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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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性を正しく管理するためには?

2003年6月週報より
それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
(創世記2章24節)

 毎日報道される事件の多くが性関係のもつれに起因しています。また、エイズのように性に関わる病気が民族を存亡の危機に立たせている現実もあります。いったい私たちは性をどう受け止め、どう管理していったらよいのでしょうか。

 聖書は第一に結婚という制度を神が創設されたことを告げています。政府や教会、その他のどんな組織よりも先に神は家庭を定められたのです。そして、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」と初めの夫婦を祝福されました。

 今日、この制度が尊重されているでしょうか。性は結婚の中においてだけ祝福されていることが厳粛に受け止められているでしょうか。神に背を向けた人間は結婚を軽んじ、自分たちに都合のよい性の解釈を始めました。

 その結果、人は結婚の喜びを失い、性が争いのもととなっています。神がお立てになった美しい制度を破壊する者は当然の末路をたどらなければならないことを、聖書はくりかえし警告しています。

 もし、私たちの生き方の中に神のみこころに叶わないことがあるならば、その罪を離れ、キリストの十字架の血潮によって聖めていただきましょう。私たちの目的は、「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすため」だからです。

 巧妙な世の誘惑に抗する道はキリストへの礼拝です。神へお捧げすべき時間やお金を誤用していると、そこが誘惑の入り口になる危険があります。一方、イエス様への讃美と祈りは私たちの心から愚かな思いを取り去り、神の知恵で満たしてくれます。

 キリスト信仰に立ち、正しい神との関係に生きることこそ、独身者であれ既婚者であれ、時代がどう変遷しようと、変わることのない祝福の礎です。



無題 | 09:40:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
依存症と信頼の違いは?

まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。            (ヨハネ伝6章47節)

新しい教会案内「希望への扉」を家々にお届けして回っていますが、道すがら、宮殿と見まがうような建物に出っくわすことがあります。広い駐車場は、たいていの場合、満車状態です。言うまでもなく、これはパチンコ屋の光景です。「どういう人たちが行くんだろうね。」などと話しながら、通り過ぎることがほとんどなのですが、最近、「パチンコ依存症」という言葉を耳にして、あそこに入り浸る人たちのことが、心にかかるようになっています。

タバコや酒で心のバランスを衡ろうとするのと同様に、パチンコでストレスを解消しているうちに、依存症に陥ってしまう人たちが急増しているとのことです。家庭でも職場でも気を遣い、何かで気持ちをリフレッシュしようとするとき、身近にあるのがパチンコなのでしょう。当然、こうした依存状態に陥れば、経済的な破綻、人間関係の崩壊へと進んでいくことが考えられます。

 依存症は病気ですから、自らの意志で抜け出すことは難しいことでしょう。今日、イエス様が町を歩かれて、パチンコ屋に入り浸る人たちを見られたら、どう思われるでしょうか。イエス様は、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5-31; 32)と語られました。

 ストレスに押しつぶされて、パチンコに逃げ込んだ人たちの弱さと苦悩を、イエス様はどれほど哀れんでいてくださることでしょうか。パチンコは瞬時の高揚を与えながら、いつの間にかプレイヤーを過度な依存状態へと誘っていくのでしょう。そうした形でストレスを解消しようとする前に、イエス様の、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11-28)という招きに耳を傾けてほしいものです。

 詩篇の作者は、「まことに、みことばは私を生かします。」(119-50)と証しています。イエス様も、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4-14)と約束しておられます。イエス様を信じて受ける「永遠のいのち」とは、ギャンブルがもたらすような、つかの間の「ぬか喜び」の対極にあるもので、魂の自由と、永遠の成長です。

 今配布している案内を見て、教会を訪れる人たちが起こされるよう祈りましょう。神様は、「ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3-16)ことを、すべての人に望んでおられるからです。



無題 | 18:08:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
良い行いの原動力は?

2003年6月週報より

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。           (エペソ書2章10節)

 聖書に、「名声は多くの富よりも望ましい。」とあるように、私たちが良い評判を受け、人々の信頼を得ていくことは極めて大切なことです。しかし、人から良く思われたいために、軽んじてはならない評価があります。それは神の基準による名声です。

 人は努力や善行によって神の祝福を勝ち取ることはできません。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた。」と告白する者の信仰を、神は「正しい!」と認めてくださるのです。

 私たちクリスチャンに備えられた「良い行い」とは何でしょうか。それはキリストへの礼拝を中心とする生活です。イエス様への信仰なしに人が救われることがないように、イエス様を褒め讃え、みことばを受け、祈る礼拝生活なしに神をお喜ばせすることはできません。

 時にはキリストを礼拝する生活が世間の評判を得る妨げになるかもしれません。その時、私たちは神の名声を優先します。イエス様に仕え、福音宣教を担っていくことこそ私たちに与えられた使命です。

 今日バプテスマを受ける兄姉は備えられた良い行いを実践します。キリストがお与えになった命令に喜んで従うからです。この式を神は大いに祝福してくださいます。そして、兄姉は教会へ加えられ、神にお仕えする生活をスタートします。
 与えられた能力を活用して勤勉に働くことは神のみこころです。その結果として社会的な名声は伴ってくるものです。今週も天に宝を積む生活を一歩一歩続けてまいりましょう。



無題 | 14:16:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
人を前に向かわせる力は?

私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。   (ピリピ書3章8節)

最近、労働者の皆さんが長年掛け続けてきた年金が危ぶまれています。記録を確認するための電話が殺到しているようですし、当局に行列する方々も多いと聞きます。老後のプランを揺るがしかねない問題ですから、多くの国民が不安を抱くのも、むりからぬことでしょう。

 確かに、年金制度は、退職後の安定した暮らしの屋台骨であるにちがいありません。そうであるからこそ、当局に落ち着いて対処する時間を与えるべきではないかと感じます。壊すためでなく、より良いものに建て上げるには、国民ひとりひとりが、どう振舞うべきかが問われているような気がします。
 それは家庭についても、教会についても言えることではないでしょうか。かけがえのない大切なものなのですから、お互いが批判し合ったりして、壊してしまうようなことがあってはならないものです。メンバー全員が協力し、良いものに育て上げようと努めなければなりません。

 パウロは教会に宛てた手紙の中で、「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」(ピリピ2-2)と書きました。「平和のきずなで結ばれ」(エペソ4-3)ていてこそ、教会は世に対して影響力を持ちます。とかくギスギスとした世にあって、教会には神の救いがあることを、人々が見ることができるからです。

 更に、私たちは、「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、」(ピリピ3-13)というパウロの前進する姿勢に習いたいものです。年金当局も介護事業も、反省することを求められています。いや、すべての人が足らない者であり、時には、ずる賢く身を守ろうと行動するものです。神の御前に、私たちは皆、それらの罪を認め、根本的な生き方を悔い改めるべきです。

 しかし、どんなに失敗した人であろうと、後ろ向きな考え方をしてはなりません。それは、絶望の藪の中に迷い込む、愚かな選択です。パウロは、「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3-11)と主張しました。彼の姿勢のどこに、あきらめがあるでしょうか。彼は常に、「ネバーギブアップ!(never give up)の人だったのです。

 イエス様は私たちに、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14-2)と約束しておられます。更に、「あなたがたをわたしのもとに迎えます。」(14-3)とも語られました。これらの主の約束に堅く立って、キリストの証人としての歩みを続けようではありませんか。



無題 | 19:19:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
健やかな成長に役立つ訓育とは?

2003年週報より
わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。
(箴言3章11、12節)

 時々、お子さんやお孫さんの問題行動について相談しているラジオ放送を耳にすることがあります。そんな時、カウンセラーの口から叱責を勧めるようなアドバイスを聞くことはまずありません。むしろ、叱ることをとどめています。

 その原因にいじめなどがあり、その傷ついている子を更に懲戒することは良い結果に結びつかない場合も事実多いことでしょう。かといって、教訓し、訓育することの価値も軽んじられてはならないものです。

 私たちはイエス様にお仕えする者ですが、主であるキリストは私たちを懲戒することがあるでしょうか。もし、礼拝を捧げようが捧げまいが何一つ心の痛みも感じないとしたら、本当にその人の心に聖霊が住んでいてくださるかどうか心配してみる必要があるでしょう。

 聖霊はみことばにより私たちの不従順を指摘し、怠惰を戒めます。この訓練は私たちを聖徒として養育するための神の愛に基づいています。クリスチャンはキリストの聖さに似ていくために砕かれ、みことばの実践により罪から聖められていきます。

 私たちはイエス様のいのちをもお与えくださった無上の愛によって罪の赦しをいただきました。それは何者によっても奪われることのない確かな救いです。しかし、そのままの赤ちゃんクリスチャンでとどまり続けてもよいものでしょうか。

 キリストの聖いご性質にあずかるためにその教えを守り、進んでその戒めに従おうではありませんか。神の尊い訓育により、日々主のご聖質に似せられることを追い求めましょう。



無題 | 10:19:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
孤独感から解放されるには?

あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
(ヤコブ書5章16節)

先日久しぶりに、病院に長期入院しておられるYさんを訪ねました。さっそく、Yさんは関を切ったように、孤独な胸の内を話してくれました。個室が与えられ、申し分のない環境で療養生活をしているのですが、心の虚しさに追い詰められているとのことです。「仲間とおしゃべりして、カラカラと笑いたい。」と心の叫びを聞かせてくれました。

 Yさんは手厚い介護を受けています。しかし、彼の傍には話し相手がいないのです。元気だった時の、楽しい仲間たちは、もう彼の周りにはいないのです。Yさんの思いのたけを聴いた後、私は、「Yさん、あなたの方で、周りにいる人の友達になってあげたら、どうですか。」と切り出してみました。

 自分に同情してくれる人を待っている時間は長く感じます。そのような人がいつ現れるか、あるいは、とうとう現れないことさえありえるのです。しかし、自ら進んで誰かの友達になることは、自分がその気にさえなれば、今すぐ、できます。私たちの周りには、慰めや励ましを必要とする人たちが大勢います。それらの人たちは、私たちの挨拶の一言で、幸せな一日を過ごせるかもしれないのです。

 きっと、Yさんの状態は、絞っても一滴の気遣いも出ないほどに、からからに乾き切っていたのでしょう。ですから、私は、「まず、Yさん自身が、イエス様の愛で満たされる必要がありますね。」と言って、手を取って祈りました。充分に愛されている人だけが、他者に対して、自然な配慮ができるのではないでしょうか。祈り終わったYさんの様子は、元来の人なつこさを取り戻していました。

 聖書は、「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。」(ヤコブ5-14)と教えています。病気の人に限らず、何事でも困ったことがあれば、牧師を呼んで、祈ってもらうことを勧めます。牧師が何かができるのではなく、イエス様がその問題に、必ず最善の導きをくださると信じるからです。

 地球温暖化も、ようやく深刻に受け止められ始めています。これは明らかな神からの警告です。今こそ、すべての人が神の前にへりくだって、あわれみを祈るときです。イエス様は、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6-37)と約束しておられるからです。



無題 | 18:39:37 | トラックバック(0) | コメント(0)
知恵をいただくためには?

2003年6月週報より
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。 (ヤコブ書1章5節)

 知識と知恵は深く関連していますが、同じではありません。学歴を積めば知識は増しますが、知恵を得られるとはかぎりません。知恵とは得た知識を日々の生活の中で生かし、その経験を通して獲得されていくものです。

 聖書はまた、この知恵に2種類あると教えています。一つは得た知識を己の欲を満たすために誤用・悪用していくものであり、神の介入を嫌います。たとえみことばを聞いても従おうとはしません。

 神の知恵をいただく人は心を低くしてみことばを学びます。明かな神の命令には服従しようとしますし、聖書に登場する人物たちの成功・失敗を自らの歩みの肥やしにしていきます。

 誰もが知恵を欲しますが、どれだけの人が神の知恵に心を向けるでしょうか。また、目先の利害に関わらず、神が人に望んでおられる道を選んで行くでしょうか。パウロは、「キリストは神の力、神の知恵」であると主張しています。

 知恵のない人とは知識の量が少ないひとではなく、どこまでも神を認めようとせず、キリストを拒み続ける人です。健康や能力、財力をそれを授けられたお方の目的のために用いようとはしません。

 私たちはイエス・キリストに表された神の愛と恵みに信頼し、救いをいただきました。それは神の知恵に基づいています。では、キリストの知恵が誠実な信仰者の生き方として実を結んでいるでしょうか。
 「願いなさい。」と促されており、「きっとあたえられます。」と神は約束しておられます。今週も神の知恵を求める謙遜な信仰生活を続けてまいりましょう。



無題 | 14:05:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
光を輝かせるために

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。       マタイ5章16節

先日、私は朝倉市の連合文化会の総会に出席してきました。この会は地域文化を通しての市民の交流と、伝統文化の継承を目的とする30余の音楽、舞踊、美術、工芸などの団体によって組織されています。なぜ、そのような場に席を連ねるようになったかといえば、教会の讃美のすばらしさを、どうにかして世の人々にも聴いてもらう機会はないものかと考え、このような団体と共に活動してみるのも、一つの方法ではないかと思い立ったからです。

 イエス様が語られた、「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。」(マタイ5-15)というみことばも後押しをしてくれました。しかし、加盟はさせていただいたものの、どれだけ活動に協力できるかとなると疑問符(?)付きです。今週の木曜日に音楽団体の話し合いがありますが、祈祷会ですから、さっそく出席が叶わないようなわけです。それでも、まずは乗り出してみました。とりあえずの目標は、11月25日に予定されている連合音楽会への参加です。

 キリスト教会の中で育まれ、蓄積されてきた音楽の遺産は、まことに豊かなものです。それは西欧音楽の背骨と言っても過言ではないでしょう。私たちもまた、この豊かな遺産を発掘し、継承していく責任を負っています。何年か後に、讃美歌やバッハの音楽もまた、朝倉の文化の一つとして定着したと思えたら、なんと祝福なことでしょうか。それは全世界への神様の贈り物ですし、そのすばらしさは朝倉市民にも紹介されるべきです。

 また、昨年来配布してきた「いのちを見出す場所」の教会案内が残りわずかになりましたので、新しい案内の作製にも取り掛かりました。「希望への扉」というタイトルです。人知れず、悩んでおられる方々に、イエス様の救いを紹介させていただきたいと祈りつつ、書いてみました。また、この新しい案内を用いて、イエス様のお働きを進めてまいりましょう。

 現役の大臣までが、自ら命を断たなければならないほどに、今日の世渡りは難しいものとなっています。ましてや、若者たちを取りまく状況は、どこで落とし穴に落ち込むかわからないほど誘惑に満ちています。イエス様だけが、「わたしが道であり」(ヨハネ14-6)と宣言し、いのちに至る祝福の道へと招いていてくださいます。

 私たちにも、「これでもか」と言わんばかりに、次々に試練が襲い掛かってきています。しかし、教会のよりどころは磐石です。死を打ち破り、復活された主イエス様が共にいてくださり、私たちを世の光として用い続けてくださるからです。



無題 | 17:30:30 | トラックバック(0) | コメント(0)