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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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正しい「謙遜」とは?

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。 (ピリピ書2章3節)

あなたは人に物を差し上げるとき、「つまらないものですが。」という表現を使うことがありますか。最近では、あまり耳にしない表現かもしれません。しかし、本心はともかく、このような言葉遣いは「謙遜の美徳」として、長く日本人の礼法として教えられていたものではないでしょうか。

 実際には、こうした贈り手が、その品を文字どおり「つまらないもの」と思っていることはないでしょう。むしろ、あれやこれやと思案の末に、最善と思う物を選んでいるはずです。では、こうした表現を添えることは、最善と思って選んだ品物にマッチしているでしょうか。謙遜の美徳とは、どのようなものであり、いかように表現されるべきなのでしょうか。

 ある人は、「謙遜とは自らの価値を正しく見積もる能力」と定義しています。持ってもいないものまで、持っているかのように見せようとするのは、見栄っ張りであり、こっけいなことです。しかし、できることまで、「できない。できない。」としり込みすることは、責任を果たそうとしない態度であり、かえって傲慢でさえあります。

 パウロは教会のメンバーたちが身に付けるべき資質として、「謙遜」(humility)を上げています。そして、それが「キリストの謙卑」に由来するものであると説いています。キリストは「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた」(ピリピ2-7)のです。神のひとり子の玉座を棄てて、私たちを救うために、私たちの罪を負って十字架の恥辱をも耐えてくださった、ここに謙遜の最高の表れをみることができます。

 今の時代、多くの人々は競って、自己アッピールをしようとします。でも、どれだけ、自分に天賦された能力が何であるかを知っているでしょうか。私たちは、みことばの光に照らされるとき初めて、自分が何者であるかを、正しくわきまえることができるようになります。そして、神より授かった賜物を用いて、いかに生きるべきかが、わかるようになるのです。

 「世界に一つだけの花」という歌が、こどもから高齢者にいたるまで、励ましを与えたようです。人と張り合うことの愚かさに気づかせてくれたのでしょう。まして、クリスチャンたちには聖霊の賜物が与えられています。ひとりひとりがその賜物を磨き、最大限に用いていくとき、教会を通し、神の栄光は世に向かって、豊かに現されていくのです。



無題 | 16:38:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
「人間性の衣替え」とは?

2003年4月週報より
あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。                  (コロサイ書3章9、10節)

 甘木の冬は底冷えがするので、低血圧の私は着膨れして過ごすことが多いです。はずかしながら、帽子とマフラー、手袋の三点セットとは切っても切れない間柄です。そんな私でも、春一番の吹く頃となれば冬の身支度は脱ぎ捨てて、身軽な装いをします。

 パウロはイエス様を信じた者の生活の変化を、この衣替えに例えています。かつて身に付けていた怒り、憤り、悪意、恥ずべき言葉使い、偽りなどを脱ぎ捨てて、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容などを身に付けるよう勧めています。

 これらの美徳は努力や修業の結果ではなく、イエス様を信じる者に実っていく聖霊の果実です。秋に落ちた種が冬の地中で育まれ、春に大輪の花を咲かせるように、イエス様への小さな信仰の種は、時が来れば豊かなクリスチャンの品性を育て上げていきます。

 では、キリスト者の品性を練り上げる道場はどこでしょうか。それが教会です。キリストのみことばを聞き、覚え、実践していくところです。己の高慢に恥じ入り、砕かれて祈り、キリストの仕える姿に学ばされていきます。
そして、キリストの弟子として訓練された教会は遣わされて行きます。父なる神がひとり子イエス様を世に遣わしてくださったようにです。家庭へ、地域へ、学校へ、職場へとキリストの弟子たちは遣わされて行きます。

 「塩が塩気をなくしたら、何によって塩気を取り戻せましょう。」とイエス様は問われました。私たちがどう生きることを主は喜んでくださるでしょうか。また、忘れてならない私たちの生きる目的はなにでしょうか。
 私たちは神の愛と赦しを宣べ伝えるために召されて教会へ加えられました。礼拝へと集められ、この使命のために整えられ、今週も世へ遣わされるのです。



無題 | 09:49:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
暴力の連鎖を断つものは?

敵意は十字架によって葬り去られました。(エペソ書2章16節)

先日、母の日に計画している集いの案内に回っていたとき、家内が、「ああ、なつかしい!矢車草だわ!」と嬉しそうな声を上げました。花の種類も時代の移り変わりとともに、カタカナ表記の名前が増えていますが、この花の名前の響きは、しばし少年時代にタイムスリップさせてくれました。そんな穏やかな春の風景とは対照的に、銃撃や爆弾テロのニュースが次々に報道されています。

 平和運動の機首の独りであった長崎の伊藤一長市長が、逆恨みをつのらせたと思われる暴力団員の銃弾に倒れました。また、30余名の有望な学生たちが、やはり、深い怨恨に駆られたと思われる男によって、積み上げてきた将来への夢を絶たれました。イラクでは、地獄のような破壊行為がくりかえされています。こうも残酷な出来事の報道が多いと、私たちは、犠牲者当人と、その身近な人たちの痛みに、じっくりと共感している暇がないほどです。

 これほど次々に暴力の報道に曝されて育つ青少年たちは、「またか。」と、何のショックも感ぜずに、凶暴な事件の報道を聞き流すようになるのではとの恐れを持ちます。聖書は、「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。」(創世記1-27)と、人間が神の聖と義をもつ者として創造されたと教えています。いつの時代でもそうであったように、今も、この原点に立ち返るところに、人としての価値を取り戻すカギがあります。

 多くの人たちが、「神のかたち」に創造された人間の真価を知らず、野卑な面ばかりを見させられていることは、まことに残念なことです。神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43-3)と語りかけておられます。では、昨今の事件に見る、凶悪な人間の有様を、どう解釈したらよいのでしょうか。

 それは、人間が神のみことばに耳を閉じ、神に背を向けることによって招いた、悲惨な結果です。パウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7-24)と呻かざるをえませんでした。しかし、キリストの十字架の救いを確信した彼は、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(8-1)と、罪の束縛からの解放を、高らかに宣言することができたのです。

 このキリストの十字架に、憎しみの連鎖を断ち、罪人を神のかたちに再創造してくださる、神の愛が表されています。今の時代が必要としているのはキリストの証人です。ますます励んで、イエス様の救いのすばらしさを証してまいりましょう。



無題 | 15:59:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
想像を絶する事実とは?

2003年4月週報より
もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
(コロサイ書3章1節)
教会にとって、最も喜ばしい日はこのイースターでしょう。イエス様のお墓へ泣きに行ったマグダラ村のマリヤにとって、その朝は驚くべき神のみわざを見る時となりました。
 空っぽの墓は悲しみの女マリヤを更に不安の渦に巻き込みましたが、次の瞬間、彼女は復活されたイエス様の聞き慣れた呼びかけを聞きました。お墓に行って、悲しみを癒そうとしたはずのマリヤは永遠に生きたもう主を拝したのです。

 パウロは、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」と述べています。イエス様が葬られて終わりなら、人の噂も75日、ナザレ村のイエスは早晩忘れ去られていたことでしょう。
 しかし、キリストは罪を滅ぼし、死に打ち勝ってよみがえられたのです。この事実が臆病な弟子たちを勇敢な宣教者に生まれ変わらせました。

 クリスチャンはキリストと共に十字架につけられましたが、そこで終わってしまう者ではありません。キリストと共によみがえり、キリストの永遠のいのちにあずかる者たちです。死者をも生かす神の力をいただくのです。

 復活されたイエス様は、「見ずに信じる者は幸いです。」とトマスに語られました。この2000年間、誰ひとりとしてイエス様を眼で見た人はいません。しかし、数え切れない人たちが信仰の眼をもってキリストを仰ぎ続けてきました。

 イースターの朝、あなたは愛するイエス様にお会いしましたか。イエス様は教会の主として、あなたを祝福せんと今日も待っておられます。



無題 | 10:19:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
クリスチャンに「ふさわしい生き方」とは?

ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
(ピリピ書1章27節)

子どもの頃に、よく「男らしく、しなさい。」とか、「女らしくない。」などという言葉を耳にしたものです。しかし、昨今、こうした表現は特定の型に当てはめるものであり、差別適であるとされて、ほとんど聞かれないような気がします。確かに個々の人となりは、一言で束ねられるほど、単純なものではありません。男性の中にも細やかな気配りのできる人も多くいますし、男性の部下をしっかり管理しておられる、女性の指導者も増えています。

しかし、冒頭のみことばは、クリスチャンはクリスチャンらしく生活すべきであると教えています。キリストを主と仰ぐ者に、似合わない生活は避けるべきだということです。というより、神の国の住民らしく生活するようにと戒めているのでしょう。

それは日本人であることをやめるという意味ではありません。今の世からドロップアウトして、隠とん者のグループに篭ることでもありません。日本人として、地域に根を張って生活しながら、同時に、神の国に属する者としての生活を貫くということでしょう。

日本においては、残念ながら、クリスチャンは少数派に留まっていますから、イエス様の教えに従って生活しようとすると、多くの妨げや、誘惑に出っくわします。そんなとき、心に留めておきたいのが、「キリストの福音にふさわしく」という、冒頭のみことばです。

信仰は目に見えませんが、誰もがクリスチャンの生活を見ることはできます。何事があろうと、日曜の朝に教会に出かけて行くクリスチャンの姿を見続ける人たちは、次第に神の存在が気になり始めるのではないでしょうか。クリスチャンたちが開く黒い表紙の本に、何が書かれているのかに興味をもつようになるかもしれません。「天の父よ。」と心を注ぎ出して祈る信仰者の姿は、確かに応えたもう神がおられることを証しています。

イースターに「音楽の捧げもの」と題する讃美礼拝を開き、新しい方々、久しぶりの方々をお迎えすることができました。「賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」(詩篇33-1)とあるように、神を褒め称える者に、私たちを造り変えてくださったイエス様を、見ていただくことができたのではないでしょうか。
会堂の響きの良さも、私たちの褒め歌を際立ててくれます。七月にも特別な讃美の集いを計画し、新しい方々を教会に、お招きさせていただこうではありませんか。



無題 | 14:39:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
いったい、何が「完了した」のでしょうか?

2003年4月週報より
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。          (ヨハネ伝19章30節)

 教会カレンダーによれば、今日はイエス様が十字架にお架かりくださるためエルサレムへ入場された「棕櫚の日曜日」です。そして、金曜日の午後3時頃、上のみことばの場面が起こったのです。それは2000年前、ゴルゴタと呼ばれる丘の上での出来事でした。

 イエス様の十字架の意義について聖書は、「私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」と説明しています。何か私たちの重大な問題がイエス様の十字架によって解決されたようです。果たして、イエス様は十字架の上で何を完了してくださったのでしょうか。

 イエス様は私たちの数々の悪事の証文を完全に消し去るために十字架に架かってくださいました。苦々しい過去の失敗の記憶は私たちをさいなみ、成長をはばみます。「おまえは○○したではないか!」と私たちを責め立てます。
 しかし、完成されたキリストの救いの御業を仰ぎ見る者は救われます。新しいいのちを授かります。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
 では、イエス様の全き罪の赦しをいただいた私たちはこの週をどう過ごすべきでしょうか。イエス様から溢れ出て来る愛と聖めに浸りましょう。古傷を癒していただき、神の栄光を褒め讃える器としていただきましょう。

 人は作っては壊しをくりかえしています。戦争もその一つです。荒廃の中から何が芽生えて来るのでしょうか。イエス・キリストだけが救いは「完了した!」と宣言できたのです。どんなに時代が暗くあろうとも、キリストの十字架には変わることのない永遠の希望があります。



無題 | 10:45:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
「イースター」って何ですか?

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、(第一コリント15章3; 4節)

 日本のどこにあっても、花見は春の風物詩です。花を口実に、実は飲めや歌えの、ドンちゃん騒ぎが目当てという人も多いのかもしれません。私たち日本のクリスチャンたちにとっては、桜はイースターの花の一つです。そう思うのは、私が育った教会の庭に立派な桜の樹があって、イースターに満開になる年もあったし、花びらが風に舞っている年もあって、イースターというと、その光景を思い出すからでしょうか。

 では、イースターは何を喜ぶ日でしょうか。それは絶望が勝利に変えられた日です。イエス様が十字架に架けられ、葬られるのを見た弟子たちの悲嘆は、いかばかりであったことでしょうか。ところが、彼らは、イエス様が「よみがえられたのです。」(ルカ24-5)という驚くべき知らせを聞いたのです。しかし、どうでしょうか。二千年前なら、このことは信じやすかったのでしょうか。いや、いつの時代でも、死人が生き返るなどということは信じられるはずのないことなのです。

 死は常に過酷であり、愛慕する人たちをさえ、峻烈に引き離していくものです。遺された者たちが呼べど叫べど、二度と返って来ることはないのです。師を奪われた上、今度は自分たちに危害が及ぶことを恐れたイエス様の弟子たちは、戸を閉じて、ひっそりと隠れているしかありませんでした。

 イエス様の宣教活動は力に満ちており、おびただしい群集が、イエス様の後に付き従ったのです。しかし、イエス様の死をもって、すべての活動は費え去ってしまうかのように見えました。そんな彼らの只中に再びイエス様は立たれ、「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20-19)と弟子たちを力づけてくださいました。その後の弟子たちの命がけの宣教の歴史が、主イエス・キリストの復活が事実であったことを証明しています。

 イエス様が葬られていた墓の前で天使が告げた、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」(ルカ24-5)ということばほど、私たちの心眼を開いてくれるものはありません。そうです。私たちはどんな状況の中にあっても、永遠に生きておられる主を、「私の主。私の神。」(ヨハネ20-28)と呼び奉ることができるのです。この復活の主イエス様が、今なお、教会を導き続けていてくださるからこそ、私たちは平安なのです。



無題 | 16:05:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
「からし種ほどの信仰」とは?

2003年3月週報より
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。                      (ガラテヤ書2章20節)

 先日来会された方々から庭のお花を褒めていただきました。お花が取り持って近所の皆さんと楽しい会話がはずむこともあります。教会の庭もコツコツ手入れすればイエス様の伝道に一役かってくれます。
 しかし、荒れほうだいだったらどうでしょうか。そこでどれほど真理が説かれていても、人々はそこへ入って話を聞こうとはしないでしょう。まず、種蒔きの前に雑草を取り除き、花の種を蒔く地を整えるべきでしょう。

 パウロは神に逆らっていたかつての彼は、「キリストとともに十字架につけられました。」と過去との決別を宣言しました。今までの趣味、人付き合い、時間の使い方を保ったままイエス様に従おうとしても無理があります。新しい出発に不用なものは思い切って捨て去りましょう。
 そして、私たちの内にイエス様の聖いご性質が芽生えていく場を供えましょう。聞く耳を持ってイエス様のみことばを聞き、心に蓄えましょう。また、イエス様が教えてくださったように祈りましょう。

 「キリストが私のうちに生きておられる」と言えるような信仰にはほど遠いと思われますか。それは正直な感想にちがいありません。しかし、イエス様が問われるのは「からし種ほどの信仰」があるかどうかです。
 たった一言のイエス様への信仰告白、たどたどしい祈り、音のはずれた讃美、イエス様への信仰の芽生えはこのようなものです。不格好であっても、その人のうちには確かにキリストのいのちが宿っており、やがて神の器として整えていただけるのです。



無題 | 10:53:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
すばらしき仲間たち!(a wonderful fellowship!)

ハレルヤ。主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への賛美を。
(詩篇149篇1節)
春休み恒例のジュニアキャンプが愛知県の旭高原少年自然の家で開催され、L君の希望に応えて、牧師家族が参加させていただきました。名古屋BBCの上田牧師のご配慮により、空港からキャンプ場まで、日本一元気だと言われる名古屋周辺の変貌ぶりに感嘆しつつ、先生がたと語らいつつの、快適なドライブを楽しませていただきました。L君はと言えば、皆さんと合流するやいなや、親元から離れ、220名の参加者たちの間を回遊して、甘木BBCの大使の役を果たしてくれていました。

 多くのなつかしい先生がたのご挨拶をいただきつつ集会場に足を踏み入れてみますと、華やかなオーケストラの奏でる讃美が、各地からの参加者を歓迎してくれました。仁戸名BBCのジュニアバンド「ダビデスピリッツ」を中心としたキャンプオーケストラが終始、豊かな讃美のリード役を果たしてくれていたのですが、そのふくよかな音色は、天国の祝福を感じさせてくれるほど立派なものでした。子どもたちのやる気と能力を引き出して、あのレベルにまで育て上げたK牧師の指導力にも感服する思いでした。

 メッセンジャーはオーストラリアからの宣教師で、北海道の北広島市にある「すずらんBBC」のトニー・エバンズ先生でした。毎年、このキャンプに参加しておられるとのことで、今回も10名近いジュニアたちを伴ってこられ、みことばの取り次ぎの大役を果たしてくださいました。流暢な日本語で子どもたちに、噛んで含めるように、若者が持っている可能性の価値を語り、さまざまな誘惑に囲まれていても、神様に従うことを選び取っていく「祝福の道」を指し示してくださいました。多くのジュニアたちが招きに応え、神様に従う道を決心し、前に進み出て祈っていました。

 二日目の朝は、参加された20余数の工夫を凝らした、個性あふれる教会紹介を楽しませていただきました。L君も甘木BBCを上手に紹介してくれました。家族で歌った手話付き讃美「イエスにある勝利」も皆さんの励ましとなったようで、遠路参加した甲斐がありました。

 閉会前の証し会で聴いた甲府BBCのジュニアたちのゴスペルのメドレーの完成度の高さにもおどろきました。舌のもつれるような英語の歌詞を、巧みに歌いこなすさまは、実に見事なものでした。しばしばコンサートを開くそうですが、確かに人を呼べるレベルに磨き上げられていました。

 私たちのグループで、あのようにすばらしいキャンプがジュニアのため、青年のため、壮年のため、婦人のため、障害者・高齢者のため、頻繁に開かれていることは、何という宝を持っていることでしょうか。BBFに加えられていることの祝福の豊かさを、あらためて感謝するキャンプでした。主催の労を負ってくださった清水BBCに心より感謝いたします!



無題 | 16:45:02 | トラックバック(0) | コメント(0)