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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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困難を分かち合えますか?

それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。(ピリピ書4章14節)

韓国のクリスチャンヴォランティア23名がアフガニスタンで過激派の人質にされ、リーダーの牧師は既に死体で発見されたとのことです。長引く戦火で荒廃したアフガンの人々を助けんとの、高邁な使命に燃えて現地入りしたことでしょうが、悪の戦略に巻き込まれ、善行をするどころか、彼ら自身たちの命が危険の中にあります。どのような働きのために、危険をも冒してアフガンに赴いたかは存じませんが、神の見守りを祈るのみです。

 彼らが果たして、こうした危険に巻き込まれる恐れがあるということを、深く考えずに出かけて行ったなどということがあるでしょうか。神の導きを求めて祈りに祈った結果、たとえ死に瀕するようなことがあっても、行くべきであると確信して採った行動にちがいありません。アフガンの人たち、こどもたちの叫びが、彼らを、やむなく動かしたのでしょう。それは、常に、わが身の安全を第一にする者たちが、とやかく論評できるような時限の行動ではないはずです。

 私たちの多くは、そこまで行動する責任を問われてはいません。安全地帯に留まり、主イエス様を礼拝する信仰生活で十分です。しかし、福音を宣べ伝えるために、主イエス様が特別な使命を授ける人たちがいます。それが宣教師であり、主に外国での宣教に遣わされてゆきます。

 今朝お迎えした泉宣教師ご家族は、タイに遣わされて、これまで10年間、イエス様の福音を伝えてこられました。数え切れないほどの恵みと、幾多の困難を経験してこられたことでしょう。私たちは直接タイに赴くことはできませんが、ご夫妻の宣教報告を聴かせていただくことにより、宣教の喜びと困難を分かち合うことができればと願います。

 おいしいものや、楽しいことならば、誰もが、よってたかって分け前にあずかろうとするものですが、困難を分け合うことは好みません。しかし、クリスチャンの交わりの原点は、ここにあるのではないでしょうか。私たちの主イエス様が、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ」(ピリピ2-7)、罪人の辛酸を味わってくださったからです。

 イエス様は決して、人間の苦悩を高みの見物してはおられませんでした。それどころか、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」(Ⅰペテロ2-24)たのです。この愛によって救われた私たちも、互いの困難を、我がものとして分かち合えるようになりたいものです。



無題 | 18:15:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
人を生かす言葉遣いとは?

2003年7月週報より

兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。  (第一テサロニケ5章14節)

 皆さんは言葉の持つ影響力をどう評価しますか。気落ちしていた時、誰かの一言で明るい気持ちを取り戻せたとか、逆に誰かの一言で気が滅入ってしまったとかいうことがありますか。確かに言葉は力を持っていて人を傷つけることもあるし、人を勇気づけることもできます。

 そのことに気づくと、言葉を発することに注意するようになります。言葉が薬にも毒にもなり得ると知れば、言葉の用い方を身につけることは極めて価値あることです。

 まず心がけたいことは、お互いに徳を高め合えるような交わりです。目がイエス様に向けられて讃美が口を突いて出るような、次に会う人にイエス様の愛を話したくなるような会話です。

 お天気や体調に左右されて、気分や感情のおもむくままに言葉を発していたのでは人を支えるような話し手にはなれないでしょう。まず週の初めにイエス様を礼拝し、神のみことばによって心を整えていただきましょう。私たちの心が聖霊によって満たされる時、私たちの口から出てくる言葉は人に慰めを与えるものとなるでしょう。

 聖書にはイエス様がそのおことばで病む人たちを癒された記事が多く記されています。あの時代のように、今日の人々の心も病み苦しんでいます。イエス様のおことばは彼らの魂をも救い、生かすことができます。

 良い人間関係を築いていくためにも言葉のコントロールは大切な要素です。私なども一言足らなかったり、余分だったりでしばしば失敗する者です。ですから、この学びは一生の課題だと思っています。すばらしい神の賜物である言葉を神の栄光を褒め讃え、人の徳を高めるための道具として用いさせていただきましょう。



無題 | 10:39:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
他者の苦難を、どこまで分かち合えますか?

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。            (マタイ伝24章7節)

七月としては異例な強さの台風4号をやり過ごしてホッとする間もなく、新潟県中越地方を再び、大地震が襲いました。3年前の傷跡がまだ癒えない中、同地方の方々が、また恐ろしい体験をされ、避難の忍従生活を余儀なくされていることに、心が痛みます。ライフラインの確保が急がれますが、懸命に働いておられる皆様に、神様の助けをお祈り申し上げます。

 あのような過酷な状況の中で、苦闘しておられる方々の姿は、私たちを原点に連れ戻してくれます。当たり前と決め込んでいる日常は、決して当然のものではなく、神の恩恵と言わざるを得ません。蛇口を捻れば水が出、毎晩、大の字になって眠れることは当たり前ではなく、神の恩恵に他なりません。「神様、ありがとうございます!」と、いくら謝しても足らぬほどの恵みではないでしょうか。

 ヨブという人は神の御前に潔白な信仰の人でしたが、幾多の辛酸をなめなければなりませんでした。彼が予期せぬ災難に見舞われたとき発した、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1-21)という言葉は、私たちを沈思黙考に導きます。

 彼は、「神様、なぜ?」と問い詰めたかったことでしょう。弱さをもつ人間である以上、うらみつらみも口走りたかったのではないでしょうか。しかし、彼は神の善に信頼する人でした。パウロが後に述懐しているように、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ1-4; 5)という神の摂理があることを感じ取っていたにちがいありません。

 中越地方にも、いくつかのイエス様の教会があるはずです。特に、上越聖書バプテスト教会のことが案じられます。おそらく、相次ぐ余震の中で、懸命にイエス様の働きに励んでおられることでしょう。主が先生がたと御教会を支え、地域の光としてくださいますよう、切に祈らせていただきましょう。



無題 | 18:33:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
「一隅を照らす」生き方とは?

2003年7月週報より
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
(第二コリント9章7節)

 御霊の実の4番目の徳目に数えられているのが寛容です。パウロは、「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」と、寛容が神から発していることを教えています。

 また箴言には、「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」とあります。隣人にかける一言の挨拶、失意の人を励ます一通の手紙は巡り巡って、やがて何倍にもなってその人に帰ってきます。

 「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」とは私たちの寛容が助けを必要としている人たちに向けられるべきことを教えています。人のいのちを虫けらのように取扱い、自分のいのちを安っぽく売り飛ばすような今日の少年たちに語るメッセージを教会は持っていないのでしょうか。

 キリストの十字架こそ神の寛容を明らかにしています。今の時代の混迷を嘆いているだけでなく、神の寛容な赦しを指し示しましょう。イエス様の十字架の血潮は利己的などん欲から私たちを解放し、神をお喜ばせする者へと創り変えてくださいます。

 イエス様は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と求めておられます。ちょっとした一言で腹を立てたり、信仰告白をぼやかしてしまってはキリストの弟子として恥ずかしいことです。

 キリストに従う者はいかなる状況にあっても、名が天に書きしるされていることを喜び得ます。これこそ何者も奪うことのできない魂の救いです。神の幸いなこどもたちとして、今週も一隅を照らすキリストの証人でありましょう。



無題 | 14:45:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
「どんな境遇にあっても満ち足りる」とは?

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。        (詩篇119篇71節)

先日、歌の奉仕を終えて、施設を後にしようとしていると、一人の車椅子の方が近づいて来られ、身の上話を始めました。Nさんは52歳で難病を発症し、その後、12年間、寝返りもできないような状態で、闘病生活を送られたそうです。痛みや床ずれに耐えながらの12年間は、どれ程苦しい日々だったことでしょうか.しかし、Nさんから受けた印象が爽やかだったことに驚きました。

 なぜかなあと考えてみました。そして、気づいたのは、Nさんの記憶が、辛かったであろう12年間に捕らわれていないということでした。Nさんの口から出て来たのは、その闘病の間、すべてのお世話を担ってくれた奥様への感謝の言葉が主だったのです。

 おそらく、実際の闘病生活は、介護する側にとっても、される側にとっても、苦難の日々だったことでしょう。しかし、その辛さについて語るのでなく、「女房に頭が上がらないよ。」と、暗に奥様への感謝の気持ちをほのめかすNさんの変形した両手を取って、「良い奥さんを持って、幸せでしたねえ!」と、私は祝福の言葉を伝えることができました。

 更に、驚くのは、パウロが語っている、「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」(ピリピ4-11)というみことばです。この言葉は、やたらに言えるものではないでしょう。なぜなら、私たちは、とかく悪い境遇を愚痴りたくなるものだからです。では、どうしてパウロは、「どんな境遇にあっても満ち足りること」ができたのでしょうか。

 それは、彼には揺るがない希望があったからにちがいありません。今という瞬間的な状況だけで、事の成り行きを判断するような愚を冒すことがなかったからでしょう。身は投獄の最中にあっても、彼の目は遠く永遠を見据え、心は全く自由でした。主イエス・キリストが、彼の魂を、あらゆる罪の束縛から解放していたからです。

 今まさに、七月にしては異例の大型台風が猛威を振るって、九州を通過していこうとしています。各地に、被害のなきことを祈ります。と同時に、嵐をも支配しておられるイエス様を信じ、一人でも多くの人たちが、救いの港にはいれますよう、共に働いてまいりましょう。



無題 | 16:28:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
人間にとって、「働く」ということは?

2003年7月週報より

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。 (コロサイ書3章23、24節)

 私たちは労働の起こりを神の天地創造に見ることができます。宇宙を緻密にデザインし、人をご自身のかたちにお造りくださったのです。そして、人にも働くことを課されました。

 ですから、人が勤勉に学び、その能力を活用して働くことは大いに推賞さるべきことであり、人間の勤労は神の栄光を現すのです。しかし、家族も犠牲にし、神を礼拝する時間も取れないほど仕事にのめり込んだ状態は、神の意図から逸脱していると言わざるを得ません。

 イエス様は「神が遣わした者(イエス・キリスト)を信じること」が、私たちが為すべき尊い労働であると説かれました。それぞれが授かっている仕事に身を入れ、安定した生計を志すべきですが、金銭に執着し過ぎる生活を神は喜ばれません。

 イエス様を信じ、神に礼拝をお捧げし、イエス様の教会の働きに積極的に参加することこそ人が創られた目的であり、魂に深い満足をもたらす勤労です。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」というイエス様のみことばをいつも覚えましょう。

 失業者が増えていますが、神は平等にすべての人に仕事をくださっていることを知りましょう。それは神に感謝し、へりくだって祈ることです。また、神の道を求め、神のみことばを熱心に学び続けることです。これは神が生涯人に求めておられる尊い働きです。
 人間の罪がさまざまな形で噴き出してきている今、教会は世の光、地の塩としてキリストの救いを高く掲げる働きを続けてまいりましょう。



無題 | 10:41:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
「美しい日本」実現のため、私は?

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。        (詩篇19篇7節)

国会が閉会し、これから参議院選挙に臨むということで、安倍首相の記者会見が流れてきました。短期間に三人も大臣を代えなければならなかったり、内閣支持率が急落したりで、辛い立場であろうと察しますが、首相は、「抵抗勢力に屈せず、改革に邁進するだけです。」と爽やかに語っておられました。支持する、しないはともかく、身を張って国民を守ろうとしておられる姿勢に、神の導きを祈らずにはおれません。

 安倍首相は就任に当たり、「美しい日本」、「やり直しのきく社会の実現」といったスローガンを掲げて登場しました。いずれも高邁な目標だったと思います。私たちも日本国民として、この目標達成のため一役を果たすべきでしょう。教会に託された使命をコツコツと続けることによってです。

 「美しい日本とは?」という問いに、四季を通じての自然の美しさ」や、「伝統文化を大切にすること」などが上がっていました。教会はイエス様の福音を伝えることで、美しい日本を実現してまいりましょう。「わたしは、世の光です。」(ヨハネ8-12)と語られたイエス様の働きが続けられてこそ、そこは祝福の地なのです。

 身の周りにも、病を経て、リハビリに励んでおられる方々が多くあります。ハンディを背負う身となったからといって、そこで人生が終わってしまうわけではありません。新たなステージに入っただけです。とは言っても、こうした状態からの再チャレンジには、さまざまな助けが必要です。イエス様が語られた、「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(5-8)というみことばには、「もう一度、がんばってみよう!」と思わせる、権威の響きがあります。

 健康な人にとって杖は邪魔なだけです。しかし、弱さを抱える身となっても、人は杖を頼りに、安全に歩くことができます。それと同じように、順風満帆のときには、神の助けを仰ぐなどということは、脳裏をかすめることすらないかもしれませんが、「苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46-1)なのです。

 これから投票日まで、さまざまな政治公約が連呼されることでしょう。その中で、教会は確かな神の約束を語り続けましょう。今私たちは「希望への扉」を配布していますが、「この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5-5)と聖書は約束しています。決して裏切ることのない約束が、私たちに託されているとは、責任あることではないでしょうか。



無題 | 20:15:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
謙遜は未だに価値あり!

2003年7月週報より
謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。
(箴言22章4節)

 自己主張することが推賞され、人より半歩でも前に出ることが勝ちだと思われている時代に、謙遜という言葉はどう響くのでしょうか。消極的、臆病、怠惰と謙遜とはどうちがうのでしょうか。

 聖書によると、神は人間の高ぶりをひどく嫌悪しておられます。「主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、」とあるように、高慢は神が最も嫌われる性質として上げられています。

 これに対し、神の前に身を低くする人への豊かな祝福は聖書全体に述べられています。たとえば、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」とあるように、神の目には謙遜は明かな美徳なのです。

 自分より偉そうな人にはペコペコしても、自分より劣っていると見るやとたんに態度がデカくなる人もいます。謙遜とは人との比較から出てくるものではなく、神への畏怖に根ざしています。

 私たちの謙遜の模範はイエス様です。「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
 「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」とあります。このイエス様への信仰が私たちの高ぶりを砕き、次第に真の謙遜を養ってくれます。

 礼拝とはイエス様に名を呼んでいただいた者たちが、進んで自らをお捧げすることです。謙遜とは言い訳をして身を退くことではなく、「私でよかったら、どうぞお使いください。」と神に近づくことです。



無題 | 13:36:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
偽物と本物、どっちを好みますか?

すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。       (ピリピ書4章8節)

相変わらず食品偽装の問題が、次々に明るみに出されています。もちろん、そうした反社会的な行為は厳しく断罪されなければならないのですが、長年にわたって、偽装食品を本物と信じて食べ続けてしまった消費者の感覚については、どう考えたらよいのでしょうか。食品の専門家も含めて、本物と偽者を賞味し分けるのは、それほど難しいことなのでしょうか。あるいは、ひょっとすると、偽者の肉の方が消費者の嗜好を満足させていたのかもしれないとさえ思えてきます。

 テレビ一つを取ってみても、うそ偽りで人を笑わせるような番組が目立ちます。もし、同じ時間帯に、真面目なドキュメンタリー番組が放映されていたら、どうでしょうか。お笑い番組の視聴率が、はるかに高いのではないでしょうか。人はまがい物を批判はするものの、ほどほどの割合で、偽者も混入された環境を好むものなのかもしれません。

 しかし、聖書は、「すべての真実なことに心を留めなさい。」と、あくまで本物を追求することを勧めています。お笑い番組を見て高笑いをすれば、ストレス解消にはなるかもしれませんが、そこにあるのは「よろこび」ではありません。よろこびとは、神との関係が修復されるとき、与えられる神の賜物だからです。

 人間の心を罪の曇りから晴らしてくれるのは、神の御子イエス様の十字架の赦しのみです。この救いの道だけが、痛んだ心に本物の喜びを回復してくれます。この心理に目を留める者に、「神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(4-7)という約束が伴っています。

 混ぜ物入りの肉を食べたのと、100%の牛肉を食べたのと、健康にどのようなちがいが生じるかはわかりません。しかし、どのような教えを心の中心に置くかは、その末路に重大なちがいがあります。イエス・キリストだけが堕落した人の心を、永遠のいのちに変えることのできる救い主だからです。

 私たちがイエス様を礼拝し続けることに勝る証はありません。人は私たちの生き方で、私たちの信じる神を判断するからです。イエス様が私たちを通して見られています。神に対して責任のあることではないでしょうか。



無題 | 20:18:51 | トラックバック(0) | コメント(0)