FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

01 | 2008/02 | 03
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

きよい「ねたみ」とは?

2004年2月週報より
あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。
(出エジプト記34章14節)

私たちは「ねたみ」という感情を好ましいものとは思いません。それは陰湿なものであり、ぬぐい去らなければならない罪であると感じます。しかし、神様のお名前の一つが「ねたみ」であるというのは、どういうことでしょうか。

それはライバルの介入や不貞を許さないことであり、その契約を見張っていることです。神は私たちの真実な信仰を求めておられます。イエス・キリストによって知ることのできる神への無比の信仰です。この聖なる契りが「ねたみ」という言葉で表現されています。

私たちが礼拝を捧げることを忘れ、何かに夢中になっているなら、神様は聖なる憤怒をもってねたまれるのです。みことば以上に何かを読みふけるなら、やはりねたまれます。それは、私たちがイエス様との特別な関係にあるからです。

私たちはイエス様の十字架の血潮によって雪のように白く罪をぬぐわれた者です。この救い主に並びうる愛の対象はないはずです。
今の時代、お金、名声、ぜいたく、快楽など、人の心を惑わすものが満ちています。その背後にいるサタンを恐れるべきです。いたずら半分に悪に心を許すことは、取り返しのつかない不幸を招きます。

イエス様は、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」と語られました。私たちの心に鎮座まします偶像を打ち壊し、キリストの聖霊に満たされることを求めましょう。その霊的生活の麗しさと祝福は、いかばかりでしょうか!



無題 | 14:08:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
残された日を賢く生きるには?

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。  (詩篇90篇12節)

先ごろ、スノーボードを愛好する七人もの若者たちが遭難とのニュースが流れ、ハラハラさせられました。幸い、無事救出され皆が安堵したのですが。今度は働き者の漁師父子が軍艦に衝突され、懸命の捜索が続いています。そして、このような思いもかけない出来事は、この瞬間も、どこかで誰かの身に起こっています。しかし、多くの人たちは自分自身もまた、日々命の危険に瀕しているということを忘れています。

 また、突発的な事故はさておいても、何らかの致命的な病気の宣告が、この瞬間も、どこかの誰かに告げられています。そして、やがてすべての人に、この世の営みを終える瞬間が訪れるのです。モーセは、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。」(詩篇90-10)あるいは、人の一生は「移ろう草のよう」だと表現しましたが、寿命の長さは今の私たちと同じくらいだったようです。

 では、私たちに残されている日数はどれだけでしょうか。およその見当はつくかもしれませんが、正確な日数となると誰も断言はできません。また、確実に死に向かって生きている現実を直視したくないので、計算する気などないというのが本音かもしれません。しかし、死について正しく知ることは、今を最高に生きるために意義あることです。

 ヨブは命について、「主は与え、主は取られる。」(ヨブ記1-21)と、神こそが人の命の主権者であることを教えています。神が取り去られるときが来るまで、私たちは神と人に仕えて喜んで生きるのです。怠惰であってはもったいないし、生き急ぐ必要もありません。今日を大切にし、感謝して生きればよいのです。

 もし、あなたがまだイエス様の救いを受けておられないのであれば、残されている日数はそのためにあるのです。「今は恵みの時、今は救いの日です。」Ⅱコリント6-2)と神は招いておられます。明日という日が保障されているわけではないのですから、今のときに、「永遠のとき」について賢い選択をすることをお勧めします。

 幸い、すでに天国の約束をいただいている私たちは、イエス様を証するために今を、そして残されている一日一日を賢く用いる責任を負っています。貴重なときを無駄に過ごしたくはありません。やがて、主イエス様の御座の前に立つとき、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25-21)と褒めていただけるよう歩んでまいりましょう。



無題 | 17:12:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
成功を信じて立ち上がろう!

1999年10月週報より
そこで、私は彼らにことばを返して言った。「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。だから、そのしもべである私たちは、再建に取りかかっているのだ。
(ねへみや2章20節)

 とうとうエルサレムにやって来たネヘミヤは、夜のうちに町の様子を綿密に調べて回りました。そして、人々に訴えるメッセージが何であるのかを待ちました。彼は人づてに聞いた話しだけで、軽率に語る人ではありませんでした。

 彼は自分の目でしっかりと見、現状を十分に把握した上で語りました。ですから、ネヘミヤの語ったメッセージには説得力がありました。メッセージを聞いた人々は「さあ、エルサレムの再建に立ち上がろう」と奮起させられたのです。人々はネヘミヤのメッセージによって、それがやりがいのある「よい仕事」であることを理解して立ち上がったのです。

 あなたはイエス様の教会を立て上げる働きに加えられている幸いを、どれだけ感じていますか。そのために、どれだけ力を帯びて立ち上がっていますか。
 イエス様は私たちに何をしてくださったのでしょうか。命を懸けてあなたを救ってくださったのではありませんか。この主イエス様のために、さあ、私たちも立ち上がりましょう。 ネヘミヤが告白したように、神ご自身がこの「教会建設」の「よい仕事」を成功させてくださるのですから。



無題 | 13:58:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
ねたみに「さよなら」するためには?

しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。(詩篇73篇28節前半)

 人の心を蝕む罪の一つが「ねたみ」(jealousy)です。この罪に捕らわれた人は、他者の持ち物を、うらやみ、それを持っていない自分を攻めさいなみます。絶えず、誰かと自分のうわべの状態を比較していますから、時には誇ることもあるでしょうし、多くの場合、自分が不等に冷遇されていると思い込み、苦しみ続けます。この感情は誰にでも多かれ少なかれ付きまとうものですが、同僚が先に出世したり、自分が不慮の事故に遭ったときなどに、特に強く表れてくるようです。

 人がこの感情に捕らわれると、それは密かに増殖を続け、やがて人を暴走させる危険を内包しています。テロをはじめ、悲惨な事件の原因を追ってみると、この「ねたみ」に端を発していることが多いように思います。そうなると、この罪と対処することは、極めて緊急なことだと言えるでしょう。

 まず、ねたみの根には神様との関係の崩れがあります。その結果、物事の見方がゆがんできます。つまり、深みを見ることができず、表面的なことだけに幻惑され、気持ちが悪循環を繰り返すのです。ですから、この不幸な罪から解放されるためには、神様との関係修復が第一となります。

 パウロは、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8-18)と言いましたが、彼はその時点では苦難の只中にあったにもかかわらず、将来の祝福に眼を置くことにより、逆境をも感謝して受け止めたのです。これは短期間で幸不幸を決めつけるのでなく、実に永遠の視点に立って、事態を判断していたということです。彼はキリスト信仰により、神の視座から自分のありのままの姿を見ることができる者へと変えられたのです。

 アサフという人は神を敬わない者たちの中に物質的に繁栄している者のあることを見て、ねたみにさいなまれましたが、彼らの末路を見、神のそば近くあることの幸いを声を大にして証しました。私たちもイエス様の十字架の愛により、ねたみを含む罪が、すべて赦されていることを感謝しましょう。自分の力で妬みに打ち勝つことはできませんが、イエス様への信仰は私たちを、まつわりつくすべての罪から聖めてくださるのです。



無題 | 16:44:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
平和を築き上げるためには?

2004年2月週報より

そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。 (1テモテ2:1,2)

私たちの多くは戦争に関わることなく生活してきました。しかし、空襲の中を逃げ惑った話や、食べる物がなかった話を聞いたことのある人もあるでしょう。そして、今もなお相克の戦いが日常となっている民族もあります。

イエス様の「平和をつくる者は幸いです。」というみことばが焼きついているキリスト者にとって、戦争は100%悪であるように思えます。徹底した非戦論だけ
が正当なクリスチャンの選択肢であるように見えます。
しかし、旧約聖書を開くとき、神ご自身がイスラエルを導いて戦われたのを見ます。神の聖名を汚す国民を撃つために、自ら司令官として軍を率いられたのです。悪の侵攻を止め、正義を確立するための戦争を神は容認しておられます。

そこで、(聖戦)という概念が浮上してきますが、この言葉が不用意に語られてはなりません。イエス様は罪に囚われた人々を解放するために戦う、教会の司令官です。永遠のいのちを持ち行くこの戦いに従軍することだけが、聖戦と呼ぶに値します。

聖書は、人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」と教えています。私たちは日本のリーダーたちのために祈るべきです。神のみこころを求める政治家を選ぶことは大切なことです。神の公正が社会に実現されるために、声を上げるべきです。

どんなに悪がはびこっているように見えても、イエス・キリストの神こそが今もなお歴史を導いておられます。平和も繁栄もこの神より来ます。私たちの安心は、この事実にあるのです。



無題 | 15:28:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
立ち直るには、何が必要か?

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
(第一ヨハネ1章9節)

私たちがダムの周辺の家々に教会案内を配布して回っていると、散歩しているらしき若者に出会いました。「こんにちは」と声をかけ、持っていた案内を差し出し、「イエス様の教会です。読んでください。」と手渡そうとすると、彼はチラッと見て、「いいです。」と断りました。このような反応は、よくあることですから、そのまま挨拶をして別れました。更に配布を続けていると、先ほどの青年がまた近づいてきて、「あなたたちは人に迷惑をかけていませんか?」と言うのです。これは初耳の反応でした。何をしているのかと怪しまれることはあっても、面と向かって、そのように言われたのは初めてだったからです。

 私は彼に、「あなたは今日、生きる目的がありますか?」と尋ねてみました。彼は、「ありません。」と応えました。私は、「あなたのような人が神様を知り、生きる目的を知ることができるように、救い主イエス様を紹介しているんですよ。そうすることが私に与えられた生きる目的です。」と伝えました。再度差し出した案内をも彼は断りましたが、いつか教会を訪ねてくださる日を待ちたいと思います。

 ダビデの詩篇は、私たちに人間の幸せがどこにあるのかを教えてくれています。彼は王様となり、富と権力、名声と賞賛のすべてを我がものにした人物でした。しかし、彼はそれらいずれもが、幸せの根拠にはなり得ないことを知っていました。彼は、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」(32-1)と、神のふところの中で安心できることに優る幸のなきことを証したのです。

 ウガンダの佐藤宣教師からの報告で、たくさんの人たちが極度の貧しさの中にもかかわらず、喜んでイエス様を讃美している様子を聞くことができます。一方で、何やらわからないサブプライムローンなどという混ぜ物入りの金融商品をめぐって、知的階層と見なされている人たちが寝る暇もなく、大損の始末に追われているとも聞きます。単純にどちらが幸せであるかを比べることなどできないのですが、まちがいなく、イエス様の救いを受けた人たちは喜びにあふれています。そして、彼らは世界の創造者である神様を知っているのです。

 ダビデは深い挫折の中で、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、」(51-4)と、神に罪を告白するところへ立ち返りました。この再出発点は、神様がすべての人に望んでおられるところです。
 誰でも失敗もしますし、無礼の数々もしてしまいます。だから、私たちはいつも、イエス様の十字架を見上げます。そこには神の赦しがあり、「明日に向かって再スタート!」と背中を押してくださる神の励ましがあるのです。



無題 | 20:08:02 | トラックバック(0) | コメント(0)
真のゆるしを得るためには?

2004年週報より

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」
(イザヤ書1章18節)

最近、イラク会戦の理由とされた大量破壊兵器が実際にはイラクに存在しなかったという説が信憑性を帯びて語られはじめています。入って来る情報を選別し、分析し、どう行動するかは極めて大切です。

こどもを叱るには、親が正しい善悪の基準を持っていなければなりません。狂牛病や鳥インフルエンザも怖いですが、中学生が麻薬を買うために強盗するような事態をどう受け止めたらよいでしょうか。モーセの律法を学ぶ時、私たちは神の聖さと、裁きの峻厳さに身の引き締まる思いがします。

「罪から来る報酬は死です。」と聖書は罪の末路を示しています。神を冒涜すること、父に逆らう息子、不純な性行為、安息日を破ることなどが死罪に定められていたことを、恐れをもって聞くべきです。どんなに時代が許容しようと、神の法はそれを罪と定めます。

もし、私たちがモーセの律法によって裁かれるなら、何度石打の刑を受けなければならないでしょうか。そのような有罪の私たちに聖書は、「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と福音を伝えています。これは神の赦しの宣言です。

しかし、イエス様が、「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」と語られたことをも忘れてはなりません。私たちはキリスト信仰による罪の赦しを薄っぺらに解釈せぬよう自戒しましょう。



無題 | 13:49:37 | トラックバック(0) | コメント(0)
「動じない」生き方とは?

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。            (ヘブル書4章16節)

今回、中国で製造された餃子を食べた人たちの中に、重い中毒症状に陥る人たちが続出し、またまた食の安全への警戒感が広がっています。昨年もさまざまな食に関する偽装問題が取り上げられましたが、実害の報告はほとんど聞かれなかったように思います。しかし、今回の場合の症状は激烈だったようです。製造過程のどこで、どのようにして有害物質が混入したかが明らかにされ、早く適切な防止対策が採られることを願います。
 
こうしたことがあると、私たちの生活が、いかに相互信頼の上に成り立っているかを思わされます。私たちは、どこの国のどのような人が餃子を作ったかなどを考えずに食べています。お母さんが台所で作った餃子とはちがい、何人もの見知らぬ人の手を経ているにもかかわらず、暗黙の信頼の下に食べ続け、車に乗り、人と関っているのです。社会の仕組みにしろ、法にしろ、関る人にしろ、不備があるのが現実なのですが、それらを信頼して、今日も暮らしています。
 
では、この信頼が大きく崩れると、人はどうなってしまうのでしょうか。信頼よりも恐れが先立ちますと、何事も滞ってしまい、活気を失ってしまいます。更に高じれば、恐怖症となり、著しく社会生活に妨げとなることでしょう。
 
ダビデは敵に追われ、逃亡の身であり、恐れて当然の状況にありました。しかし、彼の神様への信頼は、敵への恐れを凌駕し、「私は動じない。」(詩篇27-3)と言い切ったのです。彼のその決然たる信仰の告白が、更に彼に勇気を与えたことでしょう。
 
彼が信頼して仕えた王は転じて、彼の命を狙う敵となりました。この心変わりによって受けたダビデの悲しみは、どれほど深かったことでしょうか。しかし、彼は、「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。」(27-1)と言える、揺るがない信仰を育んでいました。そして、その信仰は恐れを駆逐して、喜びの讃美を彼の心にわき上がらせたのです。
 
私たちは何もかもを妄信するものではありません。信用ならない人も情報も多いのです。だからこそ、本当に信頼できるものを持つ必要があります。イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14-6)と語られ、それを信じて従った人たちは豊かないのちを受けました。イエス様は私たちを救うために来られ、ご自身のいのちを与えてくださった救い主だからです。
 
私たちは、「わきまえのない者を賢くする。」(19-7)と約束している聖書によって健全な判断力を養っていただきましょう。そして、イエス様への信仰を基盤に、勝利の歩みをしてまいりましょう。



無題 | 17:38:58 | トラックバック(0) | コメント(0)