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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
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人間の罪を解決する方法とは?

2004年2月週報より

神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。             (ローマ8章3節)

 健全な社会は法を尊ぶ人々によって成り立ちます。そこでは、法に違反することは犯罪と見なされ、何らかの罰則を伴います。では、法は何を基準に、誰が決めるのでしょうか。
 
私たちは法の起源をモーセの律法に見ます。日本の憲法は戦後、アメリカのそれを模して制定されましたし、アメリカ、イギリスなどの憲法はその源を旧約聖書のモーセ律法にたどることができます。
 
律法は人が作ったものではありません。神が人にお与えになったものです。ですから、憲法を正しく解釈するには、その根底に脈々と流れている神のご意志に目がむけられなければなりません。
 神によって創造された最初の人アダムとエヴァの長男カインが、その弟アベルの殺人者となったことは恐れるべき事実です。このように、犯罪への傾向はごく初期に人の中に入り、今日その根深さを増しています。
 
神は罪は見逃さるべきでなく、罰っせらるべきことを命じています。そして、その裁きが公正になさるべきことを求めています。それは悪を駆逐し、社会が活き続けるためです。
 
クリスチャンは法制度を尊重します。しかし、法によって罪の問題は解決されないことも知っています。そして、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」というみことばに信頼しています。
 
イエス様が私たちの罪の身代わりに罰を受けてくださったことは、なんと驚くべき恵みでしょうか。罪の泥沼の中から、すべての人が仰ぎ見るべきはイエス・キリストの十字架の救いです。この希望を証し続けることが教会の務めなのです。



無題 | 09:24:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
恐れから解放されるには?

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。  (詩篇23篇4節)

連日トップニュースで、世界中で株価が下落していると報じられています。お金の貸し借りで経済は成り立っているのでしょうが、実態はお金をゲーム感覚でもてあそぶ状態に陥っていたのでしょう。関係者はジェットコースターの急降下を経験して、食べ物も喉を通らないかもしれません。では、彼らは株価がドンドン上がっていたときにはルンルン気分の幸せで、株価が下がった今は不幸だと思うのでしょうか。あるいは、自分の持っている株価は下がったけれども、不幸なわけではないと言えるでしょうか。

 もちろん、人の幸・不幸は、そんな単純なものではないということが総意でしょう。ホームレスにはなったけれども、家族内のいざこざから解放されて幸せだと感じる方もおられるくらいです。テロリストたちの自爆テロという恐ろしい手法の中にさえ、あくなき幸せの追求の叫びが込められているにちがいありません。

 ダビデは彼の幸せを神との関係の中に見出した人でした。名もない牧童であったとき、彼は、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(23-1)と詠いました。彼が神との関係を最も大切なものとして選んだとき、彼はすべてのものを持っていると感じ、満ち足りたのです。

 私たちはダビデのこの感動を人事として聞くだけでしょうか。それとも、「私の」信仰敬虔として告白できるでしょうか。心からの信頼をもって、「天のお父様!」と祈ることができることは、確かに無比の平安であり、私たちの喜びの源泉ではないでしょうか。

 株価が下がるどころか、人は病みもすれば、災害にも合います。それは、クリスチャンも例外ではありません。今まさに、そうした災いの只中を通っておられる方があるかもしれません。そんな中でも、主イエス様の見守り故に、「私の杯は、あふれています。」(5)と、思い切って言ってみませんか。信仰の言葉が、私たちの不平不満のもやもやを消し去ってくれるのを感じるでしょう。

 ダビデは、「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」(6)と詩篇23篇を締めくくっています。私たちも前に後ろに、主イエス様の見守りを感じ、神を褒めたたえる幸いな人生を歩ませていただきましょう。



無題 | 15:43:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
光を輝かせる生き方とは?

2004年1月週報より
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
(マタイ伝5章16節)

 ニュースで取り上げられる話題のほとんどは法律を破った人たちのことです。大人でも子どもでもわがままをしたい欲求を持っています。しかし、「それは許さんぞ!」と見張っているのが規則であり、法律です。
 これを破ると何らかの罰を受けます。では、法律のない社会がユートピアかというとそうはいきません。その末路は収拾のつかない混沌でしかありません。

 モーセを通してイスラエルに与えられた律法の中に、普遍的な規則の原理を見ることができます。法とは正義に基づくものです。また、あわれみの精神を持っています。更に正直な応答が求められます。

 時代や国情によって、人々は規則を変えます。しかし、神が定めた原則に反する法律を作ることは許されません。あらゆる規則には神の正義とあわれみが息づいていなければならないのです。

 クリスチャンは法律を遵守することに汲々とするものではなく、キリストの愛に基づいて生きるものです。規則として礼拝するのではありません。罪から救われたことを思う時、喜んで主の日を聖別します。
 健康も能力も、みな神より預かっているものです。いつの日か神にお返しします。献金はそのことを認める行為です。「我がもの」と抱え込むのでなく、「あなた様よりお預かりしています。」と遜ることです。

 世には悪法や悪習慣が芽を出し、根を張ろうとします。それらは神の承認を得られません私たちはバイブルに明らかにされている神の正義と聖さに似ることを目ざしましょう。



無題 | 14:57:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
比べもののない「喜び」とは?

あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。      (詩篇19篇13節)

昨年の流行語の一つに「鈍感力」がありました。その本を読んだことはないのですが、昨今の人の傷つきやすさに対する提言ではないかと想像します。「いじめ」の定義は、本人がいじめられたと感じる場合、客観的に見てどうであるかにかかわらず、それは「いじめ」に見なされると聞きました。そうであるならば、多少のことに動じない、鈍感な、つまり、ストレスを笑って済ませられるだけの度量を持とうということなのではないでしょうか。

 それに対し、冒頭のみことばの詩人は逆のことを求めています。彼は、「隠れている私の罪をお赦しください。」(19-12)と祈っています。本人すら気づいていない罪が隠れているかもしれない、その罪にまで及んで神の赦しを祈っているのです。言うならば、彼は罪に対する「敏感力」を求めているわけです。

 確かに健康に関しても花粉症やアレルギー体質のような過敏症に苦しむ方々が増えています。そうした患者さんがたは、「もっと鈍感になれたら、どんなにか楽に暮らせるだろうに。」と思われるのではないでしょうか。しかし、罪意識に関して、人が鈍感になることを、聖書は厳しく戒めています。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6-23)とまで言い切って、罪からきよめられることを求めているのです。

 では、人は自らを律し切って、全き者となり得るのでしょうか。それは、相次ぐ飲酒運転の事実からも明らかです。「いけない」とわかっていても、やめることができないのです。罪とは、かくも執拗に人間の中に住み着いている性質なのです。
 この罪の惑わしから、どうしたら救われるのでしょうか。パウロは、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8-1)と感嘆の声を上げました。暗雲が晴れて、満天の青空が広がるように、イエス様を仰ぎ見る者の罪は、ことごとく赦されるのです。

 盲目の賛美歌詩人ファニー・クロスビーは、「罪とがを赦され、神の子となりたる、我が魂の喜び比べうるものなし。」と歌っています。なんという晴れやかさでしょうか。私たちもイエス様に拠り頼み、罪との闘いに勝利してまいりましょう。



無題 | 16:58:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
「きよさ」を得るためには?

2004年1月週報より


あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。
(第一ペテロ1章15、16節)

昨今、世界の人々にとって共通の脅威の一つは伝染病でしょう。サーズや狂牛病、鳥インフルエンザなどは今日、広範囲な影響を及ぼしています。そして、これらの伝染を封じ込めるために公衆衛生の専門官や医療スタッフが働いています。

私たちは聖書の中に公衆衛生や検疫のルーツを見ることができます。神の民が健やかに生存していくために、神は厳しい衛生の規則をお与えになりました。そして、病者を隔離したり、全快を宣言するのは祭司(牧師)の仕事だったのです。

今日、社会の秩序を維持し、悪の侵食を食い止める働きは細かく専門化しています。そして、この衛生の規則が神から来たものであることが忘れられています。
科学的に病の性質を分析し、適切な処置に当たる専門家は神によって立てられています。また、人を取り巻く環境が汚染されれば、人類の生存も危うくなるわけですからごみ処理の働きも重要です。sa
今日、教会は人の魂のきよさを担っています。人の心が神から離れている限り、どんなに環境問題を語り、ビールスの研究をしても足りません。イエス様の十字架の血潮によって魂の汚染がきよめられる必要があります。
創造者を認め、地球の管理者の自覚をもって立つ聖とが増える時、動物は植物は、海は、川は、どんなに恩恵を受けることでしょうか。イエス様のかたられた、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」というみことばを覚えましょう。



無題 | 14:52:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
心のストレッチ

キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ書8章2節)

私は毎朝、筋肉のストレッチをするようにしています。放っておくと、次第に間接が硬縮して、あちこちを痛める恐れを感じるからです。動く範囲が狭まってしまったものを、無理に伸ばせば、痛みを引き起こしかねませんから、徐々にしなければなりません。こうして、体を柔軟にする習慣は、私にとって欠かせないものとなっています。

 ダビデの「あなたの指のわざである天を見、」(詩篇8-3)という表現を読み、これは「心のストレッチ」だと思わされました。今、どれだけの人が天の広がりに眼を向けるゆとりを持っているでしょうか。そればかりか、陽の光や星のさざめきを見て、それらが神の御手の作であることに感動し、「天のお父様!」と讃美の声を上げる人が、どれだけあるでしょうか。

 携帯メールの文字盤やゲームの画面に眼が釘付けにされている若者が増えていると聞く昨今、科学技術の進歩というものが、人の心を閉じ込めてしまう危険を内包しているのではと恐れます。もちろん、そうした分野の進歩が私たちの生活に便益をもたらしてくれていることを認め、感謝しているのですが。しかし、大空を見上げて、「天は神の栄光を語り告げ、」(詩篇19-1)と、心をストレッチする時を持つことは、人が健全であるために必須なことではないでしょうか。


 朝日を浴びることが体内時計を調節し、体を覚醒させると聞きますが、ダビデの、「太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。」(19-5)という例えを思い巡らしてみてはいかがでしょうか。太陽の存在など当たり前すぎて、気にしたこともないというのが現実かもしれません。まして、それを美しい花嫁に引き寄せられて、「その走路を喜び走る。」と表現するとは、うらやむべき心の広やかさではありませんか。

 幸いな人は、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」(詩篇1-2)とあるのは、みことばによる「心のストレッチ」の勧めだなあと思わされます。多くの人が決まりきった範囲の中で生活し、働いているのが現実です。旅行をして、視点を変えてみることなど、しばしばできるわけではありません。しかし、ちょっと席を立って、背伸ばしをして、「大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19-1)とみことばを口ずさみ、閉塞した状況を転換することはできます。

 イエス様への信仰は私たちを罪の束縛から解放し、真の自由を与えてくださったのではありませんか。この新しい年、神のみことばの豊かさに感動しつつ、讃美の声高く歩んでまいりましょう。



無題 | 16:40:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
この愛があなたを救う!

2001年1月週報より
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネ伝3章16節)

 このみことばは聖書のメッセージを凝縮して残る最後の一滴であると言われます。つまり、このみことばを正しく理解できれば、聖書全体が伝えようとしているエッセンスを捕らえたことになるわけです。
 まず、ここにはスケールの大きなラブストーリーが描かれています。誰が誰を愛しているのでしょうか。世界の創造主である神が、ご自身の性質を与えてお造りになった人間を愛しておられます。

 あなたはこのような熱い思いであなたをいつくしんでおられる神のご存在に気づいていますか。太陽、空気、土、海、すばらしい環境を備えてくださった創造主に感謝を捧げていますか。
 人間は創造主を忘れています。いや、故意に無視しています。神のことばなど聞きたくないと耳をふさいでいます。つまり、神の熱い思いに対して、人間の冷たい応答があります。

 このように反逆する人間に対する神の愛はどれほどでしょうか。それはイエス・キリストの十字架に見ることができます。神は私たち罪人が負わなければならない呪いと罰をイエス様の上に下されたのです。これは罪人を赦し、救わんとする神の愛から出た行為です。

 では、私たちはこの神の愛にどう応えたらよいのでしょうか。それは「信じる」ことです。イエス・キリストの十字架を感謝をもって仰ぎ見ることです。このお方を「私の神」として受け入れることです。ここに神との和解の道があります。

 こうしてイエス様を迎えた心に天国は始まります。神の祝福はこれらの人々の上に無限に注がれるのです。あなたはこの重大な神の問いかけに既にお応えになり、キリストに従う道を歩み始めましたか。



無題 | 14:11:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
この年、「幸せな人」になるには?

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。   (詩篇1章1、2節)

2008年、明けましておめでとうございます。皆様の上に主イエス様の見守りが豊かにあらんことを、切にお祈り申し上げます。年頭に、多くの人々が神社仏閣に出向き、幸せを祈願する様子が報じられていました。では、あとは神様任せで事足りるのでしょうか。幸せになるために、私たちは何を心がけるべきでしょうか。

幸せになるかどうかは与えられた「とき」を、どう用いるかにかかっていると言えるでしょう。神様はすべての人に今年も365日を与えてくださるのですが、使い方はまちまちです。そして、時をどう用いたかによって、それぞれ異なった結果を手にすることになります。

受験生の中にはテレビのお笑いに興じて、いっこうに課題に向かおうとしない生徒もあるかもしれませんし、ひたすら目標を目ざして努力し続ける学生もあることでしょう。その結果は、日を見るより明らかです。結果は正直に、どう時を過ごしたかを映し出します。目標をクリヤーして次の段階に進む人と、足踏みを余儀なくされる人に分かれるのです。

では、幸せな人になるために、どうしたらよいでしょうか。まず、してはいけないことを考えてみましょう。一言で言えば、だましごとに大切な時間を使ってはならないということです。空っぽどころか、有害でしかない情報が反乱していることに警戒しましょう。この世から出て生きるわけにはいきませんが、そうした悪影響を避け得るか否かは、私たちの決心次第なのです。

次に、積極的にすべきことは何でしょうか。聖書は繰り返し、神のみことばを心に蓄えることを勧めています。「みことばは、私の足のともしび、私の道の光」(詩篇119-105)と証されています。この一年、聖書に親しみ、暗唱し、熟考しつつ生活に適用することこそ、幸せな一年を過ごすための第一条件です。

年頭にあたり、もう一度、私たちが「とき」を賢く用いているかどうかチェックしてみましょう。聖書は、「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」(ヤコブ1-17)と教えています。祝福の源である主イエス様のみことばを励んで学び、いかなる状況下にあっても、感動して神をほめ讃える幸せな人へと、ますます成長させていただきましょう。



無題 | 19:25:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
死を突き抜けた「希望」とは?

2001年2月週報より
たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
(第二コリント4章16節)

 「寄る年波には勝てない」と言われ、春の青葉が秋の紅葉へと移り、冬に落葉していくように、肉体は徐々に老化の道をたどっていきます。医学の進歩やライフスタイルの変化は画期的に延命を可能にしましたが、それでも確実に人は死に向かって進んでいきます。

 では、人間にとって死は絶望でしかないのでしょうか。誰か死の向こうにある確かな希望について話してくれる人はいないのでしょうか。

 使徒パウロはキリスト信仰によって輝かしい希望に生きるようになった人です。彼は宣教の激務と直面する困難から、いつも死を意識していましたが、彼の内側には「新しいいのちが育っている」と証言することができました。

 彼にとって、死は抜け殻を捨て、新しい衣を身にまとう喜びの日だったのです。彼の日々の目標は地上に置かれている限り、イエス様の救いを宣べ伝えることでした。キリスト信仰から溢れ出てくるエネルギーは彼の衰えた肉体を支えて余りあるものでした。

 私もパウロが持ったと同じ希望をいただいていることを感謝します。体は雨風にさらされたテントのように古びていきますが、イエス様は私たちに永遠の住まいをご用意くださいました。その十字架の死をもって、私たちの罪の負債を帳消しにしてくださったのです。

 神はこのようにパウロを通して死を突き抜けた希望を教えてくださっています。そして、一人も滅びることなく、この永遠の住まいに入ることを望んでおられます。これこそ最高のビッグニュース、聞き逃してはならない喜びの知らせです。神が聖書の中にこのような真理を明らかにしていてくださることを感謝します。そして、このすばらしいニュースを知らせることこそ私たち教会の役目です。



無題 | 20:39:49 | トラックバック(0) | コメント(0)