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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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「聖さ」を保つためには?

2003年8月週報より
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。         (ローマ書12章2節)

 初期のバイブルバプテストの宣教師たちが強調したことの一つが「この世の文化との分離」だったそうです。特に、映画は悪とされ、教会で話題にすることは禁物だったと聞きました。

 今日、特に講壇から特定の情報源を指して悪魔呼ばわりすることはありませんが、メディアの及ぼす影響に注意を喚起する必要はあるでしょう。もはや映画は人目を気にしながら映画館で見るだけのものではありません。若者たちも自室に閉じ込もってビデオやインターネットで暴力、俗悪な性描写、オカルトなどに浸ることができます。

 聖書は、「悪はどんな悪でも避けなさい。」と戒めています。罪から救われ、イエス様に導かれて生きる者とされたクリスチャンが、神を知らない人たちが作り出してくる文化を無批判に受け入れることがあってはなりません。

 私たちは心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして主なるイエス様を礼拝します。教会に属し、共に主を讃美し、祈り、いのちのみことばに耳を傾けていく時、私たちの心は潜伏している悪の誘惑から守られます。

 更に、教会こそ発信し続けなければならない福音を委ねられています。若者たちの心が堕落した情報にもてあそばれる前に、喜びと平和に満ちた真理のみことばを宣べ伝えましょう。聖書のみことばこそ地の塩であり、世の腐れを防ぎます。
 この時代に神が最も用いようとしておられるのは教会です。イエス様のいのちは教会の中に生き続けています。イエス様、私たちの教会を用いて、あなた様の救いの御手が多くの人々に伸べられますように!



無題 | 10:02:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
信頼は無限の可能性を開く!

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。                     (詩篇37篇5節)
お隣の佐賀県の高校が、夏の高校野球大会でドラマチックな優勝を遂げてくれました。延長15回、引分け戦を演じたときから、マイナーな佐賀県に、スポットライトが当たればよいがと、ひそかに期待していたのですが。聞いてみると、佐賀北は普通の県立高校で、金をかけた立派な練習施設があるわけではないとのことです。それを聞いて、ますます応援したくなってしまいました。

なんとかして勝てるチームにしたいと思った監督は、選手と交換日記を始めたそうです。選手たちと話す時間は取れなくても、日記を見ると、選手ひとりひとりの状態を把握することができたのでしょう。選手たちも、監督が自分をわかっていてくれると思うだけで、スランプを脱することができたかもしれません。この交換日記によって、チームにまとまりが出て来、ついには4081校の頂点に立つに至ったというわけです。

クリスチャンにとって、祈り、みことばを聴く生活は、イエス様との交換日記のようなものです。私たちの導き手である主イエス様は、私たちが祈りによって、私たちの状態をお伝えするのを待っていてくださいます。そして、みことばによって、最良のアドバイスをくださいます。主との、この双方向の交わりは、クリスチャンの生命線とも言えるでしょう。

聖書は、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4-6)と私たちに常に祈ることを勧めています。親はいつも、こどもの気持ちを受け止めてあげたいと願いますが、お互いに甘えもあり、かえって気まずくなってしまうことさえあります。深い悩みまで受け止めてくれる友達を持てる人も、決して多くはないでしょう。ただ神様だけが24時間、私たちの祈りに耳を傾けていてくださいます。そして、どんなに込み入ったように見える問題にも、最善の解決の糸口を指し示してくださるのです。

監督を信頼し切った選手たちは、どんなピンチにあっても落ち着いて、底力を発揮できました。大ファインプレイを演じ、「ここぞ!」というところで、「まさか!」の逆転満塁ホームランを打てたのです。
私たちの導き手であるイエス様は、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15-4)と招いていてくださいます。弱い私たちが、苛烈なこの世の戦いを勝ち進めるよう、イエス様はいつも、みことばをもって励ましていてくださいます。今週も、主に拠り頼み、一歩一歩と信仰の歩みを続けてまいりましょう。



無題 | 15:17:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
安心しきって生きる人とは?

2003年8月週報より
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
(詩編118篇1節)

 聖書はしばしば人を羊にたとえています。その理由の一つが、共に近視眼で先を見れないからでしょう。私たちは今雷雨が激しくたたきつけていれば、その上に広がっている青空のことはすっかり忘れています。

 信仰をもって生きるとは常に現実の一歩向こうを視野とすることではないでしょうか。今大嵐が吹きまくっていても、イエス様に来ていただくならば、その惨状を喜びの歌の沸き上がる場に変えてくださることを信じる生活です。

 私たちは確かにイエス様が「私の味方」であるといつも告白できるでしょうか。そう言えるだけ、私たちは誠実にイエス様に従っているでしょうか。どぎまぎしてしまうとしたら残念なことです。

 信仰とは苦しい時の神頼みではありません。順風・逆風にかかわらず、イエス様が友に歩んでいてくださることを喜ぶことです。イエス様が「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」と語られたからには、キリストの介在を願うクリスチャンにとって、わざわいなどと言える出来事はありません。

 朝目覚めたら、「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」と期待して一日を始めましょう。イエス様が味方ですから精いっぱい働くことができます。そして、詩篇の作者は、「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。」と一日を終えています。

 それでも人間は弱い者ですから、がっかりすることも、考え込むこともあるでしょう。イエス様の弟子たちでさえそうだったのですから。しかし、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」とイエス様は今日も語りかけていてくださるのです。



無題 | 11:47:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
こんな「喜び」を持っていますか?

おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』
(ルカ伝15章32節)

今年も九州の夏季聖会が開かれました。準備、ご奉仕を担当してくださった北九州BBCの三宅先生はじめ、愛兄姉の皆さん、講師の近松牧師、ありがとうございました!参加者の皆さんは、「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」(詩篇133-1)を実感されたのではないでしょうか。

遠く南は長島、東は岡山からも参加者がありましたが、そのうちのお一人Tさんがイエス様を信じる決心へと導かれました。イエス様が、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15-7)と語られたとおり、この救いはキャンプ最高の喜びとなりました。

後からうかがうところによれば、Tさんは旅先で岡山BBCのS姉と出会い、教会へ誘われたそうです。幼少期に教会学校に通ったこともあるそうですが、何十年も経て、とうとう救い主イエス様を知るに至ったわけです。「Tさんが救われました!」と感極まって報告してくださった澤先生、Tさんを教会へ誘われたS姉、フィリピン出身でオーストラリア人のY兄、それに生まれたばかりのT姉が加わっての、岡山BBCの特別讃美は、天にも響き渡る喜びの歌声でした。

主催教会の中学生と小学生の姉弟が、先生がたの励ましに支えられ、トランペットの練習を続けて、精いっぱいの讃美を聴かせてくれたのも印象的でした。「イエス様のために」という目的で練習すると、必ず上達するし、人を感動するプラスアルファが加わるものです。今後の成長が楽しみです。

こども集会も充実していたようです。帰りの車の中で、L君がスペイン語、タイ語、英語、そして日本語で「喜びは我がこころに!」を歌っていました。大勢の信仰の仲間たちとの子ども集会が、よほど楽しかったのでしょう。赦される喜び、集う喜び、祈る喜び、天国の喜びについて、四人の先生がたから、おはなしを聴いたそうです。いずれも、こどもたちの心に宝物として残ることでしょう。

レクリエーションではオリエンテーリングをしました。地図を頼りに、隠されている標識を見つけて回るゲームです。一緒に回った小学三年生たちは、地図もしっかり読めて、時間内に25の標識全部を見つけ、満点の優勝でした。疲れをしらない彼らは、すぐにサイクリングを2周し、海にまで歩き通し、皆を驚かせてくれました。

近ければ集える甘木の兄姉の中には、今年の会場が北九州ということで、残念ながら、参加できなかった方々もおられたにちがいありません。しかし、キャンプは、あくまで特別な行事です。信仰生活の中心ではありません。一回一回の礼拝、祈祷会を捧げ続けることこそ、主の賞賛に値する信仰の歩みです。
秋には皆がそろって、教会創立20周年を祝いましょう。この地で常に、イエス様への礼拝が捧げられていくかぎり、人々は神の救いの近くにいることができるのですから。



無題 | 17:17:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
もう一つの「終戦記念日」とは?

2003年8月週報より
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。          (ローマ書5章1節)

 今年も被爆地広島と長崎から全世界の人々に向けて平和宣言が発せられ、戦争の残酷さ、悲惨さが写し出され、証人たちの口を通して語られました。そこには二度と戦争をくりかえしてはならないという強いメッセージが込められています。

 しかし、現実に戦争はくりかえされています。「殺してはならない。」という神の戒めは破られ続けています。そして、戦争はリアルタイムで放映され、少年たちの目は仮装と現実とを問わず暴力シーンにさらされています。

 平和の希求は残念ながら堂々巡りしていると言わざるを得ません。しかし、私たちは神との終戦記念を今日も祝います。奪われることのない神との平和を喜びます。キリストの十字架が永遠の平和を実現してくださったことを証し、礼拝をお捧げします。

 隣人とのいさかい、家庭の不和などはしばしば悩みの種となります。しかし、人は神とのこじれた関係に気づきません。神と絶交しながら、平和をどなたに祈り得るのでしょうか。

 イエス様は、「平和をつくる者は幸いです。」と語られました。それはイエス様を信じ、その教えに従う者たちを指しています。この人たちこそ平和を祈るために召された人たちです。
 教会は平和の語り部です。そこで語られる神のみことばは魂を神との平和に導きます。この働きをイエス様はお選びになった人たちを用いて今日も続けておられます。

 いつの時代でも人の心は頑なで、イエス様を見向こうとしません。教会の証が徒労に見えてくるかもしれません。しかしイエス様は、「小さな群れよ。恐れることはありません。」と今日も教会を励ましておられます。



無題 | 09:43:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
人を動かす「ことば」とは?

聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。  (第二テモテ3章15節)

先日、ハンガリー生まれの数学者であり、大道芸人でもあるピーター。フランクルさんの講演会があるというので出かけてみました。11ヶ国語をマスターしているそうですが、どういうわけか日本が気に入って、生活の場を日本に置いているそうです。あまりにも多才な方ですから、いちいち感心していたら、きりがないのですが、細微にまでこだわって、正しい日本語を身に付けようとする姿勢には、特にハッとさせられました。

ユダヤ人の家庭に育ったピーターさんは、お父様から「自分の中に財産を詰め込む」ことを教えられたそうです。ユダヤの家庭において、バイブルは最高の教科書ですから、どこへ行っても通用する、生き方の基準をピーターさんは聖書から学んだにちがいありません。その基準で日本人を観察し、的確に分析するので、話の随所で日本人の軽薄さに気づかされ、一同苦笑いという場面が、いくつかありました。

聴衆が「ヘンな外人だ!」と言って、出て行ってしまったのでは、講演会を開く意味がありません。聴衆の視野を拡げ、生活を改善するような影響を及ぼしてこそ、良い講演と言えるでしょう。教会は世に向かって神様のメッセージを語るために立てられています。では、そこから発信されている神のみことばが、どれだけ世に価値ある影響を及ぼしているだろうかと考えながら、帰途に着きました。

過酷な長旅に疲れて、イスラエルの民は指導者モーセに、さんざん文句を言いましたが、モーセを介して語られた、「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。」(出エジプト14-13)というみことばを聴いたとき、彼らは勇気をもって、前進することができたのです。私たちもまた、このみことばに励まされて、会堂建築を成し終えることができたではありませんか。どんなに状況が絶望的に見えようとも、神のみことばには、希望のエネルギーが満ちています。

私たちはピーターさんのように多芸でも有能でもありません。しかし、多芸や才能は人を楽しませることはできても、無力に、へたり込んでいる人を立たせることはできないでしょう。教会が伝えているキリストのことばは、倒れこんでいる魂を生かすことができます。人を生まれ変わらせる影響力があるのです。

この町でも、いつもイエス様の特別講演会が開かれています。人々は教会に来さえすれば、イエス様のみことばを聴き、祝福を祈っていただくことができるのです。教会はそのように、この町に設けられた、神の御国の出張所なのです。



無題 | 20:53:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
良き「友」になるためには?

2003年8月週報より


友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。
(箴言17章17節)

信頼でき、助け合える友を持つことは幸いなことです。ヨナタンとの太い友情のきずなで結ばれていたダビデは、「あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。」と親友の死を悼みました。

 友情はお互いが真実を尽くして育んでいくものです。自己中心に相手を利用しようとしません。逆に、自分が持っている良きものを、喜んで相手に与え続けます。

 夫婦であって、親友でもあるといったカップルは倍して幸いでしょう。肉親のきずなの強い家庭にも力強さを感じます。また、教会の兄弟姉妹が親友であるなら、それは神の賜物にちがいありません。
 「どうも友達づくりが下手で」という人はまずイエス・キリスト様を知ってください。イエス様はあなたの親友になってくださいます。イエス様の真実な愛は、あなたの気ままな性格を造り変え、人を支える良き友へと育ててくださいます。

 また箴言には、「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」とあります。真友は悪友ではありません。誘惑の種ではなく、切磋琢磨して互いに高め合います。

 イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」とみことばを残されました。さて、今日から友のために何を始めますか。絵手紙などもブームのようですね。でも、まずあの友、この友のため祈ってあげましょう。祈りから始めると次に何をするかが見えてきます。

 来年の今ごろまでに、しばらく休んでいた友人関係を掘り起こしてみませんか。誰かが慰めの言葉を必要としているかもしれません。



無題 | 10:03:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
8月6日、どう平和を祈りますか。

あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。(第一コリント11章26節)

 朝のラジオ番組で、その日その日が、どのような記念日であるかが紹介されています。個人的にも、さまざまな記念日を持っています。家族の誕生日や、夫婦の結婚記念日となれば、ケーキや、お花で祝ったりすることでしょう。しかし、明日8月6日は、実に悲しい記念日です。

 それは一瞬にして14万人もの尊い命を奪ってしまった原爆が、広島に投下された日だからです。誰一人として、この日を楽しみにして待つ人はいません。できうることならば、悪夢として、忘れ去りたいのです。しかし、それは人間が引き起こした歴史の事実です。

 この痛々しい記念日を、有意義な日とするためには、どうしたらよいでしょうか。テレビで慰霊祭を観て、手を合わせるだけで、よいのでしょうか。もう一歩進んで、私たち自身の中にさえ、うごめいている罪の性質に、目を向ける機会ではないのでしょうか。

 あれほどの惨劇を、加害者の論理、被害者の論理で、論じ合っていて、何か明るいものが見えてくるでしょうか。ダビデは、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」(詩篇51-4)と、神に罪の赦しを願いました。8月6日は、すべての人が、神様に愚行を詫びるべき日なのです。

 私たちは今朝、感謝をもって、あることを記念します。それは、救い主イエス・キリスト様が、全人類の罪を負って、十字架の上で、救いの業を完了してくださったことです。聖書は、この身代わりの死について、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53-5)と教えています。

 人間の愚かさは広島に次いで長崎にも原爆を投下し、今日に至るまで、ミサイルだの、枯葉剤だのと、憎しみを込めて、同士討ちを繰り返してきています。争いの連鎖を絶ち、真の赦しを実現するのは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23-34)と祈られた、イエス様への信仰だけです。

 私たちは主の晩餐にあずかり、キリストの平和をもって、家族、地域、国、世界の平和を祈りましょう。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」(ローマ10-15)とあるように、教会は主イエス様が、「希望の扉」であることを、世に向かって証し続けようではありませんか。



無題 | 18:00:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
正直は損か、得か?

2003年8月週報より

では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。     (エペソ書6章14、15節)

 あまり正直過ぎても損をするし、ほどほどに嘘も方便だと言う人もあります。何が正しいかは人それぞれの基準があり、これが絶対の真理だと言えるものはないと考える人もあります。

 箴言はというと、「偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる。」と述べています。神のご性質は100%の真実であり、嘘を激しく憎まれます。

 イエス様は、「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」とクリスチャンたちのために祈ってくださいました。この世の罪によって汚染された魂を浄化してくださるのは神のみことばです。特に、礼拝のメッセージによって、キリストは今もなお説教し続けておられます。

 聖霊を宿すクリスチャンの知恵は正直に徹することです。嘘偽りは悪であり、キリスト者には似合いません。正直に徹して生きようとするクリスチャンと教会は、今日に至るまでキリストの真理を証し続けてきたのです。

 もし人間関係でうまくいかないのなら、相手を変えようとすることをやめ、自分が神と相手に対して誠実を尽くすことです。こそくな手段でごまかすのではなく、真っ向から真実をもって接していくのです。
 どうして正直は勝つのでしょうか。神が味方だからです。神は真理に従って生きようとする者を愛し、祝福してくださるのです。それは永遠に変わることのない神のご性質です。

 ひとり子イエス様をさえお与えになる神の真実なご愛に私たちはどう応えているでしょうか。どれだけ真心を込めてイエス様にお従いしているでしょうか。



無題 | 10:06:46 | トラックバック(0) | コメント(0)