜んでいなさい。(Ⅰテサロニケ5-16)と促しています。毎日値上がりの報道があり、凶悪な犯罪も後を絶ちません。いつ災害に巻き込まれるかもわかりません。どうして、いつも喜んでいることなどできるのでしょうか。それは、神に目を留めるときだけ可能となります。イエス様を信じた人は、罪が赦されて、永遠のいのちをいただいていることを、いつも喜ぶことができるからです。

更に、絶えず祈りなさい。」(17)とも勧めています。周囲に、安心して相談のできる人がいる人は幸いです。しかし、イエス様が教えてくださったように、「天にいます私たちの父よ。」(マタイ6-9)と神に祈ることのできる人は、すべての知恵を手にしているようなものです。

三つ目には、「すべての事について、感謝しなさい。」(18)とあります。不平不満の中に「ありがとう!」の言葉を聞くことはできません。しかし、このみことばを実践して、美しい感謝の言葉を口にする機械を増やしていきましょう。神様は、「ありがとう!」を聴くのが大好きだからです。

これら三つの美徳を、私たちの教会も実践してまいりましょう。また、少なくとも、常に脳裏に刻み、暗唱することを心がけたいものです。喜び、祈り、感謝している姿は、実にクリスチャンに似合っていると思いませんか。



無題 | 14:50:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
「自分を知る」ために、あなたに知ってほしいこととは?

2004年週報より

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。
(使徒17章27,28節)

まもなくオリンピックがアテネで開かれようとしています。ギリシアはオリンピック工事に支障があるほど、遺跡の豊富な国だと聞きます。ゼウス、ビーナスの神話や、ソクラテス、アリストテレスなどの哲学者の名もよく知られています。

 今夏、世界中の耳目を集めるであろうアテネの町の真ん中に立って、パウロは神様というお方を、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」と紹介しました。彼は町に満ちている石や木の像に心を痛めたからです。人間が神に祭り上げた偶像と、神ご自身とは比べるべきもないことを説かねばなりませんでした。

 この明らかな区別をつけることは、今日の日本人にも難しいことのようです。宗教心を持つ方々は多いのですが、「すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方」を知ろうとしません。代用品で満足しているように見受けます。

 金もうけで人より前に出ようとする人は多いですが、どれだけの人が神を知ろうと聖書を熱心に読むでしょうか。おみくじを引いて運勢を占っても、どれだけの人がイエス・キリストの十字架の意味に心を留めるでしょうか。

 聖書は、「確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」と約束しておられます。正しいルートで求めるならば、必ず神に出会えます。主イエス様のお名前によって願い事を申し上げるなら、神はその祈りに最善の答えをくださいます。

 更にパウロは、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」と説教しました。神を認めて、謙遜に歩むべきです。今週も私たちの唇から、神への感謝があふれますように。



無題 | 15:36:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
世は「光」を待っている!

あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
(マタイ伝5章15節)
四年生の息子がおやつを食べながら、「Y君は直売所を開くかも。」と言いました。春先にY君は近所のおばさんの畑の草取りをしてあげたお礼に、その畑で野菜を育てさせてもらっていると聞いたことがあります。どんな種類の野菜かはしりませんが、学校から帰ると水やりをして、育つ様子を観ているようです。そこで、クラスの何人かが、「直売所を開けばいいよ。」と提案したそうです。「そんな善意の輪で育った野菜なら、お母さんも買いたいなあ!」と妻が言いました。更に、Y君が売り上げを義捐金に捧げることができたら、なんと美しい物語として完結することでしょうか。

 内戦やエイズで親を亡くしたウガンダの孤児たちが、宣教師によって育てられ、「私は忘れられていない」、「神様は私の名前を知っている」と、日本の各地で神様を褒め歌うコンサートを開いたそうです。イエス様は子どもたちをこよなく愛し、「わたしのところに来させなさい。」(マタイ19-14)と招かれましたが、その心を受け継ぐ宣教師によって、幸薄かった子どもたちが、勇気と希望を証する聖徒となっているとは、感動ではありませんか。

 イエス様は二千年前に世の終わりについて、「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24-12)と語られました。そのような兆候を示す出来事を耳にしない日はありません。しかし、聖書は私たちに、「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子ども」(Ⅰテサロニケ5-5)であると教えています。あちらからも、こちらからも、イエス様の光を灯す働きの報告が聞こえてきます。私たちも励まされて、イエス様のみことばを実践し、主のしもべとしての務めに勤しんでまいりましょう。
 
教会は、「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」Ⅰテ
サロニケ5-11)と勧められています。「気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」(5-14)との命も受けています。むずかしい要求のように思えますが、イエス様のお名前により皆が祈るとき、人は罪を悔い改め、次第に聖さを求める者へと変えられていくのです。

 私たち自身もかつては「気ままな者」、「小心な者」、「弱い者」でした。しかし、イエス様を信じて生まれ変わり、「光の子ども」(エペソ5-8)とされました。今こそ、世に光を放つ教会を立て上げるイエス様の働きに用いていただこうではありませんか。



無題 | 15:59:29 | トラックバック(0) | コメント(0)
良き母となるためには?

2004年母の日週報より
私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。                  (第二テモテ1章5節)

私たち皆に神は母を備えて養育係りとしてくださいました。今日はその「お母さん」に感謝を表す日です。この麗しい習慣はバプテスト教会から始まりました。

聖書は、「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。」と親孝行を奨励しています。この母子の特別な関係は終生続く人間関係の基礎です。母としてわが子を愛することは全世界を愛することに通じ、子として母の恩を感謝することは神に感謝することに通じます。

テモテの祖母と母は純粋な信仰に生きた女性たちでした。エペソの青年牧師として立つようになったテモテの人となりは、これらのクリスチャン女性たちの信仰姿勢から強い影響を受けて形づくられたものです。
 ロイスとユニケはイエス様を愛し、教会に仕える婦人たちだったのでしょう。その後姿を見て、テモテは信仰を学んでいったにちがいありません。ユニケはテモテの母であり、最高の教師でした。

クリスチャン女性たちの純粋な信仰はそのこどもたちへの影響にとどまりません。教会に集うこどもたちや青年たちを包むのです。そして、多くの若者たちがイエスさまの愛を知るに至ります。

一人の人が神の御前に成人するまでには、長い養育の時を要します。母自身もキリストの弟子として日々育てられています。その手に聖書という最高の教科書を握り、その口から神への祈りの絶えない母を持つ子は幸いです。
謙遜に、また忠実にイエス様にお仕えする教会の姉妹たちを主が豊かに祝福してくださいますように。



無題 | 13:13:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
時の兆候を観て、今、何を為すべきか?

神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。                   (第一テサロニケ5章9節)

BS甘木工場で班長としての研修を積んでいたポーランドの二人の青年たちが研修を終えて国へお帰りになるということで、ご挨拶がてら礼拝に集ってくださいました。同じ聖書の箇所をポーランド語で読んでくれましたが、美しい響きでした。以前、中国からの留学生クリスチャンが中国語で詩篇23編を読んでくれたことがありますが、そのとき感じたと同じ感動がありました。神のみことばは、多くの言語に翻訳され、読む人々を永遠のいのちへと導いているのです。

 「機会を十分に生かして用いなさい。」(エペソ5-16)とありますので、ホームページのアドレスを伝え、「ポーランドでも聖歌隊の讃美が聴けますよ。」と教えてあげました。ご家族に、日本の田舎町にもイエス様を愛する教会があることを証してくれることでしょう。立派な班長になるのみならず、彼らがポーランドの地で、イエス様の福音のためにも熱心に仕えてくださることを祈ります。

 私は彼らが初めて玄関に現れたとき、一瞬「どうしよう!」と、恐れを感じたことを思い出します。しかし、彼らの主がイエス様であることを聞き、すぐに打ち解けて歓迎させていただきました。イエス様の十字架は「隔ての壁を打ちこわし」(エペソ2-14)とあるように、「御霊の一致」(エペソ4-3)で、見知らぬ者同士をも、たちまち旧友のごとく相和させてくださるのです。

 人はどれほど長い間身近に暮らしても、胸襟を開けないこともあります。それはお互いの中にある罪が壁となっているからです。しかし、イエス様を信じて神との障壁を取り除かれたクリスチャンたちは、同じ主によって救われた多くの兄弟姉妹を世界中に持つことができます。どんな異国の地に行くことがあっても、イエス様の教会を訪ねれば、そこで兄姉に遭うことができるのです。これは実に幸いなクリスチャンの特権です。

 四川の被災者を助けるために、若者たちをはじめ、中国各地から100万人ものヴォランティアがやってきて、活動していると聞きました。国際的な救援の申し出も相次いでいます。ミャンマーの軍事政府も自国のサイクロン被災地に、世界の善意を受け入れる動きがあるようです。被災者の苦労は始まったばかりですが、自分たちと苦難を分かち合おうとしてくれる仲間がいることを知り、どれほど勇気付けられていることでしょうか。

 ところで、誰があのような大災害が、あの日、あの地を襲うことを予測したでしょうか。しかし、聖書は、「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。」Ⅰテサロニケ(5-3)と世の終わりについて警告しているのです。心を低くして、この警告に耳を傾ける者は幸いです。神様は「情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられ(詩篇145-8)るからです。罪を悔い改めてイエス様の十字架を仰ぎ見る者こそ、確かに救われます。



無題 | 17:01:46 | トラックバック(0) | コメント(0)