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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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祈りが実現するとは?

今、わたしは、とこしえまでもそこにわたしの名を置くためにこの宮を選んで聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。                                        (歴代誌第二7章16節)

10月24日に大分聖書バプテスト教会の献堂式が行われ、私どもも出席させていただきました。ドライバーのn姉とナビゲーターのl君の息もピッタリで、久しぶりのハイウェイドライブにもかかわらず、式の30分前には、無事新会堂に着くことができました。とは言え、実は迷いそうだったのですが、l君が十字架を発見し、事なきを得ての到着でした。

玄関で靴を脱ごうとすると、「そのままで、どうぞ」とのこと、段差もなく、実に入りやすい会堂でした。礼拝堂は6人掛のベンチが左右に二列、50名は裕に収容できそうな広さでした。式が始まる前に休憩と思いきや、トイレは男子用、女子用、多目的用と、3ヶ所用意されており、安心設計でした。

関西の教会からお祝いに来られた兄姉も多く、会堂いっぱいに喜びの雰囲気が弾けていました。そんな中、中畑牧師の嬉しそうなご挨拶で、式が始まりました。式には三人の宣教師たちが特別ゲストとして招かれていました。

お一人目は大分教会を開拓されたハウェル宣教師の未亡人、グレンナ先生でした。ハウェル先生は大分の開拓の最中で、最初の奥様を亡くされたそうです。失意の中で帰米され、グレンナ先生との再婚に導かれ、大分の宣教を続けることができたのだそうです。
ハウェル宣教師は既に天に召されて久しいのですが、20年ぶりに大分に帰られたグレンナ夫人が、立派な新会堂を目にして、開拓当初のご苦労を思いつつ、中畑夫人と共に主を讃美してくださいました。どれほど嬉しかったことでしょうか。

次にボード宣教師が立たれ、共に若い宣教師として励まし合った故ハウェル先生との思い出を話してくださいました。北九州と大分と離れていても、月一度訪ね合い、互いの働きのために祈り合ったそうです。宣教師のご苦労がしのばれて、胸が熱くなりました。

最後に立たれたのはキング宣教師でした。先生は最近、二度の心臓手術を受けられたそうです。ハウェル先生は天に召され、ボード先生も、ご自身も、身体的に衰えていると証されました。しかし、その場に後継伝道者たちが育っているのを見て、主に感謝すると語られました。ネボ山に立ってカナンの地を眺めたモーセのようでした。

日本人の魂を愛してやまない三人の宣教師たちのメッセージと証を聴き、大いなる宣教のチャレンジを受けました。また、中畑牧師を始め、大分教会のビジョンの大きさに敬意を表します。甘木から大分は2時間半かかりますが、ますます祈り合い、励まし合って、それぞれの地にイエス様の教会を立て上げてまいりましょう。



無題 | 21:25:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
良き仲間を持つ幸いとは?

2003年9月週報より
エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行なわれたことを、みなに報告した。       (使徒15章4節)

 牧師家族は去る21日、前任地である名古屋聖書バプテスト教会のお招きにあずかり、甘木での宣教報告をさせていただきました。4年ぶりの主にある交わりの機会を設けてくださった上田牧師ご夫妻、御教会の聖徒たちに感謝いたします。
 福音の砦として甘木教会が用いられている様子を聞き、名古屋教会はイエス様を大いに褒め讃えました。熱心に祈り、さまざまな支援を続けてくださった御教会は具体的な実の報告を受け、宣教の喜びを共にしてくださいました。

 教会が拡大していくために、深い信頼の上に励まし合う友好教会を持つことは無上の祝福です。これからも名古屋教会はますます私たちのために祈りを熱くしてくださることでしょう。こうした祈りの応援を受け、心と思いを一つにして当地におけるイエス様のお働きに仕えてまいりましょう。

 翌日より伊豆で開かれた野の花フェロウシップも御国の心地する集いでした。牧師の3回の説教奉仕のため祈っていただき感謝いたします。希望される方は録音テープをいただいてきましたのでお申し出ください。
 主催教会は調布バプテストテンプルで、参加教会は17教会、参加者は80名でした。証や特別讃美、キャンプ聖歌隊とイエス様の御名が大いに崇められました。

 分科会では「異教文化の中で主に仕える」というグループで、クリスチャンの主日礼拝が盆正月しか休みのなかった日本人の生活にもたらした恵みについて学びました。レクレーションはシーパラダイスでイルカやトドの芸を楽しみ、富士の山を近く仰ぐことができました。
 今回は10名の神学生をはじめ、若者の参加が目立ったようです。イエス様の心をもって、隣人の障害を担おうとする青年たちが起こされていることに大きな喜びを感じました。
恵みの締めくくりはl君待望の「のぞみ号」初乗車でした!



無題 | 10:55:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
すべての出来事の背後にあるものは?

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
                  (ヨハネ伝1章4節)    

今、次期自民党総裁候補の福田、麻生両氏が討論しておられるのを聴きました。71歳、67歳と、老境に達した両政治家が、日本の難局に責任を持とうとしている姿に、神様の導きを祈らざるを得ません。

聖書は、「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」(ローマ13-1)と教えています。やがて選挙によって総理大臣が選ばれるでしょうが、その背後には、神の御意志が働いています。一国を正しい方向に導くなどということは、神の助けを仰がずして、成しえることではありません。

この秋、教会ではコロサイ書の学びをしていますが、そこには、「王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです」(1-16)という驚くべき記述があります。民主主義国家においては、国民に政治の主権があるとされているのですが、聖書によれば、大統領も、総理大臣も、国連総長も、主イエス・キリストによって立てられ、主イエス・キリストに仕える者であると説かれているのです。

更に、聖書は、「万物は御子にあって成り立っています。」(1-17)とも述べています。つまり、太陽をはじめとする宇宙の運行も、主イエス・キリストによって、秩序が維持されているというのです。宇宙の誕生となれば科学者による諸説が知られていますが、私は聖書が伝える、「初めに、神が天と地を創造した。」(創世1-1)という宣言を信じます。

また、この世界には争いが満ちています。各家庭を見ても、いざこざはありますし、修復不能となる場合さえ少なくありません。争そい事の悲惨な結果を耳にすることも、なんと多いことでしょうか。「テロとの戦い」と称する報復の連鎖も繰り返されています。しかし、聖書は、「御子によって万物を、ご自分と和解させ」(1-20)と、イエス様による和解の希望を伝えています。

仲たがいがあれば、仲介を買ってでる人がいます。裁判所に仲裁を申し出る場合もあります。しかし、神の怒りに対して、誰が仲裁できるでしょうか。イエス様だけが、「その十字架の血によって平和を」(1-20)造り出してくださったのです。
教会は人々を神との和解に導くため、権威を授かっています。この付託に応え、ますますイエス様の福音を宣べ伝え、道に迷う人々に、救い主を証してまいりましょう。



無題 | 18:09:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
美しい結婚&天への旅立ち

2003年9月週報より
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。              (伝道者の書3章11節)

 聖書には、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」とあります。神はそのご主権をもって、細かなことから大きなことにいたるまで、歴史を導いておられます。

 K兄とR姉の結婚式もその一つで、時にかなって美しいものでした。イエス様の御名のもとに、お二人が結婚の誓約を交わされるのを聞き、新家庭に天より祝福が注がれるのを感じました。

 イエス様は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」と語られました。イエス様の御名を告白する結婚は豊かな実を結びます。新家庭でイエス様の御名がいつも讃えられますように!

 また、同じ日にもう一つの美しい旅立ちを見送りました。N姉のおばあちゃんがイエス様のもとへ召されて行きました。私たちは一週間前にこの姉妹を見舞い、共に天国の歌を歌い、イエス様にお祈りしました。イエス様がお備えくださったところへ移されたのです。

 その晩遅く、近しい身内だけでキリストのご主権のもと、おばあちゃんとのお別れ式をしました。イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と語られました。このみことばはおばあちゃんとの再会の確かな約束です。

 イエス様が共にいてくだされば、死さえも希望なのです。パウロは、「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。」と死への勝利を高らかに宣言しています。



無題 | 13:55:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
人生は、やり直せる!

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
                    (ヘブル書11章6節)     

日本の国政を預かる総理大臣が、唐突とも思えるタイミングで辞任されました。参院選挙で大敗したものの、安部首相は政局に責任を感じて、総理の職に留まる決心をされたはずです。しかし、あまりの向かい風の強さに、批判を受けるようなタイミングであることを承知の上で、次のリーダーにバトンを継ぐ決断をされたのでしょう。その重責の故に、一国民として、これまでの労を感謝します。

安部首相は、「やり直しのきく社会」を掲げました。国民的人気で総理になられたのですが、民意は安部首相を「頼りない」と言って見放しました。しかし、このような浮き沈みは世の常です。人気が下がり、職を追われても、人生は続きます。そこから、もう一度、やり直せばよいではありませんか。安部氏には、自ら掲げたスローガンを、今後の生き方をもって実証してほしいものです。

朝青竜も厳しい処置を受け、苦悩しています。横綱を辞すべきだと言う人もいます。そうすることが面目を保つ道なのかもしれません。しかし、彼がどん底から這い上がり、心技体の完成を目ざして相撲を取り続けるならば、挫折を経験した多くの人々に、どれほど勇気を与えることでしょうか。

聖書はキリスト信仰者に、「忍耐と寛容を尽くし、」(コロサイ1-11)と教えています。逆に言うと、簡単に投げ出してはいけないと戒めているのです。二度三度と案内を配布し、何の反応がなくても、そこで教会があきらめてはいけないのです。更に、方法を反省し、内容を吟味して、再挑戦し続けるのです。

12年間、病に苦しみ、孤独な生活を強いられていた女性が、必死の思いでイエス様に近づき、癒していただきました。彼女に向かってイエス様は、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」(マルコ5-34)と、彼女の信仰を褒められました。どんなに叶えられない期間が長かろうとも、あきらめないで求め続けた結果の祝福です。

イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。」(ヨハネ11-25)と、ご自身の権能を明らかにしておられます。だから、私たちはイエス様に信頼し、期待をもって祈り続けてよいのです。

礼拝に集うことは、あの女性がしたように、イエス様に近づくことです。そして、みもとに近づく私たちに、イエス様は、「あなたの信仰があなたを直したのです。」と宣言してくださるのです。



無題 | 19:09:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
こころの「たな卸し」とは?

2003年9月週報より
主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。                   (詩篇19篇7節)

 冷蔵庫には大切な食材が詰まっています。しかし、それらが健康に良くない物や、腐った物だったらどうでしょうか。すぐに捨てて、新鮮で、栄養価の高い食品と入れ換えることでしょう。

 私たちの脳や心には知識や考えが蓄えられています。そこに何が詰まっているかはその人の行動を見れば、およそ見当がつきます。冷蔵庫と同じで、私たちは時々その内容を新たにする必要があります。

 若者にワナをしかける刹那的なだまし事を捨てて、神のみことばに基づく真の知識を詰め込みましょう。パウロは、「あなたがたが真に優れたものを見分けることができますように。」と祈りました。

 私たちが蒔く種によって、何を刈り取るかが決まります。私たちの考えは近視眼的ですが、神は永遠の視点から私たちにすばらしい計画をお持ちです。神は私たちを御国を受け継ぐ者として選んでくださったのですから、今の時をその目的のために投資しましょう。

 イエス様を救い主として心の王座に迎えるとは 中心が自分から神に移ることです。それは神のご計画に喜んで参加していくことです。週の目標を礼拝に置いて、世で神と人に仕えながら、主を拝する日曜の朝に備えましょう。

 よく準備された礼拝はクライマックスです。イエス様のみことばをいただき、聖霊に満たされる時です。私たちはどれだけイエス様に期待し、お会いすることを待ち望んで礼拝に集っているでしょうか。



無題 | 12:47:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
目標に達するためには?

私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。                   ヘブル書12章1節      
私は一昨日、小学三年生の水泳記録会を見に出かけました。とりあえずは、全員が25メートルを泳ぎきることが目標です。競争心むき出しで、腕の回転巧みに泳ぐ子、教わった平泳ぎのフォームを確認するかのように、ゆっくりと泳ぐ子、息の続くかぎり、深く潜ってプールの底を進む子、あの子も、この子も、何はともあれ、目標の25メートルを完泳しました。

その後、30名ほどの子どもたちが50メートルに挑戦しました。ほとんどが、スイミングに通っている子どもたちのようで、なかなか見ごたえのあるレースを繰り広げ、応援の父兄たちを楽しませてくれました。昨年は12メートルでストップだったL君も、ターンを見事にこなして、50メートルを力泳しました。「成長させたのは神です。」Ⅰコリント(3-6)とあるとおり、知らぬ間に神様が育てていてくださったのです。

私たちはどうでしょうか。果たして、信仰生活をスタートしているでしょうか。スタート台には立ってみたものの、恐れをなして棄権してはいないでしょうか。イエス様は、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9-62)と、煮え切らない信仰姿勢を戒めています。

お母さんの胎内で泳いでいた子どもたちは、水にたわむれているうちに、浮くことを覚えます。人間が神様に信頼して生きることも、それと同じです。朝起きて、「天のお父様、今日も一日、おまもりください!」と祈るところから始め、「イエス様、今日一日の守りを、ありがとうございます!」と感謝して、一日を終えてみましょう。「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4-7)と聖書は約束しています。

水に浮くようになれば、前に進むためのバタ足や、水かきを覚えることになるでしょう。信仰の推進力と言えば、みことばの学びと祈りです。パウロは、「神のみこころに関する真の知識に満たされますように。」(コロサイ1-9)と祈りましたが、聖書を正しく理解していくことは、信仰が健全に育ち行くために、おろそかにしてはならないことです。

「霊的な知恵」は突然のひらめきのようなものではありません。説教を聴き、体系的にみことばを学んでいく中で養われていく、物事を見極めるための能力です。聖書は、「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている。(コロサイ2-3)と、「霊的な知恵」が、どこにあるかを明らかにしています。

私たちは、何事でもイエス様の御名によって祈りましょう。これこそ、知恵によって道を切り開いていく、信仰者にふさわしい生き方です。



無題 | 18:58:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
聖さと力、愛と赦しが満ちている所とは?

2003年週報より
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。           (エペソ書1章23節)

 この秋の学びのテーマは「神の教会」です。では、その教会とはいつ始まったのでしょうか。また、他の組織とどこがちがうのでしょうか。紅葉の深まりにつれて、教会について学んでまいりましょう。

 最初に教会(エクレシア)という言葉を語られたのはイエス様です。そして、それは世から「召し出された者たち」という意味です。イエス様はペテロ、ヨハネ、マタイとひとりひとりに声をかけ、「わたしについて来なさい。」と直接の弟子(使徒)たちをお召しになりました。

 どの時点を教会のスタートとするかと言えば、12人の使徒たちが召され宣教に派遣された時点(マタイ伝10章)も一つの選択子でしょう。しかし、私たちの救いは何を基礎としているかと言えば、イエス様の十字架と復活です。そうなると、イエス様が復活された後、弟子たちに大宣教命令を与えた時、あるいは、宣教の言動力である聖霊が下ったペンテコステ(使徒2章)の方がより教会の実体を見ることができるかもしれません。

 しかし、教会の誕生日を論じるより大切なことは、教会にはイエス様の聖さと力、愛と赦しが満ちていることを知ることです。その礼拝と聖餐において、イエス様は今もなお、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と招いておられます。この教会において己の罪に気づき、イエス様の救いを知ることができるのです。



無題 | 13:57:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
揺るがない希望とは?

イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。  (ルカ伝5章31; 32節)

地球の温暖化によるものでしょうか、この夏の最高気温が40,9度の日本最高記録に達した地域があったそうです。その猛暑の影響もあったのでしょうか耳を疑うような、極悪な事件が報道されました。犯罪仲間を募るサイトで知り合った三人の男たちが、全く面識のない、仕事帰りの女性を拉致し、ハンマーで叩いて殺害したというのです。

話によれば被害者は母一人娘一人であったそうです。独り残されたお母様の心中を思い、神様の慰めを切にお祈り申し上げます。女性が働いて得た所持金を奪わんがために、大の男三人がかかって、車に押し込め、ハンマーで滅多打ちにするとは、いったい私たちは人間の本質を、どう考えたらよいのでしょうか。
聖書は人間について、「善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3-12)と宣言しています。つまり、すべての人は、神の救いを必要とする罪人であるということです。罪人が、自らの悪の性質を聖めようとしても、その人の中には、それをする力がないのです。

犯罪を取り締まる法律は作られ続けています。これ以上作ったら、法律に怯えて暮らさなければならないのではないかと心配するほどです。しかし、こうした抑止策をあざ笑うかのように、犯罪は巧妙、かつ凶悪化し続けているのが現実です。

パウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(ローマ7-24)と告白し、自らの罪深さに途方にくれた人でした。しかし、彼は自ら、キリストによる救いを経験し、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8-1)と、罪との戦いに勝利を宣言することができたのです。

罪の氾濫ぶりに恐れをなしますが、イエス様の十字架を見上げるとき、私たちの心は喜びに溢れます。それは、イエス様の十字架には、いかなる罪人をも、見事に生まれ変わらせる力があるからです。教会は、このすばらしい希望を証するためにこそ、立てられているのです。



無題 | 16:07:17 | トラックバック(0) | コメント(0)