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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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「最高の親孝行」、「最高の友情」とは?

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(詩篇37篇5節)

去る23日の明け方、T様が永眠なされたという報告を、娘様のS姉妹からいただきました。95年のご生涯だったそうです。共に葬儀に参列させていただいたI姉より、ご夫妻が甘木で鍼の治療院を開業した折、T様に大変お世話になったという証を聞かせていただきました。小学校の先生をしておられた故人は、多くの知り合いの方々に治療院を紹介してくださって、Iご夫妻を助けてくださったのでしょう。

帰省されたS姉が来会くださった折、太刀洗病院に入院しておられたお母様のことをうかがい、以後、時折病床のT様を尋ねさせていただくようになりました。ひとしきり思い出話を聞かせていただいた後、「また会う日まで、神の守り、なが身を離れざれ。」(賛美歌405番)と、声をそろえて歌うのが常でした。どこでこの賛美歌を覚えられたかは定かでないのですが、多くの記憶が薄らいでいるご様子にもかかわらず、この歌だけは、T様の記憶の中心に、ありありと刻み込まれていたのです。

S姉の要請で私どもがT様の病床を訪ねたのは、9月27日でした。もはや、T様は愛唱歌を歌える状態ではありませんでした。手首の脈を確かめながら、私たちは主イエス様への最後の礼拝をお捧げし、T様の魂を主の御手に委ねました。「神共にいまして、行く道を守り」、万感こみ上げながら、S姉は歌っておられました。

およそ1ヶ月後の去る24日、故T様の葬儀が仏式で執り行われました。しかし、私たちは、「キリストはすべての支配と権威のかしらです。」(コロサイ2-10)のみことばを信じています。思考の混乱する中でも、「神共にいまして」と歌われた故人の魂を、私たちは救い主の御手に委ねたのです。
S姉は、お母様をキリストの救いに導くために、実に一生懸命でした。故人はS姉の所属する厚木の教会の礼拝に幾度も出席されたことがあるそうです。きっと、あの愛唱讃美歌も、そこで覚えられたのでしょう。

聖書には寝たきりの病人を担いでイエス様のもとに連れ来たった4人の友人たちが出てきますが、イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。(マルコ2-5)と、隣人の救いのために奔走した人たちの振興に言及しています。救いは本人のキリスト信仰に基づくものであることは大原則ですが、イエス様は熱心に救い主を紹介する証人たちの働きにも目を留めていてくださるのです。
私たちも、あの4人の友人たちのように、身の回りの人たちを、イエス様の救いへ導かせていただきましょう。イエス・キリストだけが人を生まれ変わらせ、永遠のいのちを与えることのできる「救い主」なのですから。



無題 | 19:45:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
「自由」の正しい用い方とは?

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。                (第一コリント10章23節)

 クリスチャンと聞くと、「酒は飲まない、タバコは吸わない」、と規制が多くて不自由だとよく言われます。しかし、イエス様は弟子たちに向かって、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と約束されたのではないでしょうか。

 多くの若者たちにとって自由は自分の感覚に合ったものを選ぶことです。感覚にマッチするものが、人であれ物であれ最高です。それ以外のものは自由を妨げるものとして拒否しようとします。しかし、それほど自分の感覚は信頼してよいものでしょうか。

 イエス様は人を自由にするのは真理であると語られました。真理に基づかない自由は罪の奴隷だと指摘されたのです。クリスチャンの自由は真の神を褒め讃え、そのお方に祈る自由です。人間の編み出した宗教と聖書の真理を明確に区別します。 タバコを吸った人たちが肺癌になったと言ってタバコ会社を訴えています。酒が引き起こすトラブルも跡を断ちません。クリスチャンは神に仕える身としてそれらの嗜好品を必要としませんでした。神と共に歩む生活のすばらしさに満たされていたからです。

 神はすべての人に一日24時間、一週7日を与えておられます。それらの時間をどう使うかは自由です。ただし、クリスチャンは何をすることが最も神をお喜ばせするかを考えます。また、身の周りの人たちへの配慮を怠りません。

 イエス様は、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」と説いてくださいました。私たちはどれだけイエス様に献身できるでしょうか。



無題 | 13:09:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
だましごとを見分ける「知恵」とは?

キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。(コロサイ書2章7節)

小学生の秋の恒例行事、相撲大会に先立って、こどもたちは監督さんから二週間の特訓を受けました。さらしのまわしを着けて、下半身を安定させるために、四股を踏むのが稽古のはじめです。次は相手をにらみつけて立会い、頭を相手の胸に突けて、すばやく押します。普段、テレビにくぎづけだったり、ゲームにばかり興じているような子達が、いくらどなられたからといって、すぐにできるわけがありません。

野球やサッカーであれば、多くのこどもたちが進んでするでしょうが、相撲の稽古には行きたがりません。柔道や剣道は精神修養を伴った高尚な武道という評価がありますが、相撲は誰でもできるものと思われがちです。そころが、息子の相手をしながら、相撲もまた集中力や忍耐力を養う立派な武道の一つであることに気づかされました。

聖書は私たちに、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」(エペソ6-11)と教えています。私たちの道には、闘わなければならない手ごわい敵が立ちはだかっています。それは、自分自身のなまけ癖であったり、人を介して来る悪い誘惑であったりします。

また、今の時にも、「まことしやかな議論」(コロサイ2-4)、「だましごとの哲学」(2-8)と表現されるような、人をがんじがらめにし、堕落させるような惑わしが流布しています。神を認めようとしない傲慢な姿勢の、どこに知恵があるでしょうか。神のみことば(聖書)なしに、人を正しい道に導くことなどできることでしょうか。それが可能だと思い込ませるのが、「まことしやかな議論」であり、「だましごとの哲学」なのです。

パウロは、「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(2-3)と証しています。私も同感です。また、「キリストの中に根ざし」(2-7)とも勧めています。古い讃美歌の、「イエスこそ岩なれ。堅固なる岩なれ。他は砂地なり。」(聖歌236)という証は、実に的確な表現ではないでしょうか。

初めに神が創造された世界は、いかに美しかったことでしょう。罪が入る前のエデンの園に実ったフルーツは、どんなに美味しかったことでしょう。しかし今や、自然は凶暴に人を襲いますし、人同士も傷つけ合っています。罪はどれほど深く世界を腐敗させてしまったことでしょうか。

パウロは、「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7-24)と、自らの罪深さに絶望した人でした。しかし、彼はキリストの救いの確かさを知り、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(8-1)と歓喜の声を上げました。

いかなる武道の修練をもってしても得られない魂の救いが、イエス・キリストのうちにあります。イエス・キリストの福音は、私たちをすべての罪からきよめてくださるのです。このすばらしい知らせを、ひとりでも多くの方々にお伝えしてまいりましょう。



無題 | 18:15:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
高い使命に生きるとは?

2003年10月週報より

目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい。
(第一コリント16章13、14節)

 人はイエス・キリストを信じ、新しくされます。この経験は驚くべきものです。そして、常に神の特別な守りをいただきます。やがて、何もかも順調に進んでいくものと思うようになります。

 しかし、私たちは世に生き続ける者であることを思い出さなければなりません。新しく生まれ変わることによって、この世を卒業したわけではありません。天に国籍をいただく天国人であると同時に、罪と不条理に満ちたこの世でキリストの光を照らしていく者です。ですから、家族や仲間との関係がうまくかみ合わなくなることさえあります。

 イエス様は、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と語られました。クリスチャンは重荷から解放された者であり、今さら負わなければならない苦しみなどないはずだと思い違いをすることがあります。

 しかし、実はクリスチャンはイエス様の御国の拡大のために働く者とされたのです。もはや失業することのない使命を神より受けたのです。周りにおられる方々の魂の行く末に責任を負っているのです。
 こうしたクリスチャンの高い使命を果たしていくために、イエス様は私たちを教会に属させてくださいました。教会で与えられた場を満たしていくうちに、その人は成熟したクリスチャンとして育てられていきます。

 生まれただけで、成長を拒否するこどもがいるでしょうか。旺盛な食欲で成長してこそ健全ではありませんか。恐れずに、信仰の高嶺をめざして、「大胆に恵みの御座(イエス様・教会)に近づこうではありませんか。



無題 | 13:29:02 | トラックバック(0) | コメント(0)
困難な状況を打破した「強い決心」とは?

イエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。        (マルコ伝10章52節)

先週久しぶりにYさんが礼拝に出席されました。時々、入所しておられる施設にうかがい、語らいと聖書の学びの時を持つのですが、受身ではなく、自発的に教会と関りを持ってほしいと思い、お迎えに上がることにしました。礼拝後、好物のパンを食べながら話している中で、Yさんは今の辛さをポツポツと話してくれました。

Yさんは他の患者たちから妬まれるほど、恵まれた環境で療養生活を送っています。しかし、彼は今、一日も早くその施設を出ることを願っています。なぜでしょうか。ただ保護されているだけの生活に耐えられないのです。どんなことでもいいから、自分が誰かの役に立っていることを実感できる生き方がしたいのです。

それを聴きながら、私は聖書に出てくるバルテマイのことを思いました。彼は目が見えず、物乞いをしていました。必要以上に惨めを装い、通りがかりの人たちの同情を得る以外、彼が暮らしていく手立てはなかったのです。それなりに見入りはあったのでしょうが、彼はそのような毎日に満足していたでしょうか。

次に彼が取った行動を見ると、彼が現状に甘んじていなかった人であることがわかります。彼はボーっと物乞いをしてはいませんでした。彼は耳をそばだてて、現状打破のための情報を集め続けていたのです。そして、バルテマイの耳は、ついにイエス様の噂を聞きつけました。

彼は直ちに、イエス様に向かって果敢に行動しました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」(マルコ10-47)と叫び始めたのです。バルテマイには恥も外聞もありませんでした。惨めな生き方から救われるために、このチャンスは「決して逃すまい!」と堅く決心していたからです。

「おまえの出る幕ではない。」と言って、周りの者たちが彼を黙らせようとしても、彼はますますイエス様の名を呼び続けたのです。なんと見上げた信仰の持ち主ではないでしょうか。彼は神様がくださった一生一度のチャンスを見逃すようなことはしませんでした。

そばに連れて来られたバルテマイに向かってイエス様は、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(10-52)と告げられました。イエス様は彼を長年の屈辱から解放し、神を褒め称える者へと造り変えてくださったのです。
私たちもバルテロマイが示したイエス様への、一目散な信仰に習わせていただきましょう。イエス様だけが信じ従う者たちに、満ち足りる永遠のいのちを与えることのできる救い主だからです。



無題 | 19:52:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
困難な状況を打破した「強い決心」とは?

イエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。        (マルコ伝10章52節)

先週久しぶりにYさんが礼拝に出席されました。時々、入所しておられる施設にうかがい、語らいと聖書の学びの時を持つのですが、受身ではなく、自発的に教会と関りを持ってほしいと思い、お迎えに上がることにしました。礼拝後、好物のパンを食べながら話している中で、Yさんは今の辛さをポツポツと話してくれました。

Yさんは他の患者たちから妬まれるほど、恵まれた環境で療養生活を送っています。しかし、彼は今、一日も早くその施設を出ることを願っています。なぜでしょうか。ただ保護されているだけの生活に耐えられないのです。どんなことでもいいから、自分が誰かの役に立っていることを実感できる生き方がしたいのです。

それを聴きながら、私は聖書に出てくるバルテマイのことを思いました。彼は目が見えず、物乞いをしていました。必要以上に惨めを装い、通りがかりの人たちの同情を得る以外、彼が暮らしていく手立てはなかったのです。それなりに見入りはあったのでしょうが、彼はそのような毎日に満足していたでしょうか。

次に彼が取った行動を見ると、彼が現状に甘んじていなかった人であることがわかります。彼はボーっと物乞いをしてはいませんでした。彼は耳をそばだてて、現状打破のための情報を集め続けていたのです。そして、バルテマイの耳は、ついにイエス様の噂を聞きつけました。

彼は直ちに、イエス様に向かって果敢に行動しました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」(マルコ10-47)と叫び始めたのです。バルテマイには恥も外聞もありませんでした。惨めな生き方から救われるために、このチャンスは「決して逃すまい!」と堅く決心していたからです。

「おまえの出る幕ではない。」と言って、周りの者たちが彼を黙らせようとしても、彼はますますイエス様の名を呼び続けたのです。なんと見上げた信仰の持ち主ではないでしょうか。彼は神様がくださった一生一度のチャンスを見逃すようなことはしませんでした。

そばに連れて来られたバルテマイに向かってイエス様は、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(10-52)と告げられました。イエス様は彼を長年の屈辱から解放し、神を褒め称える者へと造り変えてくださったのです。
私たちもバルテロマイが示したイエス様への、一目散な信仰に習わせていただきましょう。イエス様だけが信じ従う者たちに、満ち足りる永遠のいのちを与えることのできる救い主だからです。



無題 | 19:50:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
「天に宝を蓄える」生き方とは?

2003年10月週報より
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。              マタイ 6:19-21

 人生は宝さがしの旅のような気がします。人より物知りになろうと勉強する人、お金持ちになろうと働く人、友達をたくさん得たいと忙しい人、それぞれが目当ての宝を掘り続けています。

 イエス様も、「捜しなさい。そうすれば見つかります。」と探求することを勧めておられます。でも、宝はそう易々とは手に入りません。人と競争になることもあります。また、一つ見つけても、他の宝も欲しくなるものです。

 イエス様は手に入れた宝は天にたくわえるよう教えられました。銀行でもなければ不動産でもない、天にたくわえるとはどういうことでしょうか。イエス様の働きのために用いていただくことです。身につけた能力や得た富をイエス様の教会建設に活用していただくことです。

 今日、教会は創立16周年を共に喜びます。私たちはこの教会を通して天に宝をたくわえることができます。忠実にイエス様を礼拝し続けることは天に宝を積むことです。イエス様を隣人に紹介することももちろんです。弱い兄弟姉妹を助けることも主の報いにもれることはありません。

 今年教会はどれだけ天に宝を積めたでしょうか。今度はクリスマスの計画に知恵を出し合いましょう。イエス様にご奉仕できることは神よりいただく最高の恵みです。イエス様より正直なしもべ、忠実な教会と認めていただきたいものです。

 聖書には、「私たちの国籍は天にあります。」と約束されています。そこには、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみも」ありません。限りある人生において、永遠の時のために宝を天にたくわえさせていただけるとは、神のご計画はなんとくすしいことでしょうか。



無題 | 13:59:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
「人間の務め、あなたの務め」とは?

主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。      (詩篇92篇1;2節)

先日、教会案内に回っていましたら、庭でゴマを干しておられるご婦人にお会いしました。近頃、輸入品のゴマの多い中で、有機肥料を使い、無農薬で栽培したゴマが、いかに風味あるものであるかを誇らしげに話してくれました。生産者名入りで、お店にも出しているとのこと、そのご婦人が手塩にかけて育てたゴマで、ゴマ塩を作ってみたくなりました。

会社勤めをしておられた息子さんが会社を辞めて、有機農業を始められたのだそうです。きっと環境の問題や、食の安全が問われる中で、自分の一生を安全な食材作りに懸けてみようと決心されたのではないでしょうか。

パウロは彼が命を懸けた宣教の働きを、「神からゆだねられた務め」(コロサイ1-25)と表現しました。これは「天職」とも言い換えることができるでしょう。その仕事を忠実に遂行する者として、神に召されたということです。

「あなたに神からゆだねられた務めは何ですか?」と訊かれて、とっさに返答できますか。しなければならないことは幾多あれども、「ゆだねられた務め」と問われると、何と応えたらよいかわからないというのが、正直なところかもしれません。
パウロは、「神のことばを余すところなく伝える」(25)ことが、神からゆだねられた務めであると確信していました。彼は、「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1-21)とまで言い切ることのできた伝道者でした。

では、あらためて、私たち各自に神からゆだねられた務めとは何でしょうか。それは常に神を認めて生きることです。「えっ?そんなことが私の務めですか?」という声が聞こえてきそうです。聖書は、あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」(箴言3-6)と教えています。神様の導きを認めて歩けば、ゴマを干していたご婦人との出会いにも感動し、多くのことを学びます。

星野富弘さんの絵や詩が、どうして多くの人の心を打つのでしょうか。それは、星野さんの目が道端のぺんぺん草にさえ神の造形美を認め、その感動を素直に描いているからではないでしょうか。

五月に負傷し、危機的状態を経験したT姉のご主人が山栗を拾い、皮をむき、実に良い味に煮て、教会に届けてくれました。彼の回復を祈り続けた私たちは、栗をいただきながら、神様の癒しのみわざを褒め称えずにはいられませんでした。
なんと私たちは神の恵みに囲まれて生きていることでしょうか。私たちの目も、心も、それらすべての中に神を認め、主イエス様に栄光を帰し、御名を褒めたたえさせていただきましょう。



無題 | 17:03:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
向きを変えて、光の中へと歩み出した青年

2003年10月週報より
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
(マタイ伝3章16節)

 先主日、教会はYI兄にバプテスマを授けました。生の松原という荒海で兄弟はイエス様のご命令に従い、大きな一歩を踏み出したのです。キリストの十字架と共に古きに死に、キリストの復活と共に神に仕える新しい生活が始まりました。

 イエス様が私たちへの模範としてバプテスマをお受けになった時、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という声が聞こえたと聖書は告げています。この天の声はイエス様の御足の跡に従う者たちにも、神の祝福の声として今も語りかけられています。

 イエス様は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」と語られました。ここ日本において、100人中99人はイエス様の十字架を知らずにいます。しかし、ひとりの若者がイエス様を救い主として仰ぎ、主のご命令に従ってバプテスマを受けることができたのです。

 神の栄光を現すはずの人間が神を悲しませることのみ多い時代にあって、毅然として主のご命令に従う青年の姿はどれほど神をお喜ばせしたことでしょうか。また、バプテスマを授ける恵みにあずかった教会も、主のご命令を果たし得た喜びでいっぱいです。
 兄弟は甘木教会の会員となり、神のいのちの書に名が記されています。天に国籍を持ち、神の御国を受け継ぐ群れに加えられたのです。クリスチャンがたまわる身分はなんと尊いことでしょうか。

 この地上で召された教会は幾多の問題と戦いながら天国への旅を進んで行きます。私たちの武器は心を一つにした祈りです。また、一つ御霊によって神を褒め歌うことです。更に謙遜な奉仕の心で仕え合うことです。こうした主を待ち望む教会に、ダイナミックな聖霊のみわざは現されるのです。



無題 | 10:12:55 | トラックバック(0) | コメント(0)