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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
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今の若者たちに欠けていて、必要なものは?

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。                  (ヨハネ伝15章5節)

春休み恒例のジュニアキャンプに参加し、リフレッシュされて帰ってきました。38教会から260名のジュニアたちプラス引率者が集い合い、「walking with Jesus(イエスと共に歩もう)」のテーマのもと、信仰の喜びにあふれた三日間でした。特別編成のオーケストラや聖歌隊の美しい讃美、祈りの中からほとばしり出てくるT先生の力強いメッセージ、ワクワクのウォークラリー、砂浜に立って、波の音を聞きながらの語らいなど、いただいた天来の祝福の数々を感謝いたします!

冒頭のみことばは三回のメッセージの中心聖句です。世の「普通」をまねるのでなく、イエス様のみことばに従い、「イエス様の友達として生きよう」とのチャレンジがあり、多くのジュニアたちが信仰の応答へと導かれました。L君も、「そうなりたい!」と祈ったそうです。次回はK教会が主催の任を負ってくださることになりましたが、来年を目ざしての彼の楽しみが、さっそく始まったようです。

一年間、クリスチャンの友達がほとんどいないような環境で信仰の闘いをしたジュニアたちが、このキャンプで、どれほど励まされて帰ることでしょうか。児童伝道、信仰教育の責任はそれぞれの教会に委ねられていますが、単独の教会では果たし切れない部分が多くあります。それらを補ってくれるのが諸教会協力によるキャンプ聖会と言えるでしょう。

 青少年たちの奇行による痛ましい事件が続いています。誰もが突然、犠牲者におとしめられるやもしれない危険に満ちた世の中です。人間の本性についてパウロは、「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」(ローマ7-14)と「万人罪人宣言」をしましたが、潜伏している罪に気づく人は少ないのが現実です。その結果、罪からの救い主の必要を感じることができないでいます。

 しかし、自分の中にも暴発しかねない恐ろしい罪があることに気づき、「父よ。彼らをお赦しください。」(ルカ23-34)と祈られたキリストの十字架を仰ぎ見る者は、誰でも救われます。それだけでなく、聖霊がその人の中に住み、罪の衝動から守ってくださるのです。

 イエス様は、「わたしにとどまりなさい。」(15-4)と招いておられます。それは礼拝を尊守し、神のみこころを求める生き方です。私たちも主イエス様が歩まれたように、失われた魂の救いのため、ますますキリストの福音を宣べ伝えてまいりましょう。



無題 | 18:48:29 | トラックバック(0) | コメント(0)
権威ある「お名前」とは?

2004年3月週報より
そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。(使徒3章16節)

聖書にはキリストの弟子たちが師の名前を使って癒しの業をする場面があります。使徒ペテロは物乞いをしていた足の不自由だった男に向かって、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と命じました。すると、たちまち彼の足は強くなり、「神を賛美し」と聖書は記しています。

 当然、この奇跡を見た人々はペテロの超人的な力に驚嘆したことでしょう。しかし、一番驚いたのは当のペテロ自身だったかもしれません。この奇跡を起こしたのは彼の力や信仰深さでないことを彼はよく知っていたからです。

 そして、彼はその力の源は「イエス・キリストのお名前にある。」と言明しました。イエス様はすでに父なる神のみもとへお帰りになっていました。しかし、弟子たちはイエス様のお名前に信頼していたのです。
 私たちは祈る時、イエス・キリストの御名によって祈ります。それはイエス様こそ救い主、私たちの罪を負ってくださった神として信頼しているからです。

 イエス・キリストの聖名を口にすることはおまじないではありません。それは信仰の告白です。このお名前には今日でも奇跡を起こす神の権威があることを認めることです。
 ですから、礼拝においてイエス・キリストを歌う魂は身に祝福をもたらします。イエス様のみことばを暗誦することは平和の武具を身に着けることです。また、声を出して聖書を読むことは悪の誘惑を追い払います。
 聖書ははっきりと、「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」と告げているのです。



無題 | 20:39:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
「いのち」とは? イースターの朝に!

 あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。   (ルカ伝24章5、6節)

 先日、家内は子どもたちを引率して科学館へ行ってきました。人体に関する特別展が開かれていたようです。肺の中に入ったり、腸の中を歩いたりしたそうです。帰ってきて聞いてみると、彼らは全館をアッという間に一回りしてしまったそうです。こうした施設は青少年の興味の展開に有益なものですが、彼らの心にどれだけの興奮と感動を残し得ているのでしょうか。

 ダビデは、「あなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」(詩篇139-13)と神を褒め称えました。彼は心臓の成り立ちや血液の働きを知っていたわけではないのですが、人の体をかくも調和良く形づくられた創造者を思い、その御業の見事さに感嘆したのです。もちろん、科学館で人体の不思議さに目を見張る子どもたちも大勢いるでしょうが、創世記1章に記されている世界の創造、次いで人が造られていく記述ほど、人の心に驚きと讃美を引き起こすものはないにちがいありません。

 それらの展示の一つ一つに神の創造に基づく解説を付けてあげることが必要です。全館のどこにも、そのような説明は皆無です。創造者を排除した人体の展示は、残念ながら「いのち」を失っています。聖書のみが、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2-7)と、人の起源について真理を告げることができるのです。

 このイースターの朝、私たちは死を打ち破り、よみがえられた救い主を褒め称えましょう。キリストの復活に関する特別展が博物館で開かれることはないでしょう。しかし、教会は信じるすべての人に永遠のいのちを与えるイエス様の救いを証するために立てられています。

人生とは一通りのことを経験し、あとは流れのままに終わっていけば、それでよいのでしょうか。確実な天国への道などないのでしょうか。イエス・キリストは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14-6)と、ご自身が確実な天国への導き手であることを宣言されました。あなたもイエス様に信頼し、確かな希望をお持ちになりませんか。



無題 | 14:33:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
「いのち」とは? イースターの朝に!

 あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。   (ルカ伝24章5、6節)

 先日、家内は子どもたちを引率して科学館へ行ってきました。人体に関する特別展が開かれていたようです。肺の中に入ったり、腸の中を歩いたりしたそうです。帰ってきて聞いてみると、彼らは全館をアッという間に一回りしてしまったそうです。こうした施設は青少年の興味の展開に有益なものですが、彼らの心にどれだけの興奮と感動を残し得ているのでしょうか。

 ダビデは、「あなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」(詩篇139-13)と神を褒め称えました。彼は心臓の成り立ちや血液の働きを知っていたわけではないのですが、人の体をかくも調和良く形づくられた創造者を思い、その御業の見事さに感嘆したのです。もちろん、科学館で人体の不思議さに目を見張る子どもたちも大勢いるでしょうが、創世記1章に記されている世界の創造、次いで人が造られていく記述ほど、人の心に驚きと讃美を引き起こすものはないにちがいありません。

 それらの展示の一つ一つに神の創造に基づく解説を付けてあげることが必要です。全館のどこにも、そのような説明は皆無です。創造者を排除した人体の展示は、残念ながら「いのち」を失っています。聖書のみが、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2-7)と、人の起源について真理を告げることができるのです。

 このイースターの朝、私たちは死を打ち破り、よみがえられた救い主を褒め称えましょう。キリストの復活に関する特別展が博物館で開かれることはないでしょう。しかし、教会は信じるすべての人に永遠のいのちを与えるイエス様の救いを証するために立てられています。

人生とは一通りのことを経験し、あとは流れのままに終わっていけば、それでよいのでしょうか。確実な天国への道などないのでしょうか。イエス・キリストは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14-6)と、ご自身が確実な天国への導き手であることを宣言されました。あなたもイエス様に信頼し、確かな希望をお持ちになりませんか。



無題 | 14:33:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
ここに赦しがあり、ここに希望がある!

2004年3月週報より

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(エペソ書2章8,9節)

 最近、同情を禁じえない事件が起こってしまいました。鳥インフルエンザの発生源となった養鶏業者夫妻が自らの死をもって謝罪の気持ちを表されました。通報が遅れたことには大きな過失があったことでしょう。しかし、渡り鳥によってもたらされたかもしれない伝染病で、まじめに事業に取り組んできた方々の人生があっという間に地に落ちてしまうことにやるせなさを覚えます。

 一方、凶悪犯罪を犯した元少年が社会復帰の団に至ったことも報じられました。その際に、この元少年にお子様の命を奪われたお母様が彼の更正を願うコメントを出しておられました。恩讐を越えて、罪を赦そうとする人の苦渋の中から発せられた愛に心打たれました。

 私たちは多かれ少なかれ、自らのいたらなさを感じ、詫びながら生きています。法律に基づいて赦される場合もあるでしょう。しかし、罪を認め心刺されている人に誰が赦しを与えることができるでしょうか。
 この悲痛な叫びに聖書は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とイエス・キリストへの信仰を勧めています。人の同情だけでは魂のうめきは癒されません。

 私たちは人の落ち度を攻めたがります。時には、その矛先を執拗に自分に向け続けます。しかし、イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と罪の赦しを宣言し、再出発を励ましてくださいます。

 波間に揺れる木の葉のような生き方でなく、この神のみことばを土台としましょう。イエス様は、「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」と語られました。イエス様の十字架を見上げるとき、そこにはいつも希望があります。



無題 | 20:34:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
悲惨な苦渋さえ癒すものは?

そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。 (第一ペテロ2章24節)

先日、水俣病の実態を語り続けている方々の活動について聴きました。澄み切った水俣湾に垂れ流された有機水銀が魚を汚染し、それを食べ続けた人たちが甚大な被害を被った、あの悲惨な公害事件です。化学会社の誘致は、その地域に繁栄をもたらしたかに見えましたが、結果は海の破壊、悲惨な奇病の多発へと屈折していきました。被害者たちは身体的苦痛はもちろんのこと、差別され、中傷され、地獄のような生活を強いられることとなったのです。
 あのような悲惨な公害を二度とくりかえさないため、生き残っている被害者の方々が体験を次世代へと語り継ごうとしておられます。それは発展という美名に隠れた破壊好意の進行でした。50年を経た今、ようやく化学会社も国も責任を認め、被害者に公式に謝罪したようですが、果たして何をもって、被害者たちの失われた幸を償うことができるのでしょうか。

 昨年、家庭内暴力で通報のあったケースが3万件近くにまで急増したという報道も耳にしました。夫から妻への暴力をはじめ、子どもへの虐待、ストーカー行為など、平穏な生活を脅かす状況が進行しています。なぜ、人々がそれほど感情を抑制できなくなっているのでしょうか。改善のためには、人権に関するクラスを更に増やせばよいのでしょうか。

 聖書は、「善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3-12)と告げていますが、それは世の現実を言い当てています。水俣病の教訓にもかかわらず、世界中で環境の破壊は増大していますし、人権侵害も悪化し続けています。神のみことばは、これらの悲惨なできごとの根本原因は人間が神の救いを必要とする罪人であるからだと指摘しています。

 今週、私たちは主イエス様が十字架へと向かって歩まれたことを覚え、受難週を過ごします。私たち罪人は詫びることはできても、罪の根を取り除くことはできません。ただ、神のひとり子イエス様だけが人類のすべての罪を負って、救いの道を開いてくださったのです。罪の被害に苦しむすべての人が、この救い主を仰いで癒されるためです。

 「ドロローサ(悲しみの道)」という歌の中にある、「私の罪のために重い十字架を負わされ、あざける者の中を耐えて行かれたイエスよ。」という歌詞が迫ってきます。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」Ⅰペテロ(2-24)というみことばも真実です。ただ恵みによって救われた私たちは、罪に苦悩するこの時代に、臆することなく救い主を証してまいりましょう。このキリストの福音にこそ真の希望があるからです。



無題 | 15:23:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
幸せな人とは?

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 (箴言3章5,6節)

幸せな生活を営むためには身近に信頼する人を持つ必要があります。信頼は安心をもたらし、安心は喜びの源です。
聖書はまず神様に信頼することを勧めています。神に信頼する生活には多くの恩恵があると告げています。

まず、私たちの進路に立ちはだかる妨害を神様が取り除いてくださると約束しています。クリスチャンは困難に直面しないのではありません。神に信頼する者には、その困難を切り開いていく知恵と根気が与えられるということです。

次に、神が嫌われることはしたくなくなります。神様から預かっているものを大切にするようになり、健康で道徳的な生活を嗜好するようになります。なぜなら、クリスチャンの内には聖霊が住んでいてくださるからです。

また、神に信頼する人は自分の環境を感謝して受け入れます。神が備えてくださったもので満ち足ります。このような人に聖書は、「あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」と、神の特別な保護を約束しています。

自分の限られた能力だけを過信する人の可能性には限りがあります。しかし、神の無限の力を引き出す方法を知っている人はどこまでも成長し続けます。

私たちの祈りのリストは増える一方です。心を尽くしてイエス様に信頼しましょう。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」と皆で告白しましょう。イエス様こそ死を打ち破られた、生ける真の神だからです。



無題 | 13:12:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
成功する子育ての秘訣とは?

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。(詩篇127篇1節)

先日、息子の野球の試合があったので、応援に行ってきました。我がチームは惜しくも決勝で惜敗しましたが、好試合を演じ、観る者たちを感動させてくれました。また、応援の親たちの真剣さも嬉しかったです。私の声援も効いたのか、息子も二本もホームランをかっ飛ばし、成長ぶりをアッピールしてくれました。

 親であれ、教会であれ、社会であれ、子どもたちの養育を委ねられているということは、実にすばらしいことです。しかし、同時に、子育ては気の抜けない大仕事でもあります。そして、親自身の成長こそが子どもの成長おも促すものであることを肝に銘じておくべきです。

 子どもの良い点を認め、褒めてやるより、ついつい足らない点を指摘して叱ることの多いのが、世の親の常のようです。では、せっかく親子という絆をいただきながら、もっと褒めてやれないのは、どうしてでしょうか。そこには、子どもを神様からお預かりしているという信仰による受け止めが欠けているように思われます。子どもは親の一部ではなく、神によって造られた立派な一人の人です。ただ、一定期間、神に祈りつつ、養育の責任を果たさせていただくだけです。

 パウロが信仰について語っている、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」(Ⅰコリント3-6)というみことばは、子育てにも言えることです。親の役割は多いのですが、人を育てることのできるのは神様のみです。最善の環境を整え、朝に晩に、神の助けを祈ってあげましょう。この祈りの務めを通して、親自身も日々育てられていくからです。

 「もう、既に手遅れです。」などと思う必要はありません。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(伝道3-1)とあるではありませんか。どの子も戦っていますから、応援団が必要です。祈ってあげましょう。励ましの声をかけてやりましょう。

 家庭に、教会に子どもの声が聞かれないとしたら、それは何を意味しているでしょうか。そこに未来はあるでしょうか。将来を背負って立つ子どもたちに、もっともっと関心を示し、期待するのは教会の大切な使命なのです。



無題 | 18:14:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
いのちと祝福は選び取るもの

2004年2月週報より
強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
(申命記31章6節)

神様は人を思いのままにあやつることなく、自由を与えてくださいました。その結果、選ぶことは人の大切な仕事となりました。朝起きたら、その日、何を着るか、何を食べるか、何をするかを決めなければなりません。そして、何を選ぶかによって、その先に異なった世界が開けていきます。

選ぶ自由を持つことはすばらしいことですが、責任は自分が負わなければなりません。聖書は、「いのち・祝福」と「死・のろい」の二つの選択肢を提示しています。もちろん、私たちはいのちと祝福を選びたいですね。

いのちと祝福の道は聖書の中で、神がはっきり語っておられることを信じることです。イエス・キリストを「わたし」の救い主として選び取るのです。この選択によって祝福と永遠のいのちは「あなた」のものです。

選択は生き方に筋道をつけてくれます。善悪を見極める基準が与えられます。目標が見えてきて、無駄な時間を過ごさなくてすむようになります。
クリスチャンでも病気にもなるし、失業することもあります。それでも、神は私たちの味方です。私たちは永遠のいのちを持ち、天国人なのです。打ちひしがれているような状況の時も、確かな希望を見据えています。

この基盤に立てば、喜んで勉強し、働くことができます。周囲に気づかい、人の役に立とうと願うようになります。失敗を恐れず、チャレンジします。神の見守りを信じているからです。
どうしてわざわざ、のろいと死の道を選ぶ必要があるでしょうか。今すぐ、いのちと祝福の道を選びましょう。朝、その日のために祈る時、神の祝福を選び取る決心をしましょう。神はすべての人を祝福するために、ひとり子イエス様をお遣わしくださったのです。



無題 | 15:04:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
残された日数の中で、どう生きるか?

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。           (Ⅰコリント1-18)
 昨晩、息子の算数の計算ちがいを指摘する妻の声が聞こえてきました。息子は「これで合っているんだ!」と声を荒げて主張していましたが、順序だてて説明され、しぶしぶ、計算ちがいを認めるに至ったようでした。そんなまちがいはいっぱいして、最終的にできるようになればいいんだよ。」と慰めてやりました。

 小学生の計算ちがいであれば何の実害もありませんが、大人のそれとなると深刻な結果を招くことがあります。アメリカのある地域などでは、ローンで家を買った人たちの20軒に一軒が家を差し押さえられ、ホームレスになっているというのです。また、金融の専門家集団であるはずの銀行が巨額の損失を出しているとも聞きます。数に関する根本的な原理が無視されて、嘘の計算に貴重な頭脳が使われているのではと疑ってしまいます。

 そんな時代に、「私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。」(詩篇90-12)と祈ったモーセの祈りが強く心に語りかけてきます。この計算は複雑な計算ではありません。誰もができるのですが、あまりしたがりません。その結果、無駄に貴重な時を浪費してしまうことが多いのではないでしょうか。

 モーセは、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。」(90-10)と人生の残りの日を算出しています。では、その計算に基づいて、何を神に願ったでしょうか。彼は、「朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください」(90-14)と祈りました。単純ですが、これが神様が私たちに望んでおられる生き方なのです。

 神様を見失ってしまうと、人は複雑怪奇な迷路に迷い込んで、単純に「ハレルヤ!」と神を喜ぶことができなくなってしまいます。それは不幸なことです。いかなる場面からでも、直ちにイエス様の十字架を仰いで、人生の軌道を修正していただきましょう。

イエス様が教えてくださったように、「天のお父様!」と、幼子のように祈りましょう。そうすることによって、私たちは悪い誘惑から守られ、正しい道を選び取る判断力を、日々養われていくのです。



無題 | 20:56:59 | トラックバック(0) | コメント(0)