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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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一年を顧みて

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。            (詩篇103篇2節)
クリスマスの祝福を通り過ぎてみると、年末感謝のときです。年頭の週報を見返してみますと、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12-2)のみことばが掲げられていました。果たして、私たちはみことばどおり歩んで来れたでしょうか。

新会堂が与えられ、教会は宣教の希望に燃えて、2007年をスタートしたはずでした。しかし、年初はまだまだ建築事の後始末を引きずっていましたし、そのうち内輪に病人、けが人が相次ぎ、多難な上半期を通ることとなりました。みことばに、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、」(詩篇23-4)とありますが、「私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」と、揺るがない信仰を保ち得たでしょうか。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀歌3-22)と言えるだけのような気がします。

響きの良い会堂を用いてイースターや母の日に讃美礼拝を捧げ、伝道の機会としました。新しい方々も集ってくださり盛会でしたが、教会に定着される方は起こされませんでした。そんな閉塞感を打ち破ってくれたのが秋の連合音楽祭への参加であったような気がします。大舞台に立って、緊張感をもって信仰の証を立てることにより、皆がすがすがしい感動を経験できたのではないでしょうか。

「いのちを見出す場所」、「希望への扉」の二つの教会案内の配布も用いられ、6名の方々が来会されました。車を使って、朝倉市全域、周辺の町々へと配布を続けています。この尊いご奉仕が守られ、更に多くの人々を教会にお招きできますよう、これからも心を合わせて祈り続けましょう。

インターネットのホームページに週二度メッセージを掲載し、多くの方々に読んでいただくこともできました。感謝の言葉も届いています。最近では、聖歌隊の讃美も流れるようになっています。実際、ホームページで教会を知り、訪ねてくださった方々もありました。

こども伝道も春のキッズフェローシップ、クリスマス会と、二つのビッグイベントを持つことができ、大いに祝福されました。こどもたちが家に帰り、「楽しかったよ!」と言ってくれたそうで、今後に繋がることを期待しています。苦戦続きの美奈宜の杜のバイブルの集いからも、クリスマスにT様が来会くださり、一つの前進を見ることができました。信仰者として教会生活を始めることができますよう、祈らせていただきましょう。

ここまで、主に宣教の視点から、教会の一年を回顧してみました。教会が一致して祈り続けた結果の祝福の豊かさに驚きます。大いに主を讃美し、更なる祝福の2008年へと踏み入ってまいりましょう。



無題 | 19:24:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
一年の恵を数える喜びとは?

☆2008年1月1日11時より元旦礼拝  主への讃美をもって、新年を始めてまいりましょう。
     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(2003年週報より)
天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
(詩篇103篇11節)

 クリスマスの恵みがほのぼのと心を温める中、私たちは2003年最後の礼拝に臨んでいます。一年を顧みる頃となると心に浮かぶみことばは、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」です。
神は甘木教会に3人の若者たちを加えてくださいました。海で挙行された二度のバプテスマ式の感動は、今年のクライマックスだったにちがいありません。

そして、皆が祈りと賜物を結集して臨んだクリスマス集会は、多くの人たちに真の救いを証することができました。特に、2月から継続されてきた美奈宜の杜集会はクリスマスに大輪の花を咲かせました。
小さな群れですが、神学生の伝道実習を受け入れることもできました。また、牧師が野の花フェロウシップの講師として用いていただいたことも感謝です。もちろん、K兄姉の結婚式もイエス様の栄光を現す時でした。

私たちは主の恵みを数え上げて感謝しましょう。イエス様の尊い事業に参加できたことこそ光栄なことではないでしょうか。主は何度も思いがけない方々を集会に加えてくださり、私たちを楽しませてくださったことも驚きです。

また、いくつかの病を負っておられるB先生が7月にお帰りになり、L先生と共に教会を喜ばせてくださいました。年明けにアメリカへ一時きこくされますが、また春にお会いできるのを楽しみにしましょう。
最後に、この週報をはじめ、教会の多くの働きに新しいパソコンが用いられていることも感謝しましょう。ただし、機械にふりまわされることなく、主のお働きのために賢く用いる責任があります。
主は黄たる年にどんな恵みを用意して待っていてくださるのでしょうか。年越しが実に楽しみです。



無題 | 13:39:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
クリスマスの「感動」とは?

羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。    (ルカ伝2章20節)

クリスマスとは「キリストの祭という意味で、4世紀頃、ローマで始まったようです。もともとローマには太陽の祭というものがあったそうですが、急速に広まったキリスト信仰は人々に、太陽のような明るさと温もりとをもたらしたので、太陽の祭は、やがて教会において「キリストの祭(クリスマス)」と呼ばれるようになりました。ですから、教会の歴史の中で、イエス様の降誕を祝うことは、バプテスマや主の晩餐に比べると、比較的新しい習慣であると言えるでしょう。

とは言え、イエス様のお生まれに関する聖書の記述の重要性を知れば知るほど、教会が盛んにクリスマスを祝い続けてきたわけがわかります。神ご自身が救い主として来てくださる外に、やみの中でもがいていた私たち罪人を救う方法はなかったからです。

イザヤによって、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。」(9-2)という救い主誕生の預言がなされてから、人々はなんと750年もの長きに渡り、キリストを待望し続けたのです。既に老境に達していたシメオンは幼子イエス様を腕に抱き、「私の目があなたの御救いを見たからです。」ルカ2-30)と感動を表しました。彼の讃美の中に、私たちは全人類が歓喜すべき理由を見て取ることができます。この救い主こそ、やがて十字架の上で私たちの身代わりに罪の罰を受け、いのちを与えてくださったキリストその方だからです。

つい先ごろ、この日本の、しかも九州で銃の乱射による殺傷事件が起こりました。報道によると被害者の一人は犯人を友として親しくしていたとのことです。恨みからターゲットにされるのならわからなくもありません。しかし、親友だからという理由で殺傷の的にされたり、肉親同士の争いが憎しみを増大させたりするのであれば、私たちは何を信じ、どのように人と付き合ったらよいのでしょうか。人はどこで安心できるのでしょうか。

私たちはクリスマスの主人公イエス・キリストを信じることによって、ゆるぎない平安を持っています。そればかりでなく、天使が羊飼いたちに、「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」(ルカ2-10)と告げたように、不安におののいている人々に、「ここに安心がありますよ!」と呼びかけることができます。

この祝福のクリスマス、あなたも声を合わせて、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2-14)と歌いましょう。「主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで」(詩篇100-5)だからです。



無題 | 19:59:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
「大逆転のクリスマス」とは?

2003年クリスマス週報より
主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。                         (ルカ伝1章45節)

 今から2,700年も前に預言者イザヤは、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」とキリストのお生まれについて宣言しました。しぼんだ心を生き返らせる希望のニュースです。クリスマスはそんな大逆転のチャンスです。

 私たちが歌うキャロルに、「君の心にイエス様なければ、クリスマスでも本当のクリスマスじゃない。」とあります。イエス様は暖炉のような光とぬくもりをくださる救い主です。

 イエス様が宮殿ではなく、家畜小屋でお生まれになったのは、神の深いあわれみの表れではないでしょうか。私たちの心は悪臭に満ちています。悪意や妬みでゆがんでいます。とても神様をお迎えできる状態でないのに、敢えて訪ねてくださったのです。

 物に満たされた時代は知識や情報をむさぼります。そして、決して満たされることを知りません。不平とどん欲は深まる一方です。それらは虚飾であって、魂を満たすものではないからです。
 それに比して、クリスマスの舞台に登場する人たちの神への讃歌にはいのちの躍動があります。真の神と和らいだ者だけが味わう魂の平安です。そこには感謝があります。自分の環境を神の恵みとして受け止め、漏れなく感謝するのです。

 神のプレゼントは救い主イエスさまです。イエス様によって、私たちは神との平和を、人との和解を、罪の赦しを受けるのです。このクリスマス、あなたの心の真ん中にイエス・キリストが住んでおられますか。
 聖書に、「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」とあります。このクリスマス、私たちはイエス様の救いのすばらしさを高く掲げましょう。



無題 | 15:20:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
やみの中に輝いている「光」とは?

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
(ヨハネ伝1章14節)

この一年を象徴する漢字一文字として「偽」が選ばれたそうです。それに次いで「嘘」、「疑」などが多かったようです。それほど人々は世相に不快感を持って暮らしたのでしょうか。その割りに真理の探究者らしき人に出会うことが少ないのもまた、不思議なことです。

これらの文字が選ばれた背景に食品偽装事件の多発があったのでしょうが、果たして世界の食料事情から見て、日本の法律に合わないからというだけで、食糧がどんどん廃棄処分され続けてよいものでしょうか。世界中から買い集めた貴重な食料を、意味なく棄てているようなことはないのでしょうか。法律は人が必要に応じて作るものであって、神の法に則っているかどうか、「疑」の文字を出してみることも必要ではないでしょうか。このようなことを書くのも、不快語でしか一年を表せない人の心を憂えるからです。

私たちは一年前、新会堂が完成し、初礼拝をお捧げしました。この一年を、どういう一文字で表すことができるでしょうか。マリヤが、「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」(ルカ1-47)と歌ったように、「讃」という文字を上げることができるでしょうか。あるいは、病やけがに遭遇しながらも平穏なクリスマスを迎えることができ、「守」の文字がふさわしいと思われますか。祝会で、皆さんの一文字を出し合ってみてはいかがでしょうか。

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。(イザヤ9-2)という預言がなされたのは、救い主がお生まれになる750年も前のことでした。「偽」に象徴されるような今日の世もまた「やみ」と称しても過言ではないでしょう。そんな私たちの只中に、イエス様は「すべての人を照らすそのまことの光」(ヨハネ1-9)として来てくださり、今なお、信じる者を救い続けていてくださるのです。

教会がこの福音の光を掲げ続けるかぎり、この世が闇で満たされてしまうことは決してありません。いたる所で、「メリークリスマス!クリスマスおめでとう!」という挨拶が弾けているはずです。その光景の中にこそ人々は、天国がいかに麗しいところであるかを垣間見ることができるのです。

アドベントのキャンドルも4本となり、いよいよ来週はクリスマスです。やみの中を歩んでいる人たちが一人でも多くイエス様の「大きな光」を見ることができるよう、私たちクリスチャンが天使に成り代って、救い主の訪れを、お知らせさせていただきましょう。



無題 | 14:41:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
クリスマスの祝福を受けるためには?


2003年12月週報より
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」。          (ルカ伝1章38節)

 英語で[the lost」と言えば迷子であり、説教の中で用いられれば神を見失った人たちを指します。神の語りかけに応答しない魂のことです。

 クリスマスの訪れは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。という天使の挨拶をもって始まります。『とんでもない。何が「おめでとう!」だ。』と言いたくなるような現実であったとしても、神が目を留めていてくださるということが祝福なのです。

 若者の中に常にメールで相手の気持ちを確認していないと不安でたまらない症候群があるそうです。これは神を見失った魂の症状の一つです。神の永遠の愛を人の中に求める誤りです。

 人に合わせようとしたり、人の気持ちをつなぎ止めようとばかりしていると疲れ果ててしまいます。私たちが耳を傾けなければならないのは神のラブコールです。マリヤは膝まづいて神の呼びかけを聞き、へりくだって応答しました。

 人間は神の交わりの対象として創られました。神に心を向けず、争いばかりしていたら、神はどんなに悲しまれることでしょうか。また、神に背を向けて絶望しているのは愚かなことではないでしょうか。

 マリヤは、「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と声高らかに神を讃美しました。神の愛を常に実感し、マリヤのように言葉と行いをもって、神への感謝を表わしましょう。
 そして、クリスマスの主イエス様のために心を込めてお捧げ物を準備しましょう。私たちは主の大きな犠牲の愛によって救われたのですから。



無題 | 14:25:22 | トラックバック(0) | コメント(0)
共感(ハーモニー)し合う感動とは?

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
(ヨハネ伝1章14節)

二週前になりますが、私たちは甘木朝倉連合音楽祭に出演し、多くの人々に賛美歌を聴いていただくことができました。数年前から温めていた思いでしたが、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2-13)とあるとおり、主は私たちに大きな証の機会を備えてくださいました。出演された15組ほどの合唱団は、それぞれ特長があり、ヴァラエティーに富んだコンサートでした。自然の美しさや人間の情感の機微を表現した歌が続く中で、唯一真の神への信仰と平安を歌う賛美歌が会場いっぱいに響き渡ったときには、聴衆の中に新鮮な感動があったにちがいありません。

イエス様は、「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5-14)と語られました。また、「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。」(5-15)とも教えられました。それは、人々が光の豊かさを享受できるためです。神様のすばらしさを褒め讃える賛美歌が教会の中だけに閉じ込められていたのでは、もったいないです。多くの人々が見聞きできるように、高台に立って表現されるべきです。

私たちは毎日のように、悲しく痛ましいニュースを耳にし続けています。身を裂くような辛さの当事者になっている人たちが、そこにいるのです。この世を闇が支配し尽くしてしまわないように、すべての心ある人たちがキャンドルをともし続けていかなければなりません。そして、その光が何であるのかを知っているのは教会です。

また今回は、市民の保養施設Hでクリスマスキャロルを歌ってほしいとのお申し出をいただきました。そこでは毎日のように多種多様な演芸が催されているようですが、館長さんが皆さんに賛美歌を聴かせてあげたいと思われたということに、私は大変驚いています。当日来館される方々に良いクリスマスプレゼントができますよう準備させていただきましょう。

良きサマリヤ人が傷ついて倒れている人を見て、「かわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、介抱してやった。」ルカ10-34)というイエス様のたとえ話が心に沁みます。クリスチャンの美徳の一つとして「深い同情心」(コロサイ3-12)も上げられています。神が高い御位を棄てて、罪に満ちた世に来てくださったのがクリスマスです。クリスマスの良きとき、私たちも身を低くして、人々に仕えさせていただこうではありませんか。

甘木聖書バプテスト教会のホームページに流れているのは教会のジョイフルクワイヤーが音楽祭で歌った録音です。HPから入って、お楽しみください。



無題 | 15:22:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
クリスマスの解放とは?

2003年12月週報より
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
(マタイ伝5章17節)

 私たちの生活は身動きが取れないほど法律に縛られています。しかし、その束縛を実感して暮らしている人は少ないでしょう。どんな法律ができようと、「人に迷惑をかけない」ように心がければ問題ないからです。

 神様が人に与えた戒めの第一は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」でした。天から私たちに目を注いでおられる聖い唯一の神がおられることを意識して生きるなら、こと細かな法律の出番はありません。その神様に喜んでいただくようにさえ努めればいいのです。

 また、イエス様は、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」と教えられました。この戒めの中にすべての法律は飲み込まれてしまうのではないでしょうか。
 人は残念ながら自己中心な罪の性質に汚染されています。そのままでは神をお喜ばせすることも、人に仕えることもできません。どんなに法律を作っても、罪への傾向を変える力はないからです。

 そこで、神のひとり子イエス様が私たちの罪を負って十字架にかかる必要がありました。私たちを罪の束縛から解放するためにイエス様はお生まれくださったのです。
 ですから、クリスマスは歓喜の讃美に満ちています。神はあなたにも、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と声をかけておられます。

 今年のクリスマスこそ、あなたの心の真ん中にイエス様をお迎えしましょう。そして、歓喜のキャロルを共に歌いましょう。

☆☆☆☆☆  ☆☆☆☆☆

クリスマス集会へのご招待  The Joyful Christmas !

クリスマスの感動をあなたに!

12月23日(日)午前10:30  クリスマス礼拝
   24日(月)午後 7:00 クリスマスイブの集い

いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、
平和が、御心にかなう人々にあるように。(聖書のことば)


今年もジングルベルが流れ、飾り付けがされて、町にはクリスマスムードが漂っています。
華やかに飾り付けて、ごちそうを食べるのが、クリスマスの定番かもしれません。

でも、今年は世界で最初のクリスマスが、どんなであったか知ってみませんか。
闇を照らす「いのちの光」、救い主がお生まれになった、美しい出来事を聞いてみませんか。

悲しみを喜びに、
憎しみを愛に、
怒りを祈りに、
嘆きを讃美に、
争いを平和に変えてくださる、
救い主イエス・キリストこそ、クリスマスの主人公です。

教会は二千年前の「世界で最初のクリスマス」の感動をお伝えします。
美しいキャロルを聞き、クリスマスのメッセージに耳を傾け、平和を共に祈りましょう。
クリスマスが最高の祝福のときとなりますように!

あなたのご出席を心よりお待ち申し上げます。



無題 | 09:30:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
走るべき行程を立派に走り終えて

ルイーズ・B先生、ありがとうございました!

私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。     (第二テモテ4章6、7節)

去る29日早朝にBK宣教師夫人ルイーズ先生が天に召されました。聖書には、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」(伝道3-1)と記されています。「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」(3-2)とも語られています。B先生をはじめ、私どもにとって悲しみは深いのですが、このこともまた、主の時として受け止めさせていただきましょう。

ルイーズ先生は40年の長きにわたり、B先生を支え、日本宣教にご尽力くださいました。今でこそ日米の生活様式は似てきていますが、40年前の日本の生活は、若きアメリカ女性にとってショックの連続ではなかったかと想像します。言葉の不自由な中で、4人のお子様がたの家庭での教育、教会への心遣い、アメリカとの行き来、B先生の健康管理と、気の休まることのない40年間であったにちがいありません。

いつもB先生の傍らに静かにおられることが多かったですが、B先生のジョークには、誰よりも早く明るい笑い声を立てておられたことを思い出します。会食の度に、おいしいごちそうをたくさん作り、皆を楽しませてくださいました。多種多彩なケーキを味わわせていただきましたが、そのステキな名前を覚えていないことを申し訳なく思います。

今や、主イエス様がルイーズ姉を迎え、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25-21)と、「義の栄冠」Ⅱテモテ4-8)を授けてくださっていることでしょう。何の報いも求めず、惜しげなく愛を注いでくださったルイーズ先生の中に、イエス様が生きておられました。ルイーズ先生と、先生を送り出してくださったアメリカの教会の愛兄姉に、心より感謝申し上げます。

甘木の新会堂完成を誰よりも喜んでくださったルイーズ先生は、「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」(ピリピ2-2)と、別れの言葉を語っていてくださるような気がします。一粒の麦が地に落ちて豊かな実を結ぶように、ルイーズ先生を通して蒔かれたキリストの愛の種を、私たちが継承し、蒔き続けさせていただきましょう。私たちには、まだそれをし続ける時が与えられているのですから。



無題 | 16:34:13 | トラックバック(0) | コメント(0)