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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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力を合わせて前進するには?

2004年5月週報より
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(エペソ書2章8,9節)

人は孤立して生きるものではありませんから、共通の関心をもつ人たちが会を作ります。もちろん、家族はあらゆる集まりの核です。そこから隣組、学校、会社、果ては政府、国連などと拡がっていきます。
 そして、これらの会は目的や規則を決めたり、活動を促進するために会議を開きます。イエス様が招集される教会においても、会議は重要です。

 初代教会において「激しい対立と論争が生じた」と記されています。さまざまな背景をもつ人たちで構成された教会でしたから、遅かれ早かれ問題が噴出してくることは避けられなかったでしょう。そこで、その問題を解決するため、教会は会議を開いたのです。

 世の中の会議と教会のそれとの違いは、指針としての聖書を持っていることです。会員が各自の主張を貫くためでなく、聖書に基づいて神の御意思を知るために着座します。
 ですから、教会の会議は礼拝の後に開かれるべきです。更に重要なことを討議する場合は、その前に主の晩餐式が催されることもふさわしい機会でしょう。

 初代教会では、「人はどのようにして救われるか。」を討議しましたが、今日の教会はこれを繰り返す必要はありません。冒頭のみことばにあるように、人はキリストへの信仰によって救われることを聖書が明らかにしているからです。

 しかし、この地域(朝倉周辺)の人たちにキリストの福音の豊かさをどう知っていただくかについては話し合う必要があります。宗教も生き方も多様化しているこの時代に、どう聖書の真理を伝えるかは、大いに討議されねばならないでしょう。
 更に、イエス様の宣教の前進のために、財政的検討もなされるべきです。イエス様の教会は、尊い御救いにあずかった教会員の責任ある参与によって、今もなお堅固に立ち続けています。



無題 | 13:16:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
大災害の多発する「末の世」にあって、どう生きるべきか?

勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。(ローマ12章11節)

中国四川大地震の被害の甚大さにもたじろがず、懸命な救済の手が伸べられています。500万人余もの人々が、一瞬にして住む家を失ってしまうような大災害が、かつてあったのでしょうか。中学校の倒壊で一人息子を亡くしたお母さんが深い悲しみの中で語られた、「「生きるということは、なんと大変なことでしょうか。今生きている人たちに、生命あることを大切にしてほしいです。」という一言が心に響いています。前途有望な少年が無念にも夢を断たれた、なのに、どうして生きている者たちが不平を言う資格があるでしょうか。神様に、いかほど感謝しても、足らぬほど、私たちは恩恵の只中に生きているのではないでしょうか。

 聖書は私たちに、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」(コロサイ3-12)と教えています。同情心はイエス様の救いをいただいた者が身に着けるべき美質の筆頭に上げられているのです。イエス様が、「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9-36)とあるように、私たちも震災やサイクロン被災者の痛みを感じつつ、あわれみ深い全能の神に祈りを捧げ続けましょう。
 また、聖書は、「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(Ⅰテサロニケ4-11)とも教えています。地球の温暖化、原油価格の高騰、食糧不足、巨大化する自然災害の多発、どれもこれも世の終わりの兆候とも考えられます。であれば、もはや学ぶことや、務めに勤しむことは意味がないのでしょうか。そうではありません。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6-2)とあるように、すべての人が意を決して、神に立ち返るべき時なのです。

 今回の震災では何千という数の校舎が倒壊し、将来ある子どもたちが犠牲になりました。お母さんたちは、「手抜き工事による人災だ!」と訴えています。自然災害は避けられないかもしれませんが、人の研究と、正直な働きがあれば、被害を減ずることはできます。

 教会の働きにも手抜きがあってはなりません。みことばは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし」と、繰り返し促しています。私たちは神の御用に分かたれた聖なる者として、忠実に教会に委ねられた職責を果たしてまいりましょう。



無題 | 14:32:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
交わり(仲間)の輪を拡げよう!

2004年4月週報より


彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。           (使徒13章2,3節)

互いに安否を問い合う家族、親戚、友人がたくさんいることは幸いです。人手を必要としていれば助力し、折にかなって励まし合います。エルサレム教会とアンテオケ教会の間にも、そのような麗しい関係がありました。

 エルサレム教会は主要な役員であったバルナバをアンテオケへ遣わしましたし、エルサレム教会が困窮した折には、アンテオケ教会は最大限の援助を惜しみませんでした。このような温かい兄弟愛の交わりのあるところに、福音の前進があり、教会の成長があります。

 私たちも今朝、名古屋聖書バプテスト教会のT姉、N姉の訪問に接し、大きな励ましをいただいています。4年半前、名古屋BBCは祈りをもって伝道者家族を甘木教会へ送り出してくださり、その後も安否を問い続けていてくださいます。これは聖書に観る教会間の交わりの実践です。

 バルナバは最初にアンテオケ教会を訪れた時、「神の恵みを見て喜び、」とあります。訪問には宣教地の実を見る楽しみがあります。また、それは開拓伝道の困難を分かち合う奉仕の機会でもあります。
 私たちはどう交わりの手を差し伸べることができるでしょうか。また、その行為を感謝して受ける信頼があるでしょうか。イエス様は教会に交わりの拡大を求めておられます。それは神の愛を伝える宣教の働きです。

 諸教会の祈りと交わりに応える唯一の道は、イエス様の救いを証し続けることです。私たちの周りには、援助の手を待つ多くの魂があり、祈りの支えを必要としています。



無題 | 12:33:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
大災害を通して、何を学び得るのか?

この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。           (マタイ伝24章35節)

五月の朝倉路を辿りながら、教会案内「幸せであるために」を配布して回っています。行く先々で穏やかな春の光景を観ることができ、「こんな平和な暮らしの中では、救いの必要性を感じないかも?」などと思ってしまうほどでした。そんな矢先に、同じアジアに暮らす人々が未曾有の災害に襲われました。まだ強い余震のある現地に、日本の救助隊も到着したとのことです。私たちもミャンマーや中国四川省での救済活動のため、神のあわれみと助けを祈らせていただきましょう。

 ミャンマーでは新憲法案の是非を問う国民投票、中国では国の威信を懸けたオリンピックを目前にして、これら二つの大災害は相次いで起こりました。私たちは、このことをも神の警告として受け止めるべきではないでしょうか。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」(箴言19-21)というみことばが私の脳裏を掠めます。イエス様が教えてくださったように、私たちは「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6-10)と祈りつつ、一日一日、聖なる神の御前に謙遜に歩ませていただきたいものです。

 八月には中国は人間の最高の力と技を競う舞台となるはずでした。しかし、その前に、世界中から祈り、愛、援助、同情などが集まる場となってほしいものです。それは、オリンピックの成功以上に遥かに価値ある、人類愛の実践の場だからです。この痛ましい災害の中でこそ、神は本当の金メダルとは何であるかを教えてくださるにちがいありません。

 九州は「台風銀座」日本は「地震大国」などと称されるように、これらの災害は明日はわが身なのです。いろいろと備えることはあるのですが、イエス様が語られた、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14-1)というみことばを、まず心に留めましょう。そして、台風も地震も、「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8-39)とあるのですから、全能の神に委ねてまいりましょう。



無題 | 16:59:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
チャンスは、あなたの前にあります!

2004年4月週報より
そこでペテロは、口を開いてこういった。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。 (使徒10章34,35節)

韓国のテレビドラマ「冬のソナタ」が人気を集めているそうです。その出会いと別れのドラマティックな演出が視聴者の心を掴んだのでしょう。
 一人の人、あるいは一家族が救われるまでには、神の見えざる御手が幾重にも働いています。コルネリオの家族の場合もまさにそうでした。ある日、御使いが彼に現れて、「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」と告げます。

 彼は神に特別目を留めていただいていました。彼の神と人に誠実に仕える生活は、芳しい香りとして、神の御前に立ち上っていたと表現されています。
 神は彼の救いのためにキリストの証人ペテロに語りかけ、やがて彼のところへ遣わしました。そして、コルネリオはイエス様の福音を聞き、家族もろとも信じて救われたのです。

 聖書は、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」と招いています。このような神の語りかけを聞く耳を持っていますか。それに聞き従う素直な信仰がありますか。コルネリオは従って神の祝福をいただいたのです。

 神は偏りなく、すべての人にチャンスをくださると約束しています。人生の成功者になるかどうかは、このチャンスを掴むか否かです。高慢を棄て、イエス様を仰ぎ、信頼しましょう。
 神に信頼するところには次の瞬間への期待があります。祝福の道が開けるのを信じて待ちます。復活されたイエス様への信仰は勝利なのです。



無題 | 12:43:51 | トラックバック(0) | コメント(0)
みんなで思いやりの輪を拡げましょう!

母の日に寄せて

また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。            (第一テサロニケ3章12節)

私が千葉にいた頃に知り合った二人の青年たちが、たまに電話をかけてくれます。彼らは、いずれも家庭的に恵まれず、精神的な弱さをも負っていました。ところが、そんなハンディを持つ彼らだけが、今なお、おりおりに様子を聞かせてくれるのです。先日、一人が、「S君が仕事に就けました。」と知らせてくれました。これまで生保を受けていたが、働けることになったと、嬉しそうに話してくれたのです。彼自身、弱さを抱えているのですが、更に弱い仲間に援助の手を惜しまない生き方に、キリストに習っている姿を見ることができました。

 彼らは社会の底辺で暮らしている人たちかもしれません。しかし、幸いにも彼らはイエス様のみことばを聞くことができ、それを支えに励まし合っているのです。彼らの育った環境には闇が深く垂れ込めていたのですが、イエス様の「いのちの光」が灯ったのです。イエス様は、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18-20)との約束を、いたるところで実現し続けていてくださいます。

 パウロがテサロニケの教会に送った手紙を読むと、熱い愛の通い合いを感じることができます。彼は、「私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたい」、「あなたがたは私たちの愛する者となった」(Ⅰテサロニケ2-8)とまで言えるほど離れているテサロニケの信者たちを愛していました。また、「あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて」、「あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっている」(3-6)とあるように、教会も宣教者パウロを慕い、彼の働きのため神に祈り続けていたのです。なんと麗しい師弟関係ではないでしょうか。

 今日は母の日です。お母さんの召天記念日に、アンナ・ジャービスさんは教会の皆さんに、いつも聖書のみことばをもって養育してくれた母の愛を感謝して白いカーネーションを贈ったそうです。ささやかながら美しいこの愛の表現は、今や世界住で記念されるようになっています。

 この日はまた、「愛の日」、あるいは「感謝の日」とも呼ぶことができるでしょう。親子はもちろんのこと、夫婦、兄弟姉妹、友達、同僚、隣人、一人でも多くの人たちを、イエス様が愛されたように、聖い心で大切にさせていただきましょう。殺伐とした出来事が頻発する時代に、イエス様の愛の輪を、私たちの祈りと讃美の歌声をもって、大きく拡げていこうではありませんか。



無題 | 15:17:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
「永遠のいのち」を持つとは?

2004年4月週報より
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
(ヨハネ伝20章21節)

私は庭先から斜面に広がる竹やぶを見て育ちました。この時期、黒土を割って伸び行くたけのこの勢いに感動したものです。今は庭に生え出るアスパラに触れてみるのが好きです。力強い生命の躍動を感じます。
 一方、死は冷酷です。どんなに呼んでも応えません。石のように硬く沈黙したままです。
 今日、私たちはキリストの復活祭を祝います。私たちの主イエス様は死を克服し、よみがえられた神です。弟子たちに現れ、彼らに聖霊を与え、世界宣教に遣わされました。
 キリスト信仰には死を超えた永遠のいのちへの希望があります。死は通過点に過ぎません。永遠に主イエス様と共に生きるのです。

 イエス様は、「自分の宝は、天にたくわえなさい。」と語られました。主はこの世の勤労を否定されたのではありません。死の向こうにある永遠の時に目を向けて、今をどう生きるかを教えてくださったのです。
 連日イラクに平和をもたらすために、危険を覚悟して働く人々の様子が聞こえてきます。私たちはイエス様の働きに従軍した者です。どれだけ忠実に使命を遂行しているでしょうか。
 キリストの福音は信じる者に永遠のいのちをもたらします。死の泥沼から救われた人は神をほめ讃え、他者のため真剣に祈るようになります。

 キリストの教会と福音宣教の苦労を共にしましょう。それはイエス様の弟子にふさわしい生き方です。イエス様の十字架の苦しみが、私たちに復活と永遠のいのちの希望をくださったのですから。



無題 | 14:19:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
人を心から「愛せる」ためには?

あなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
(第一テサロニケ2章8節)

先日、息子の担任の先生が家庭訪問してくださいました。先生のお話をうかがっていて、このクラスは、「先生と子どもたちの双方が感動しつつ成長しているなあ。」と感じました。朝の時間を活用しての百人一首も盛り上がり、息子も決勝で惜敗したものの、難しい古典の短歌をスラスラと暗唱しつつあるほどです。この時期の竹の子のように、破竹の勢いで成長している子どもたちの歓声が聞こえてくるようでした。

 よく、日本の教育は教え込もうとする傾向が強く、国際的に学力が高いとされるフィンランドでは、好奇心をうまく誘発して、潜在力を引き出していると比較されます。おそらく、どちらの手法も必要なのでしょう。そして、H先生のように、「毎朝、子どもたちに会うのが楽しみです。」というほどに、子どもたちが大好きで教育に当たってくださることこそが、子どもたちの生き生きとした成長に不可欠な条件なのでしょう。

 パウロは、「私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思った」と言うほどに、テサロニケの教会を愛したと語っています。「母がその子どもたちを養い育てるように」(2-7)とも、「父がその子どもに対してするように」(2-11)とも証しています。彼はテサロニケの教会に、「神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じ」2-12)たのですが、それが聞き入れられたのは、彼の言葉がキリストの愛に裏打ちされていたからにちがいありません。

 私たちは自分自身が充実した生き方を欲するのみならず、関りある周囲の人々にも良い影響を及ぼす人でありたいと願います。しかし、現実には人の徳を高めるように関るというのは難しいものです。だから、主イエス様はくりかえし、「「わたしにとどまりなさい。」(ヨハネ15-4)と招いておられるのです。イエス様とチームを組んでいるなら、「そういう人は多くの実を結びます。」(15-5)と約束されていることに期待しましょう。

 多くの人たちが何を足がかりにして立ったらよいか迷っています。私たちがいただいたイエス様のみことばは時代の荒波にも耐える真理です。この五月も、教会はこの「永遠のいのちの福音」を、喜びをもって世に紹介してまいりましょう。



無題 | 13:42:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
あなたも必死で求めてみませんか?

1999年11月週報より
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。  (1テモテ2章4、5節)

 イスラエルの国で神との交わりを断たれ、社会からも隔離される病気がありました。その病名を今日特定することはできませんが、ある種の重い皮膚病だったようです。それは人に伝染するわけでもないのに、なぜか「けがれた病気」とされ、神からも、社会からも隔離されたのです。

 この人の味わった孤独、くやしさ、恨みはどれほどだったことでしょう。彼は必死で「きよめられる」ことを願いました。そして、イエス様を見るやいなや叫びました。「イエス様、あなたは私のこのけがれをきよめてくださいます」と。
 そして、イエス様は手を延べて、「私のこころだ、きよくなれ」と宣言されました。彼のけがれは取り除かれ、全くきよくされました。

 この人は神との交わりが断たれていることの悲惨を深く味わった人でした。だからこそ、神との交わりの回復を必死で願ったのです。すべての祝福は神から来るのにその道が閉ざされている不幸を痛感していたからです。

 あなたはすべての祝福をくださる神と心が通じていますか。神はあなたが救いを必死で求めるのを待っておられます。「イエス様、罪人の私をあわれんでください!」と叫ぶなら、イエス様は「あなたの罪は赦された」と宣言する権威をお持ちです。
 そうです。このイエス様の他に、神に対するあなたの無礼を赦すことのできるお方はありません。



無題 | 13:20:39 | トラックバック(0) | コメント(0)