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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
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魂の疲れを癒すには?

2003年週報より
そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」                   (ルカ伝5章31,32節)

 最近教会に新しいパソコンが与えられ、私も久しぶりにストレスを感じる生活をしています。ほどほどのストレスは生活に張りを与えますが、なれない機械の操作にはいささか疲れます。

 もし疲労が回復されないまま蓄積されていけば、いつか病的な症状を起こしてくるでしょう。そんな時、必要なのは休息です。ストレスのもとを絶って、リフレッシュされるのを待つべきです。
 聖書にはイエス様でさえ疲れを覚えられたとあります。これは些細なことで疲れがちな私たちへの慰めではないでしょうか。私たちは疲れていいのです。弱さを抱えた人間なのですから。

 問題はどう疲れを取るかです。イエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と招いておられます。ここに魂の休み場があります。いのちの泉からたっぷり飲むことができるのです。

 体の疲れであるならば、解消法はいくつかあるでしょう。紅葉を眺めながらウォーキングもいいでしょうし、おいしいものを食べて、ぐっすり寝るのも効果的です。しかし、魂の苦悩を癒やすのはイエス様のみことばだけです。

 神のみことばは、「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」と約束しています。イエス様を信じる者には必ず回復の希望があります。あなたもイエス様のみもとに重荷を下ろして、魂の休みをいただきましょう。



無題 | 10:30:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
やみの中に輝く「光」とは?

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネ伝1章5節)

勤労感謝の日、福岡県内にお住まいの視覚障害者クリスチャンのクリスマス会が開かれ、クリスマスのメッセージを取り次がせていただきました。犠牲を払って遠路集われる方々の力となるようにと、ついつい気負いすぎて、時間を超過してしまい、予定を狂わせてしまったのではと、後で恥じ入りました。しかし、さまざまな闘いをしながら一年を過ごされた皆さんに、神様の慰めのみことばを熱心に語らせていただけたことを感謝します。

キリストのお生まれがイザヤによって、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9-2)と、降誕の更に750年も前に予言されていました。この「やみ」と「光」の鮮やかな対比は、神を認めようとしないこの世の暗黒と、その中に強く輝く救いの光を見事に描き出してくれています。そして、今日も人々の心に、闇が忍び込んでいますが、キリストの救いの光は、変わりない輝きを放ち続けているのです。

午後にはバッハコレギウムという合唱団の皆さんがクリスマスのキャロルを聞かせてくださいました。中には76歳の方、長崎から一番列車に乗ってこられた方などおられ、その熱心さがコーラスにも感じられ、ご奉仕を感謝しました。教会の聖歌隊も本日、連合音楽祭に出演し、賛美歌を聴いていただきますが、キリストの光が見えるような讃美をお捧げしたいものです。百聞は一見にしかず、見る人々が、あの人たちは、揺るがない希望を持っているなあ」と感じていただけるよう、ベストを尽くしましょう。

「光はやみの中に輝いている。」というみことばに、イエス様の影響力の強さを感じます。しかし、その光は煌々とした圧倒的な光ではなく、一本のキャンドルのように一隅を照らし続ける明かりであるように思います。教会の福音宣教も、そのような光でありたいものです。ないかのように見えても確かに光を放っている、それがなければ暗闇となってしまうのです。

 乙女マリヤに御使いは、「おめでとう、恵まれた方」(ルカ1-28)と語りかけるところから、クリスマスの大ドラマが始まります。私たちもまた、神の特別な愛顧をいただいた者たちです。神の目が注がれているのです。ですから、私たちもマリヤやザカリヤのように、このアドベントの良きときに、イエス様の恵と真を高らかにほめ歌いましょう。



無題 | 08:34:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
チャレンジを促す原動力は?

2003年週報より
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。              (第一 コリント13章13節)

 何事でも新しいことにチャレンジすれば困難に直面します。私も教会に新しいパソコンが入りましたので、さっそく週報を作ろうと苦闘してみました。私の場合、音声ガイドに従って操作しますが、新しい機械ですから全くわかりません。しかし、神に感謝すべきかな、主は助けを送ってくださり、一日がかりで欠ける状態にパソコンを設定してくださいました。
 操作手順のテストにも見事に(?)合格し、いよいよ書き始めました。不慣れながらも、書き進んで行ったのですが、突然書いた文書が消えてしまうではありませんか。それでもあきらめずに再度挑戦しましたが、やはり同じ結果でした。そこで時間切れとなり、私の挑戦は来週へと持ち越されることとなりました。
 多くの人が新しいことを始めます。しかし、皆が続けるわけではありません。何がちがいを生じさせるのでしょうか。私は希望だと思います。忍耐して苦闘し続ける果てに見ることのできるすばらしい世界への希望だと思います。
 また、人が希望をめざして進むためには愛の神を信じなければならないでしょう。神が愛であられるからこそ、私たちの苦闘は必ず報われるのです。私たちは日々、神がくださる課題と取り組んでいます。祈り、知恵を請い求めながら、課題と取り組むのです。
 家庭でも、地域社会でも、教会でも課題が山積です。自分一人で戦うにはあまりにも過酷です。神様は私たちが孤独で戦うことを望んでおられません。
 イエス様は私たちの救い主としてこの世に来てくださいました。信じ、受け入れる者は全能者の助けをいただきます。決して失望に終わることのない希望を持つのです。



無題 | 15:32:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
罪の誘惑に打ち勝つためには?

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 (ヨハネ伝1章4、5節)

ある教育機関の最高権力者の破廉恥なスキャンダルが報じられています。真相はこれから明らかになることですが、人間の中に根深くうごめいている不品行の罪について考えさせられます。
一般的には、70歳に達し、教育者を指導するような立場の方と聞けば、揺るがない道徳性を身に付けているものと想像します。しかし、「悟りのある人はいない。」(ローマ3-11)とあるように、人間はどこまでいっても、不品行の罪の誘惑から免れ得ないのが現実です。

今回の場合、加害者と疑われている人物が著名人であるから、マスコミが取り上げていますが、この種の被害で苦しんでいる方々が、どれほど隠れていることでしょうか。今回のように、被害者が勇気をもって訴え出ることは、今後の犯罪を抑止するために価値ある行動と言えるでしょう。
とは言え、罪をあばくことはできたとしても、罪に走ろうとする人を留めさせることはたやすいことではありません。聖書は、「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。」(詩篇119-9)と、神の守りに頼る以外、不品行の誘惑に打ち勝つ方法のないことを教えています。

男たちが姦淫の現場で捕らえたと言って、一人の女性をイエス様のもとへ引き連れて来たとき、イエス様は彼らに向かって、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8-7)と言われました。そのとき結局、誰一人として、石を投じる者はありませんでした。自分を見つめてみれば、誰もが己自身の中に在る恥ずべき情欲に気づかされたからでしょう。

イエス様は十字架の上で、「完了した。」(ヨハネ19-30)と宣言され、息を引き取られました。この死をもって、イエス様は私たちの不品行の罪をも帳消しにしてくださったのです。私たちはこの世に生きるかぎり、常に罪の誘惑にさらされているのですが、この救い主を仰ぎ見ることにより、きよき道を選び取る力を得ます。

性に関するモラルの基準が大きく崩れていますが、聖書は、「このようなことのために、神の怒りが下るのです。」(コロサイ3-6)と警告を発しています。また、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」Ⅱコリント6-2)とキリストの救いを明らかにしています。イエス様に信仰の目を向けて、私たちを取りまく罪の誘惑に打ち勝ってまいりましょう。


 



無題 | 16:42:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
死を超越する希望とは?

2003年11月週報より
私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 (第二コリント15章51、52節)

 キリスト教会の墓石には、「わたしは、よみがえりです。いのちです。」というイエス様のみことばがよく刻まれています。そこにはクリスチャンの希望が告白されています。それはこの世の歩みを終えても、それ以上の祝福が天に備えられていることへの信仰です。

 年を重ねれば、誰しも身体的な衰えをそこここに感じ始めるものです。それは人生の季節が夏から秋へと移りつつあるからでしょう。では、あなたは季節がやがて冬へと巡って、その向こうには何が待っていると思いますか。

 聖書はキリストを信じるものに超越した春の喜びを約束しています。この肉体はどう手入れしても衰えを防ぐことはできません。やがては土に帰るのです。しかし、私たちには霊のからだが約束されています。それは復活されたイエス様がお持ちであったような栄光のからだです。

 クリスチャンに与えられる永遠のいのちとは今の体が古びないことではありません。それは次第に衰え、いつか壊れていくものです。しかし、古い体は脱ぎ捨てても、天国にふさわしい霊のからだを受けるのです。この復活の希望はキリスト信仰の中心です。

 イエス様は、「あなたがたは、世にあっては患難があります。」と私たちにみことばを残されました。しかし、いつも約束の希望に目を留めていれば、試練の直中でも喜びを失うことはありません。主に忠実にお仕えすることには筆舌に尽くせない豊かな報いがあるからです。
 やがて私たちは皆イエス様の御前に立ちます。その時、「忠実な良いしもべよ!」と声をかけていただきたいものです。



無題 | 13:50:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
忙しさの中でも、「天にあるものを思う」大切さとは?

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
(ピリピ書4章6節)

日本においても、久しぶりに物価の上昇が恐れられています。既に影響を感じるのはガソリン価格ですし、食料品の値上げも噂されています。これら基礎資源が値上がりすれば、おいおい他の産業も値上げせざるを得なくなっていくでしょう。

「外国から安い石油や食料を買ってくればいい。」といった考えは通用しない時代に入っているのかもしれません。現に、生活に困窮する人たちが増えていると聞きます。激しい生存競争の結果、心を病む人たちも多くなっているそうです。

そんな時代に、「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」(コロサイ3-2)というみことばは人々の耳に、どう響くでしょうか。「仕事に打ち込んでいても、良い結果を得られないのに、どうして天のことなど思っていられますか。」という反応が返ってきそうです。「今を切り抜けていくための知恵が、とりあえず必要なんだ。」というわけです。

しかし、イエス様も、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6-33)と勧めておられます。ということは、どんなに暇がないように見えても、私たちは神様を思う時間を取っておくべきだということです。いや、むしろ、状況が難しくなればなるほど、道を見極めるために、神の知恵を仰ぐ必要があるのです。

アブラハムが悩んだとき、神様は満天の星を見上げるように、彼に促しました。そして、空の星を数え切れないように、彼の子孫の可能性も無限であることに気づかせました。その結果、彼は揺るぐことのない希望に生き、その子孫から「信仰の父」として尊敬されるようになったのです。

近くばかり見ていると、眼の筋肉が凝って近視になってしまいます。ほどよく遠くに目をやることは必須です。それと同じように、いと高き神に向かって祈ることによって、私たちの心は健全に保たれるのです。

世に心配の種は尽きないのですが、それらに心を占領されてしまうことなく、イエス様の十字架の愛に目を留めましょう。「神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2-14)とあるように、私たちの罪の記録は、イエス様が命がけで、完全に帳消しにしてくださっています。この事実を感謝して信じる者こそ、神の前に安んじて生きることができるのです。



無題 | 16:25:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
信仰によって光る知性とは?

2003年11月週報より
私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。        (第一コリント14章15節)

 信仰や祈りと聞くと知性を欠いたまか不思議な世界であって、部外者には全く理解できないものと誤解されることがあります。その結果、クリスチャンと未信者との間に必要以上な溝が生じ、両者が対立的になることがあります。

 もちろん、聖書を神のみことばとして読み、イエス・キリストを唯一の救い主として信じるクリスチャンと、そうでない隣人たちとの間には妥協を許さない根本的なちがいがあります。クリスチャンは神の導きを求めますし、他方は自らの理性や感覚に従って生きようとします。

 では、聖霊に導かれるクリスチャンが知性を欠いていてよいでしょうか。真の神を知り、魂の救いをいただいたクリスチャンこそ知性にも光を豊かに受けているはずです。ですから、信仰によって回復された知性を用い、まだ救いを受けていない人たちに良き感化を与え得るはずです。もし、私たちの信仰のすばらしさを周りの人たちが認めないとしたら、その人たちの頑迷さを嘆く前に、私たちが誰でもわかる言葉で聖書の真理を話しているかどうか反省してみましょう。

 聖書は、「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」と説いています。キリスト信仰は落ち着きをもたらし、秩序を尊びます。今日は国政の選挙ですが、みことばは「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。」と法の遵守を教えています。

 聖霊に導かれて書かれた聖書のみことばこそ、暗くなった知性に神の光を当ててくれます。読むだけでなく覚え、覚えるだけでなく黙想しましょう。そうすることによってみことばが単なる知識に留まらず、生活の中で生かされていくようになります。こうして、私たちは知性においても主を褒め讃えるのです。



無題 | 10:30:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
低迷を脱するためには?

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
(詩篇32篇1節)
プロ野球は中日の53年ぶりの優勝で終わりました。日本シリーズの最高殊勲選手に中村内野手が選ばれたようです。彼はインタビューに応えられないほど号泣していたそうです。というのは、彼は長年、一流のホームランバッターであったのに、最近では活躍の機会もなく、前球団から戦力外通告を受け、引退もささやかれるほど低迷していた選手だったからです。その彼が、最高の栄誉に輝いたのですから、言葉を失ってしまうのも無理からぬことかもしれません。

メジャーに挑戦して挫折し、日本に帰って来ても成績が残せず、過去の人になりかけていた中村選手が、自分を拾ってくれた中日の優勝に最も貢献したのです。安易に人生をあきらめてしまう人たちが多い時代に、彼の活躍は目標にしがみついて、自分磨きを続けることの大切さを教えてくれたのではないでしょうか。

聖書には弱さの故に罪を侵したり、過ちに陥ったりした人たちのことが多く記されています。そのような人の一人にイエス様が語られた、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」(ルカ7-50)というみことばがありますが、イエス様は何を言わんとされたのでしょうか。

まず、人は絶望してはいけないということでしょう。ここで言われている信仰とは、イエス様への信仰を指しています。この信仰は、どんな罪人、挫折者をも救いうるのです。神様を人を救えない無能者と決め込むことは、最悪の罪であると言わざるを得ません。

イエス様は、「弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9-36)とあるように、悩み、もがきながら生きている私たちに深い関心を持ち、同情を示しておられます。私たちに救いの手を差し伸べようと待機していてくださるのです。信仰をもって、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ10-13)のです。

次に、「キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(コロサイ2-10)ということに注目しましょう。人は安請け合いをしますし、気休めを言います。しかし、私たちが聞きたいのは権威ある立場の人の言葉です。そして、最も信頼できるのは、「権威のかしら」なるイエス様のみことばです。そのお方の罪の赦しの宣言ほど、安心を与えてくれるものはありません。

不安を持ち、迷い、暗い気持ちでいるとき、人は力を発揮することはできません。イエス様を救い主と仰いで、「あなたの罪は赦されています。」(ルカ7-48)と罪の赦しを宣言していただきましょう。そして、晴れ晴れとした気持ちで精進を続けるならば、私たちの前には永遠のいのちに至る祝福の道が、延々と開かれているのです。



無題 | 21:08:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
二つの霊を見分けるには?

2003年11月週報より
ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
(第一コリント12章3節)

 聖書は肉眼では見ることのできない霊の存在を説いています。イエス様ご自身も、「神は霊ですから」と、教えておられます。霊なる神を知るためには霊を見分ける目が必要です。

 聖書はまた、二つの霊の存在を言明しています。一つは聖霊であり、もう一つは悪霊です。これらの霊が人の心にどのような身を結ばせるかを見れば、それらのちがいは明かです。

 まず、悪霊の実としては、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興が上げられています。
 これに対して聖霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。悪霊が人の心をむしばんでいくのに対し、聖霊は限りない向上をもたらします。

 これら二つの霊は競って人の心に働きかけています。人がひそかに経験する心の葛藤は、いずれの霊に従うかの迷いから生じるものです。そんな時、常に聖霊の導きに従いたいものです。

 それにはまず、聖霊と悪霊の見分けができなくてはなりません。その基準はイエス・キリストです。どんなに宗教的に見え、多くの人たちを引きつけても、イエス・キリストを神・救い主として告白しなければ、それは悪霊の惑わしとして退けなければなりません。

 逆に、イエス・キリストの御名が尊ばれ、証されているところに活発な聖霊の働きを見ることができます。悪霊さえも、「あなたこそ神の子です。」とイエス様を拝するのです。



無題 | 12:28:58 | トラックバック(0) | コメント(0)