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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
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「愛されている」ことに気づいてますか?

私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。(第一テサロニケ2章4節)

先日、小学四年生の授業を参観してきました。国語の授業で、辞書の引き方を習っていました。その中で、先生は「大」という漢字は、「人が手足を広げた様」を表したものであると説明しました。その後で、二つのクイズを出されました。皆さんも考えてみてください。一つは、では、人が地の上にいる様を表した漢字は何でしょうか。次に、人の上に大空が広がる様を表した漢字は何でしょうか。

子どもたちは元気に思いつく漢字を次々に上げていきました。ひとしきりすると、手は上げてみたものの、指されても沈黙したままの子もいます。そんな子に先生は、『「忘れました。」と言って座ればいいんだよ。』と言って、手を挙げた勇気を褒めていました。その後のクラス全員の音読の流暢さに感心したのですが、あれはきっと、先生の「認めてやって伸ばす」指導法の成果だったのでしょう。こんな先生の下で、潜在能力を引き出されていく子どもたちは幸いにちがいありません。

 パウロはテサロニケの教会に宛てて、「神に愛されている兄弟たち。」(Ⅰテサロニケ1-4)と呼びかけています。また、「神に選ばれた者」であるとも伝えています。これ以上に人を感動し、励ます呼びかけがあるでしょうか。では、事実、私たちひとりひとりもまた天地の創造者なる神に、このように声をかけていただいていることに気づいているでしょうか。

 「神は、実に、」と始まるみことば(ヨハネ3-16)があります。神が「すべての人を愛しておられる」と伝えているのですが、それが事実であると強調しているのです。その愛の大きさは、私たちの罪の身代わりに、そのひとり子イエス様を十字架に架けるほどだと言うのです。すべての人に、「あなたはこれほど神様に愛されているんですよ!」と伝えてあげましょう。この愛を知らずに、自分を粗末にしている人たちが実に多いのですから。

 教会は「神に認められて福音をゆだねられた者」と表現されています。あれやこれやと、することは多くあったとしても、クリスチャンはこの福音の証の使命に召された者であることを忘れてはなりません。この春も、教会は大いに神様をお喜ばせする歩みをしてまいりましょう。



無題 | 19:17:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
難局を切り抜けていくためには?

1999年11月週報より
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。  (エペソ6章11節)

 ネヘミヤの優れたリーダーシップのもと、人々は発憤し、本腰を入れて取り組んだので、城壁は半分の高さまで建て直されてきました。そうなると、黙っていないのは反対者たちです。とうていできっこないとたかおくくっていたところ、あっという間に仕事の半分を仕上げてしまったのですから。

 遠まきにあざけっていた妨害者たちは実働を開始し、エルサレムへ攻め入ってきました。そうなると、味方の中にも弱気になる者たちも出てきます。その状況の困難に目を奪われて、「もう、私たちにこの仕事を仕上げることはできない」と、着手した時の信仰をなくしてしまうわけです。

 労働者たちの様子を的確に見ることのできたネヘミヤはすかさず立ち上がり、妨害者の勢いに動揺することなく、神に信頼すべきことをメッセージしました。「私たちの神が私たちのために戦ってくださる」、と彼らを励ましたのです。
 神に信頼した彼らは自ら武装し、この聖なる戦いに臨みました。あなたはキリスト兵士として武装ができていますか。神の教会を建て上げ、福音を広めていく者としての支度ができていますか。

 聖書のみことばは「御霊の剣」です。あなたの中にしっかりと蓄えられていますか。絶えず目を覚まして、御霊によって祈っていますか。私たちの信仰姿勢が整えられていく時、その時こそ、神が私たちのために戦ってくださっているのをはっきり見ることができるのです。



無題 | 09:48:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
良き模範(モデル)を観る幸いとは?

あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。            (第一テサロニケ1章6、7節)

しばらく前から、お掃除に来られた姉妹たちが、「最近、甘木に外人が増えましたねえ。」と話しているのを聞いていました。この日曜日に、その謎が解けました。彼らはポーランドにあるブリジストンの工場から生産管理の研修に来られた人たちだったのです。そのうちのお二人が礼拝に出席してくださり、わけを話してくれました。もちろん、日本から指導者が行って、ノウハウを教えるのでしょうが、手っ取り早く、確実な指導法は、彼らを日本に連れて来て、現場で体験させることだったのでしょう。

 また、読売新聞主催の少年野球教室が催され、元巨人軍の貞岡投手と山倉保守が、子どもたちの指導に当たってくれました。息子は山倉さんから呼び止められて、キャッチのモデルになったそうです。一流選手のピッチングやバッティングを目の当たりにできたことは、感受性の高い子どもたちに強い印象を残したことでしょう。

 人が成長し、個を確立していくためには、良いモデルを観ることが大切だと言われます。観て、まねるのです。その過程を「学習」とも呼びます。およそ、すべての技術は、こうして次世代へと継承されていくものなのでしょう。

 パウロは自身が関ったテサロニケの教会において、この学習が速やかになされ、学習者が次の初心者の良い模範となっていったと賞賛しています。そして、その過程は「ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによった」(1-5)とも表現されています。テサロニケの教会は単なる知識の伝達の場にとどまらず、天来の強い推進力を伴った、キリストのいのちの躍動する場だったにちがいありません。

 知らず知らずに、子どもが親の一挙手一投足を模倣していくように、後輩のクリスチャンは、信仰生活の在り様を先輩たちから学んでいるものなのです。これは、神の御前に責任重大です。しかし、私たちには最高の師であり、主であるイエス様がおられますから、安心です。私たちは、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さ」(ヘブル12-2)ぬよう気をつけさえすればよいのです。

 イエス様への信仰に基づいて、教会における個々の役割を皆がわきまえ、喜んで主にお仕えしてまいりましょう。そうすれば、私たちも何処にあろうと、主イエス様を映し出す良いモデルとなり得るのです。



無題 | 15:02:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
「やる気」は、どこから来るのか?

1999年10月週報より
こうして、私たちは城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。民に働く気があったからである。  (ネヘミヤ4-6)

 エルサレムの城壁が建て直されてくるのを見て、妨害者たちがネヘミヤとその働き人たちを侮辱しました。しかし、彼らは裁きを全能者にゆだね、ひたすら工事に身を入れました。そして、とうとう半分まで工事は仕上がってきました。それは彼らに「やる気」があったからです。

 同じ仕事をしても、やる気のある人と、ない人では、その結果が全く子となります。自分が召された仕事をよくわきまえ、気持ちを集中して取り組むなら、必ずその仕事を立派に完成することができます。
 キリスト者はイエス様をリーダーとする神の使命に召された者です。取るに足りないような者が、あえて選ばれ、召されたのです。あなたは「やる気」をもってイエス様に仕えていますか。

 本気でイエス様に仕えようとする人に、神はその無尽蔵の恵みを降り注いでくださるのです。「自分に力はない」、「私は何もできない」と言うのは、目があなた自身に向いていて、復活されたイエス様に向いていません。

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 (ヨハネ11-25,26)



無題 | 10:36:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
喜んで働きたい!そのためには?

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。          (ヨハネ伝6章27節)

新学年の始まった学校で保護者会があり、そこで聞いた話に感動しました。「お母さんたちが来るから」というので、子どもたちが6回も雑巾がけして、床をピカピカに磨き上げたというのです。また、先生が配慮して、「宿題は無理して持って帰らなくてもいいよ。」と言ったら、皆が持ち帰り、翌朝、全員が提出したとのことです。とかく、「言われなければ、やらない、言われても、やらない」などと非難されがちな子どもたちですが、そこまでやる気を興させた先生のリーダーシップは大したものではありませんか。

一方では、あるイベントのために、皆が丹精込めて育てたチューリップを、何者かが一晩のうちに切り倒してしまったという悲しむべき報道もありました。また、中国が威信をかけて成功させようとしているオリンピックの聖火リレーも、激しい妨害に遭っています。リーダーが必死に旗振りしても、人の気持ちをそろえるのは至難の業なのです。

パウロはテサロニケの教会に宛てた手紙で、その教会を三つの美質の故に、高く評価しました。まず第一に、「信仰の働き」を上げています。テサロニケの教会は烏合の衆ではありませんでした。しっかりとキリストの福音に根ざし、働きを推し進めていたのです。文化活動でもなく、政治運動でもありません。教会は神のみことばを宣べ伝える働きを第一としていたのです。

次の特質として、「愛の労苦」が上げられています。労苦とは具体的な奉仕の業を指すのでしょう。会堂を清掃して礼拝に備えること、案内を作り、教会の働きを多くの人々に紹介していくこと、音楽を整え、神の愛と聖さを証していくこと、他者のための祈りなど、奉仕は限りなくあるはずです。そして、神への感謝と、人への愛に基づいている奉仕は自発的であり、喜びの実です。

三つ目の美質として、「主イエス・キリストへの望みの忍耐」が上げられています。正しい目的であったとしても、一つの目標に向かって進もうとすれば、必ず抵抗が生じ、妨害に発展することさえあります。そんなとき、はっきりと描かれた希望を持っている人は幸いです。その希望から来る励ましが、ついに目標を達成させてくれるからです。

 教会の働きは主イエス様から私たちに託されたものです。生きがいが見つからずに、さまよっている人たちに、「道であり、真理であり、いのち」(ヨハネ14-6)であるお方を紹介する奉仕です。いつの日か、主は私たちを、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25-21)と迎えてくださいます。この希望が、私たちに忍耐しつつ前進する力を与えてくれるのです。



無題 | 16:58:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
妨害に、どう対処するか?

1999年10月週報より
こうして、大祭司エルヤシブは、その兄弟の祭司たちと、羊の門の再建に取りかかった。彼らはそれを聖別して、とびらを取りつけた。
(ネヘミヤ3章1節)

 一つの事業を始める時、必ず起こってくるのが妨害、あるいは抵抗です。ネヘミヤたちの城壁再建にも反対者たちが現れました。「おまえたちはいったい何をしているのか。」
 あなたの信仰生活を妨害しようとする人、あるいは抵抗が起こってくる時、あなたはどうしますか。それが静まるまで、とりあえず信仰は棚上げにしますか。

 ネヘミヤの態度ははっきりしていました。「あなたがたは神を知らないし、神の仕事に関係ない人たちだ。この仕事は神の仕事であり、そのしもべである私たちだけが参加することができるのだ。」
 私たちクリスチャンは人と平和に暮らすように教えられています。しかし、神との関係を壊そうとする力とは戦わなければなりません。イエス様は私たちの身代わりに十字架にかかってくださったのです。そして、いま私たちは罪赦されているのです。

 信仰のない人たちに、その価値は全くわかりません。しかし、このイエス様は私たち信仰者の「いのち」です。死を打ち破って復活された神です。
 何物もこのイエス様を礼拝する生き方を妨害する権利はありません。私たち甘木聖書バプテスト教会は小さな群れです。しかし、ネヘミヤのようにはっきりとイエス様への信仰を告白する群れでありましょう。



無題 | 13:50:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
心を自由にする最良の方法は?

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。                  (マタイ伝5章16節)

ジュニアキャンプから帰ると、留守番電話に外国人らしき人がメッセージを残していました。「誰だろう?」と思いつつ連絡してみると、韓国から公演に来られたクリスチャン劇団の方々でした。日曜礼拝を捧げたいのだが、午前の公演があるので、午後の公演の前に、ホテルで礼拝をしてもらえないかとのことです。その地で「こどもフェスティバル」が開かれているのを知っていましたので、事のいきさつに合点がいき、出張礼拝をさせていただくことにしました。

通訳の方が出迎えてくださり、お部屋に通されると、そこには12人の劇団員の皆さんが待ち受けておられました。外国の地で、慣れない日本語での公演の最中にもかかわらず、牧師を呼んでまで、主の日の礼拝を捧げようとは、筋金入りの信仰ではありませんか。イエス様は、「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15-5)と語られましたが、彼らこそ、主の教えの実践者です。

公演にも招いてくださり、劇を拝見しましたが、家族愛がストレートに表現されていて、こどもフェスティバルにふさわしい作品でした。こどもたちに晴れやかな心を育ててあげたいとの主催者の意図も、よく伝わってきました。悪質な大衆文化が、こどもたちの心を蝕んでいる時代であればこそ、純粋な愛を伝える彼らの働きは、ますます価値を増していくことでしょう。

桜も満開、新入生、新社会人の希望に満ちた船出です。そんな喜び満開の春なのに、殺伐とした報道が増しています。季節になれば、花は当然咲くのですが、人の心は、そうはいかないようです。イエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」」(ヨハネ3-3)と語られましたが、人は心の大変革を必要としているのです。

 罪で汚れた心には、神の愛の美しさは写りません。イエス様の十字架の血潮で聖められてこそ、心の目が開かれて、「ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。」(詩篇147-1)と、真の神を讃えることができるのです。
今朝は2008年度最初の礼拝です。私たちは、どのような心構えをすべきでしょうか。一年を通し、大いに主イエス様を褒め歌おうではありませんか。それが罪の誘惑に打ち勝ち、救い主を証するための最良の方法であると信じるからです。



無題 | 14:50:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
向きを変えて生きてみませんか?


2004年3月週報より
そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。     (使徒3章19節)

新芽が吹き出すこの季節になると、故郷の野山のあざやかな若葉の輝きを思い出します。でも、ある日、山越えをした時、道に迷ってしまったことがあります。不安になって、涙が出てきました。

 幸い、私は迷った地点まで返ることにしましたから、歩き慣れた道に戻ることができました。「悔い改める」というのは向きを変えることです。神様が招いておられる道に戻ることです。
 正しい道に返るのに遅過ぎるということはありません。気づいた時に返ればいいのです。その時、しっかりと心の姿勢を変える必要があります。

 聖書は、「心の一新によって自分を変えなさい。」と勧めています。イエス様の十字架を拝することは罪をぬぐい去られることであり、心を一新していただくことです。その結果、イエス様を心に迎えた人の生活には質の変化が伴ってきます。

 まず、イエス様のみことばを慕い求めます。自らの弱さを悟り、神のみことばの支えに信頼するようになります。

 次に、神の助けを求めます。イエス様の御名を拝借し、私たちの願いをお伝えします。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。」と全幅の信頼をもって祈ります。
 立ち返るべき神を知る人は幸いです。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」とみことばに聞き従う人の心は常に潤っています。
 私たちの歩みは確かに神の道を踏みしめているでしょうか。



無題 | 15:26:24 | トラックバック(0) | コメント(0)