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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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誘惑に勝つ方法とは?

2003年6月週報より
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。                     (第二テモテ3章16節)

 詩篇の作者は、「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。」と自問しました。昔であっても、若者たちが誘惑に打ち勝って、きよい生き方をするのは至難の業だったのでしょう。
 まして今日、いたるところに魔の手が待ち受けているような邪悪な時代の中では、多くの人々が苦悩しつつ迷い道を進んでいるようです。しかし、この作者が得た結論は、「あなたのことばに従ってそれを守ること」でした。誘惑の中を交いくぐって行く道しるべが神のみことばであることは今日も同じです。

 私たちは聖書のみことばを魂の活力の源として、悪との闘いの武器として活用すべきです。良き友を選び、祝福された家庭を築き、仕事の繁栄をもたらすのは聖書の学びにより養われる知恵です。
 聖書が、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と宣言しているので、イエス様に信頼する私たちの救いは磐石です。進んで人助けをして、ごほうびとして永遠のいのちを得ようとしても無理です。聖書はイエス様を信じ、受け入れる者に罪の赦しと永遠のいのちを与えると約束しています。

 落胆させられ、魂が枯れ果ててしまうようなことばも飛び交っているのがこの世です。しかし、そんな時でもイエス様は、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語りかけ、再び立ち上がる勇気をくださるのです。
 また、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く」と表現されています。もし、私たちが神に喜ばれない道を進もうとするならば、みことばはその不従順を鋭く指摘し、向きの変更を求めます。

 聖書を読むこと、みことばを暗唱することでこと足りてはなりません。聞いたみことばが各自の状況の中でどう生きているかをチェックしてみましょう。



無題 | 09:29:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
思いやる心は、どう育つのか?

テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。(ピリピ書2章20節)

先日、神奈川にお住まいのS姉が久しぶりに祈祷会に出席され、入院中のお母様の様子など、話してくださいました。お母様は既に90歳を越え、認知症も発症しておられ、入院も長期化しています。そんな中で、S姉はしばしば帰省され、お母様の介護に協力しておられます。今回も、さりげなく、ポピーを見せに連れて行かれたことや、夜須高原にドライブに行った話などしてくださいました。

 こうした親子間の優しい情愛はクリスチャンに限ったことではありませんし、親孝行を実践している方々は、他にもたくさんおられます。しかし、悲しいことに、家族内での悲惨な事件も後を絶ちません。子どもを虐待したり、親を危めたり、異常行動に暴走してしまう人たちが増えています。そうした事件の背景には、責任能力を問えない精神の病があることも事実でしょう。では、病が原因であるならば、再発を防ぐ手立ては全くないのでしょうか。

 イエス様は、人は新しく生まれ変わることができるのだと教えられました。問題なのは、「人々は光よりもやみを愛した。」(ヨハネ3-19)とあるように、むしろ堕落を選び取っていこうとする罪の性質ではないでしょうか。イエス様も、「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5-40)と嘆いておられます。イエス様が差し伸べておられる救いを拒むことは、もったいないことですし、身を危険にさらすことでもあります。

 人を思いやる優しい愛の心は、放っておいて育つものではなく、イエス様への信仰の生活を続ける中で、次第に育まれていくものです。実は、自分勝手な罪の性質は、祈りと礼拝の生活をしつつも、なかなか克服し難いほど、私たちにまつわりついています。それほど執拗な罪の性質に、イエス様の助けなしに常勝することは不可能です。

 冒頭のみことばで、パウロはテモテの思いやりを賞賛しています。彼はピリピの教会のひとりひとりのことを心配し、神にとりなしの祈りを捧げ続けたのでしょう。そして、何か援助できる機会があれば、進んで助けの手を差し伸べたにちがいありません。それはテモテの生まれながらの美徳というよりも、キリスト信仰が結んだ麗しい果実と言うべきでしょう。

 私たちもテモテの中に宿った、仲間に対する思いやりの心を育てていただきましょう。イエス様は、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18-20)と約束しておられます。兄弟姉妹が集い合う礼拝の只中にイエス様は働かれ、私たちを人を思いやることのできる者へと、日々造り変えていてくださるのです。



無題 | 19:20:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
罪は、どうしたら清められるのか?

2003年5月週報より
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。                (詩篇51篇17節)

 今日世界を震撼させているのが新型肺炎の猛威です。どうやらこの病の原因は中国華南地方の食文化に関係あるようです。神はレビ記において人間が食してよい動物を規定していますが、彼らの食文化はその境界線を越えているようです。

 エイズの蔓延もまた人類への神の警告として受け止めるべきでしょう。その原因は明らかに性風俗の乱れと深く関係しています。これはこうした特定の病気に苦しむ方々が特に罪深いということではありません。すべての人が神のきよめをいただかなければならない罪人であるということです。

 聖書は、「罪から来る報酬は死です。」と警告を発しています。警告ランプが点滅しているにもかかわらず、それを無視し続けるなら事故にいたります。しかし、向きを換えて、神を仰ぎ見るなら救われます。己の罪に気づき、神のあわれみを願うなら、そこには豊かな赦しがあるのです。

 ダビデ王は己の罪の深さを思い知らされた時、「きよめてください」、「洗ってください。」と祈りました。今や、イエス・キリストが十字架上で流された血潮は、神のあわれみを求めるすべての人に完全な赦しを与えます。

 新型肺炎やエイズの特効治療はまだ発見されていません。しかし、人間をむしば
んでいる罪の解決は二千年前、神の御子イエス・キリストの十字架と復活によって完成しています。
 どんなに人が私たちの失敗を責め立てても、イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と再出発を励ましていてくださいます。この御約束に信頼し続ける人の心に、神への感謝が絶えることはありません。



無題 | 09:35:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
正しい志は、ごこから来るのか?

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。   (ピリピ書2章13節)

パスカルという哲学者は、「人間は考える葦である。」という有名な言葉を残しました。また、聖書には、「神は、人の心に永遠への思いを与えられた。」(箴言3-11)とあります。私たちの生活において、考えが筋道立って整理され、目標が定まっていると、行動に無駄がありません。それに反して、考えにまとまりがないと、何事にも優柔不断で、活動が停滞します。

 最近の若者たちは、「いかに考えるか」というよりも、「どう感じるか」を大切にすると言われています。確かに、情報があふれていますから、瞬時に見極めていかないことには、取り残されてしまうように感じるのかもしれません。しかし、時にはテレビもパソコンも切って、静かに思索することはきわめて大切なことです。なぜなら、良い考えは、神様からの贈り物だからです。

 礼拝は、神の御前に静まる貴重なときです。あらゆる活動をさておいて、神が、どう私たちに語りかけてくださるかを、心をひそめて聴き取る機会です。意図しなくても、私たちは神様のみこころに真っ向から逆らうような考えを抱きやすい者です。そんな不確かな考えの者ですから、聖書のみことばに照らして、私たちは祝福の道を選び取っていかなければなりません。

 もったいないことに、神のみことばを聴こうとして、教会を訪ねるひとは少ないのが現状です。人々は、神の導きなしに、正しい道を歩めると錯覚しています。しかし、聖書は、「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。(詩篇119-130)と、神のみことばの働きかけを得て、考えることの大切さを教えています。

 多くの人たちが目標をもって、努力を続けています。そうした意欲があれば、たいていの目標は達成されることでしょう。しかし、努力の甲斐もなく、目標を見失うことがあります。実は、そのときこそ、本物の道を見出すチャンスなのです。神によって与えられる志でなければ、本物ではないからです。
 本物の志は神のみこころと一致します。私たちの持てる能力・時間・財力を、神の栄と、人の幸せのために用いることです。自分のものだと言い張って、自分の楽しみだけに遣おうとする時、それらはさび付くか、ゴミ屑に化してしまいます。

 私たちの主イエス様について聖書は、「キリストは、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」(ピリピ2-8)と書き記しています。私たちはイエス様を主と仰ぐ者として、どう生きたらよいでしょうか。常に、このことを自問しつつ、神の働きかけに、身を委ねようではありませんか。



無題 | 15:32:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
人生の選球眼を養うには?

2003年週報より
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
(箴言1章7節)

 最近、電磁波の影響を避けて白い服を着て移動する集団が注目を浴びています。実は、あの類の人々は私たちの身近にも増えているような気がします。この田舎町を歩いていてさえ、さまざまな宗教の香りが漂ってくるからです。

 彼らの行動から、現代人が置かれている状況の複雑さを思わされます。健全に生きていくことはもはや簡単なことではありません。いや、今さらそうなのではなく、正しく生きようとする者には熱心な求道心(神を求める心)がいつの時代でも必要です。

 良いバッターの条件は打つべき球と打ってはならない球を見きわめる選球眼です。バイブルの学びは人生の選択に役立つ目を養います。イエス様は「滅びに至る道」と「いのちに至る道」があることを告げ、後者に進むことを教えています。

 ところが、この知恵を求める人がきわめて少ないのが現実です。その中で、イエス様を信じ、礼拝を捧げる生活を続けていくことは勇気のいることです。自分がそのような生き方を選び取ることも幾多の妨げに直面します。まして、他の人をいのちの道に案内しようとすれば、その人自身が知恵を身につけていなければなりません。

礼拝の姿勢は神に聞こうとすることです。自分の浅知恵の限界を知り、キリストのうちに満ち満ちている神の知恵を思慕し、それを掴み取っていくことです。そして、いただいた真理の知恵を、この誘惑に満ちた日常の生活で活用していくことです。

 24時間、一週間をどう過ごすかに、聖書で訓練された知恵が生かされているでしょうか。神に喜ばれる時間、富、能力の管理がされているでしょうか。この週もみことばを噛みしめつつ、神の導きを願ってまいりましょう。



無題 | 10:21:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
こんな母の日のプレゼントをしました!

彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。
(箴言31章25節)

今日、私たちは母の日を記念して、「お母さんに美しい音楽を贈ろう!」と題する讃美礼拝を計画してみました。母の日がバプテスト教会から始まったと聞かされては、私たちもどうにかして、その精神を継承させていただきたいと願っているわけです。かと言って、お花のプレゼントは、あまりにも一般化してしまったし、世では聞くことのできない音楽をプレゼントさせていただくのが一番だと考えました。

 どこのお店でも買うことのできない、すばらしい賜物を、私たちは神様から預かっています。その一つが教会音楽ではないでしょうか。讃美歌の調べには魂に訴えかける感動があります。せかせかした心を落ち着かせてくれる、安らぎが。詩篇の作者は、「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」(40-3)と書き残しています。こんなにもすばらしい教会の遺産である賛美歌の調べを、もっともっと世の人々に聴いていただき、慰めを受けていただこうではありませんか。

 多くのクリスチャンたちの信仰のきっかけに、讃美かとの出会いがあるものです。賛美歌を聴きたくて、更には歌いたくて、教会に通い、いつしかキリスト信仰に導かれたという人は少なくないのです。現に、私自身の信仰生活の、あらゆる場面にも、感動に満ちた賛美歌が流れていました。調子っぱずれながらも、くりかえし口ずさんでいるうちに、その歌に表明されている信仰の証が、いつしか私自身のものとなっていったのです。みことばの蓄積とともに、心に蓄えられた神への讃美の歌の数々は、今では私の最も価値ある宝物の一つとなっています。

 母の日にしばしば引用される箴言に、「彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。」(31-26)というみことばがあります。このような女性を妻とする夫も、母とする子どもたちも、友人・隣人とする人たちも、皆幸いです。彼女の熱い祈りによって、守られているからです。
 私たちの教会にも、キリスト信仰に生きる、すばらしい姉妹たちが与えられていることを感謝します。ますます主イエス様の栄光を反映し、世の光、地の塩として輝いてください。



無題 | 14:36:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
「母の祈り」とは?

お母さんに美しい音楽を贈ろう♪
  5月13日(日)母の日感謝の集い   10時半から

2003年母の日週報より
彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。     (箴言31章25、26節)
  
 今日、五月の第二日曜日は母の日です。この運動がアメリカのあるバプテスト教会から始まったことをご存知ですか。アンナ・ジャービスという日曜学校の先生が亡き母の愛を感謝してカーネーションを捧げたことがきっかけとなり、やがて大統領の推薦を得て国民の祝日となりました。

 聖書は「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。」と教えています。神はすべての人に母をくださいます。乳をふくませ、子守唄を歌ってくれた母に感謝することは神の備えを認めることでもあります。

  聖書にはまた、「あなたを生んだ父の言うことを聞け。あなたの年老いた母をさげすんではならない。」とあります。私にとっては耳の痛いみことばの一つです。神のみことばに照らしてみる時、親に対して忘恩な者であり、神に逆らう罪人であったことを否めません。

 しかし、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」のです。そして、この神の恵みによって私たちは新しくされました。どんなに母を悲しませるような者であったとしても、キリストの十字架の愛は罪をことごとく赦してくださるのです。

 環境悪化、家庭不和、陰湿ないじめなどでこどもたちが苦しんでいます。更に、その陰で母も苦しんでいます。このこどもたちを救うのは何でしょうか。イエス様を信じ、神のあわれみを願う母の祈りです。
 こどもたちのために救い主を紹介できる母が何人いるでしょうか。イエス様の御名によって祈ることのできるお姉さんを見かけますか。この時代、イエス様の心で、傷ついた魂のうめきを聞くカウンセラーを神は求めておられます。



無題 | 10:06:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
あなたの持ち場を、誰が守るのか?

神と小羊(キリスト)との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。(黙示録22章3,4節)

先日、息子が少年野球のデビュー戦だというので、応援に出かけました。二試合したのですが、一試合目はレフトでスタメン出場、彼の希望のセンターではありませんでした。初の試合経験ということもあり、緊張気味でした。しかし、二試合目は本来のポジション、センターで出場。ガラッと表情が変わり、声を掛けながら、やる気満々です。自分のポジションを守ることの喜びが、全身にあふれているようでした。

 「ここは、私の持ち場だ!」と自覚している人と、何をしたらよいかが、まだ掴めていない人がいます。何でも上手にこなす、器用な人もいますが、一芸に懸けて、精進を続ける人にはかないません。聖書は、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、」(エペソ1-4)と教えています。果たして、選ばれた者として、私たちは本物のキリスト者になりきっているでしょうか。

 パウロは、「恐れおののいて自分の救いを達成してください。」(ピリピ2-12)と勧めています。私たちは自分で自分を救うことはできません。ただ、イエス様に信頼するのみです。なぜなら、救いは神様の恵みのプレゼントだからです。では、「自分の救いを達成する」とは、どういう意味なのでしょうか。

 救いはまさに一方的な神様からの贈り物なのですが、その後の歩みにおいては、おのおののクリスチャンたちが、熱心に奉仕の業に励むよう奨励されています。恵みによって救われ、天国の約束を手にしているのだからと言って、いいかげんな信仰生活をすることは、神様を悲しませることです。私たちは最高の奉仕をもって、神様をお喜ばせすることを心がけましょう。

 イエス様は、「あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」(ヨハネ14-3)と約束しておられます。イエス様が用意していてくださる天の御国には、罪や悪がないのです。病も、涙も、死もありません。イエス様の救いをいただいた者たちだけが入ることのできる、喜びと讃美の国です。

 そこに迎えられる約束をいただいた私たちが、どうして主の業に怠惰であってよいでしょうか。かろうじて天国に入れてもらって、主イエス様の御前で、ふるまい方がわからないというのも、さぞかし戸惑うことでしょう。そんなことがないように、今しばらく、私たちは教会生活を通して、天国でのふるまい方を身に付けさせていただいているのです。

 せっかくいただいたクリスチャンとしての持ち場を立派に果たすために、進んで主の訓練を受け、忠実に奉仕の業に勤しみましょう。私たちが授かった「永遠のいのち」とは、神に喜ばれる者への、果てしない成長だからです。



無題 | 15:16:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
信じることの幸い(この時代に、あえて)

2003年5月週報より
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」                (ヨハネ伝20章27節)

 今日、私たちは多くの誘いの言葉を耳にします。軽快なテンポでその商品の優れた点を上げられると、乗り遅れては損をするような気になってきます。そんな時、冷静さを回復してくれるのが疑いの心です。
 「人を見たら泥棒と思え。」などという過激なことわざさえあるように、昔から人をだまそうとする手くだは多かったのでしょう。ですから、イエス様が生き返って弟子たちに現れてくださったと聞いた時、「まさか!」と頑として信じようとしなかったトマスは健全な思考パターンを持ち合わせた人物であったと言えるのかもしれません。

 「この眼で見なければ信じない。」と言うトマスのために、イエス様は彼がいる時にもう一度弟子たちに現れてくださいました。これは疑いにとらわれたトマスへのご配慮でした。というのは、トマスは友の弟子たちの証言を聞かされても、信じられずに苦悩していたからです。

 今度はトマスはしっかりとイエス様を見ました。主の声も確かに聞きました。彼はイエス様は死んでも生きる神であることを信じました。そして、「私の主。私の神。」と礼拝したのです。

 神の救いを全く必要としない人がイエス様にお会いすることはありません。しかし、イエス様を求めていても信じられずにいる人には必ず信仰の目を開いてくださいます。
 「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」とまで言える信仰の人はなんと幸いでしょうか。



無題 | 09:06:46 | トラックバック(0) | コメント(0)