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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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キッズ(kids)にハッピータイムを!

子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。
(マタイ伝19章14節)
身に余るような立派な会堂に住まわせていただくようになり、早三ヶ月が過ぎました。当初から、この会堂を、広く主のために用いさせていただきたいと願っていましたが、今回、春分の日を利用して、楽しい「キッズフェローシップ」を催すことができました。北九州、博多南の先生がた、キッズたちを迎え、こども礼拝、ランチ作り、グランドゴルフと、笑顔いっぱいのハッピーデイでした。

 こどもたちが牧師の家庭や、クリスチャンホームで育つことは特権なのですが、日本のような、クリスチャン人口の少ない国においては、時には、いじめや差別のターゲットになることもあります。日曜学校に同世代の子供たちが少ないのも、彼らにとっては、さみしいことにちがいありません。あるとき、牧師のこどもたちが滑り台で遊びながら、ポツリポツリと、いじわるされた経験を話し始めました。私はそれを聞いていて、共感し合える仲間がいるだけで、彼らは元気になれるだろうと思いました。そのとき、もっと彼らが兄弟のように過ごせる機会を提供してあげたいという思いが、私の心に芽生えました。

 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2-13)とありますが、神様は私の小さな願いを、今回第一回キッズフェローシップとして、見事に実現してくださいました。はにかみ屋で、なかなか歌おうとしない子が、大きな声で歌っているのを聞いて、「イエス様のお友達の影響は格別だなあ」と思いました。そんな和やかな雰囲気の中で聴く聖書のみことばは、こどもたちの柔らかな心に、深く沁み込んだことでしょう。

 ランチも、こどもたち自身がパンを取りに行ったり、ゆで卵の皮をむいたり、お皿を並べたりしてくれ、あっという間に、お好みのサンドイッチの出来上がり!お昼からは、待望のグラウンドゴルフ大会、とは言え、ほとんどのキッズにとっては初体験です。快晴の下、1番から8番までホールを置いて回り、旗を立て、ようやく第一ホールのスタート。野球の調子で力いっぱい打って、行ったり来たりしている子、少しづつ進んで、結局早くホールインしてしまう子、だんだん慣れて、しり上がりに調子を出す子、みんな、しっかり楽しんでプレイしていました。

 我先にと走りながら旗を集めて回る、嬉しそうな子らの声を聞きながら、「みんな、励まし合って、イエス様の良い子に育ってね。」と祈る思いでした。「今日は、どうだった?」と尋ねてみると、「楽しかった!」という元気な返事。さっそく、次は、いつできるかな、今度は何をしようかと、考え始めています。教会から、にこにこしながらキッズたちが飛び出してくるのを見た近所の人たちにも、きっと良い証になったにちがいありません。
 一昨日、査察に来られた県庁の方が、「明るくて、開放的な教会ですね。」と言っておられました。そのとおり、この会堂を、多くの人たちが喜び集える、イエス様の教会としてまいりましょう。



無題 | 16:57:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
誰をモデルにしたらよいか?

2003年3月週報より
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
(コロサイ書2章9節)

 どのご両親もわが子が豊かな人格を育んでいくことを願っています。しかし、こどもは両親の生き方をモデルとしてしか自己形成できないものです。こどもが使うきつい言葉にギョッとしても、それはしばしば親の口調そっくりであったりします。

 では、私たちは豊かな人格を養うために、どなたをモデルとしたらよいのでしょうか。聖書は、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と、私たちの最高のモデルはイエス・キリストを外にしてないことを教えています。

 教育基本法を手直しする話も聞こえてきます。審議を任された人たちも何をめざしてこどもたちを教育したらよいか迷っておられるようです。出て来るものと言えば、「郷土を愛し、平和を尊ぶ心を養う」といった抽象的な目標です。

 私たちはイエス様を主と告白し、礼拝をお捧げします。その聖いご性質にあずかりたいと願うからです。イエス様の愛と赦しを受けて、私たちもイエス様に似ることを切望します。
 力による侵攻がリアルタイムで報じられている今日です。では、人の魂を罪の束縛から救いだすのは何でしょうか。心の傷をいやし、確かな希望に生かすのはどなたでしょうか。

 私たちは「この人を見よ!」と指さすことのできる救い主を知っています。どの時代にも、人のモデルとなりうるのはイエス・キリストのみであると信じています。アフガニスタンの、イラクの、日本の、すべての人の心に届けられなければならないのはイエス・キリストによる罪の赦しです。

 神と人との間に、人と人との間に、イエス様の十字架が立つまでは本当の平和は訪れません。教会が捧げる平和の祈りとは、すべての人がイエス・キリストを信じ、神との和解に至ることです。



無題 | 14:02:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
能力を生かすものは何か?

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。               (ピリピ書1章6節)

一時、時代の寵児ともてはやされたH氏に、実刑判決が出たということで、また話題になっています。株価操作と、踊らされて損を被った、別世界に住む人たちの出来事であって、論評するようなことは何もないのですが、同じように被告の立場に置かれた宣教者パウロについて学んでいますので、二人を比較してみることを許していただきましょう。

 二人に共通することと言えば、いずれも、その時代の最高の教育を受けたエリートであるという点です。彼らは共に、人が羨望するような学歴を有する人たちです。しかし、パウロは、「私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」(ピリピ3-7)と述懐し、イエス様を信じることにより、彼の中に価値観の大転換が起こったことを証しています。豪邸も高級車も、キリストを知る祝福の豊かさに比べるならば、陳腐なおもちゃでしかないということでしょう。

 次に、H氏はかつての部下と骨肉の争いを演じているようですが、パウロは自宅軟禁の状態に置かれているにもかかわらず、仲間たちに宛てて、「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか」(1-8)と、深い友情を吐露する手紙を書きました。パウロにとって、教会の仲間たちは、どんな犠牲を払ってでも守らなければならない、宝物だったのです。

 また、パウロは拘束された状態からピリピの教会に手紙を書いたにもかかわらず、短い手紙の中に、「喜び」という言葉を15回も使っています。彼の身体的自由を奪うことはできても、キリストに救われた者の心にあふれ来る喜びを、誰も減じることはできなかったのです。一方、巨額な保釈金を積んで、高級マンションの最上階に帰ったH氏の心には、果たして、どのような思いが去来していることでしょうか。

 H氏はおそらく、誰にも負けないほどの勉強家であり、努力家だったことでしょう。しかし、彼が読みあさった万巻の本の中に聖書はなかったのでしょうか。「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1-7)というみことばに目が留まらなかったのでしょうか。もしも、H氏がパウロのように、イエス様を知るに至るならば、彼の証を通して、どれほどの若者たちが神の祝福を受けることができるでしょうか。

イエス様は、「自分の宝は、天にたくわえなさい。」(マタイ6-20)と語られました。私たちも、つかの間の名声のためでなく、イエス様より、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(25-21)と、お褒めの言葉をかけていただけるよう、信仰者としての歩みを続けようではありませんか。



無題 | 14:27:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
真の和解をもたらすものは?

2003年3月週報より

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。                  (コロサイ書1章19、20節)

 昨朝ラジオにスイッチを入れると、原爆が投下された直後の広島を目撃した人がその悲惨な光景を証言していました。そして、地上に現存する核爆弾が皆炸裂したらまちがいなく地球は滅びると警告していました。
 今にも新たな戦火が上がろうとしています。また壊滅的な被害が人間の手によって加えられようとしています。人の心には「殺してはならない。」という普遍の法が刻まれているはずなのに、どうして争いは止むことがないのでしょうか。

 イエス様は武器を持って敵に向かおうとした弟子に、「剣をさやに収めなさい。」と命じられました。そして、ご自身が十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られたのです。

 和解を成り立たせるものは何でしょうか。聖書はイエス・キリストの」十字架の血」こそがあらゆるいさかいを解くカギであると宣言しています。そして、まず正されなければならないのは神への反逆であると教えています。

 多くの人はこの救いの道を無視して、人間の方法で平和を希求しています。駆け引きと妥協の道を模索し続けます。しかし、今こそすべての人がイエス・キリストの十字架に目を向けるべきです。
 身近な隣人とさえ争いの種を持っているのが罪人の姿です。常に怒りを爆発させる対象を持たずにはいられないのです。そんなけがれた心をイエス様の十字架は一新してくださいます。

 イエス様によって神と和解されるならば、かならず人との和解ももたらされるはずです。ここから始めて、和解と祈りの輪を広げましょう。「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。」



無題 | 10:28:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
権威のある「赦し」とは?

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。       (エペソ書1章7節)

私たちクリスチャンは、「人は生まれながらに罪人である。」と信じてはいますが、まさか公園から子供たちの遊具を盗み去る人たちが出てくるとは想像もしなかったのではないでしょうか。北京オリンピックがらみの建築需要も背景にあるようですが、世界的に金属価格が高騰しているようで、高圧線から車止め、蛇口までが盗まれているとのことです。認知症の高齢者や障害者をターゲットにした詐欺までが横行するに及んでは、「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」(ローマ3-13)といった聖書のきつい描写までが、人間の本質を見抜いた真理であると認めざるを得ません。

このようにモラルの低下した社会では、子供を持つことを躊躇する人たちが増えても、やむをえないでしょう。こどもたちに、「人をみたら、泥棒と思え。」と教えなければならないような世界には、誰もが大切な子孫を残したいと思いません。そのような時代ではあるのですが、まだ世には希望があります。イエス様の、「わたしは、世の光です。」(ヨハネ8-12)という宣言を聞くことができるからです。

 私たち自身も、人を裁く資格のない罪人であり、恥ずかしいような者です。しかし、イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。」(ヨハネ8-11)と、赦しを宣言していてくださるのです。これは、過ちの多い人間の立てた法に基づくものではなく、神の権威に基づく赦しです。私たちは、このみことばによる罪の赦しを、イエス様への信仰の故に受けることができるのです。

 朝倉市も合併して広くなりましたが、東に西に、南に北に行って、教会案内「いのちを見出す場所」を配布しています。神様の救いを求めている人が、必ずいるからです。イエス様は今もなお、教会の頭として、教会を指揮し、失われた魂を捜し続けておられます。
 私たちも、この尊い救いの働きに用いていただけるとは、なんという幸いでしょうか。喜びのイースターも近づいています。お預かりした賜物を大いに活用し、イエス様の救いを宣べ伝えてまいりましょう。



無題 | 19:56:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
どなたかに、「ありがとうございます!」を忘れていませんか?

2003年3月週報より
彼らは行く途中でいやされた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。                  (ルカ伝17章14~16節)
 私は昨朝の家庭礼拝でこのみことばを説きながら、礼拝というものの原点を見たような気がしました。いずれも病に苦しみ続けていた10人が声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と叫んだというのです。必死に助けを求める彼らをあわれまれたイエス様は、彼らを病の苦悩から解放してくださいました。

 では、何人がイエス様にお礼を言いに帰って来たでしょうか。たった一人だけです。しかもその人は外国人でした。他の9人も病がいやされたことを喜んだにちがいありません。しかし、何はさて置いても、「イエス様にお礼を」とは思わなかったのでしょう。
 イエス様によって救われたことを深く自覚している人は、必ずイエス様のもとへ帰って来ます。イエス様を褒め讃え、「ありがとうございます!」を申し上げるためです。これが礼拝の原点です。

 他の9人に感謝の思いが乏しかったとは思いません。ただ長い間病気だったので、やりたいことがあれもこれもたまっていて、ついついイエス様へのお礼が後回しになってしまったのでしょう。
 この様子をご覧になったイエス様は、「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。」とお尋ねになりました。「今日、○○さんはどこにいるのか。あの人も恵みにあずかったのではなかったか。」とお尋ねになるイエス様の御声が聞こえてきそうです。
 救いにあずかった者たちが全員集まって感謝を捧げる礼拝であるなら、イエス様はどんなにお喜びになることでしょう。



無題 | 09:33:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
「気象危機」を引き起こす真の原因とは?

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。
(ルカ伝19章10節)

アメリカ大統領選でブッシュ氏に敗れたアル・ゴア氏が製作した「不都合な真実」というドキュメンタリー映画が話題になっています。彼は、今進行している現象は「地球温暖化」などという穏やかな表現で済まされるものではなく、「気象危機」と呼ぶべき脅威であると警鐘を鳴らしています。身近なところでも、二月のうちから桜がほころんだり、薄着でも平気だったりする現象が起こっていますので、いったい、この夏はどんなに暑いのかと恐れを感じてしまいます。

 ゴア氏はすべての人が、この危機に直面して、地球を救うために、できることがあると訴えています。そして、彼のアッピールが、多くの人々に深刻な気づきを与え、真剣な対策が実行されていかなければならないでしょう。しかし、人が聴くべき、もう一つの大切な警告があります。それは、聖書に明記されている神様の警告です。

 神様がノアに告げられた、「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。」、「今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」(創世記6-13)といった警告を、今日、私たちは、どう聴くべきでしょうか。イエス様ご自身も、「終わりの日が来ます。」(マタイ24-14)と語っておられます。ゴア氏に聴くまでもなく、私たちは聖書を謙遜に紐解き、神に対する人間のおごりを悔い改めるべきではないでしょうか。

 ノアの時代の人々は彼の警告をあざ笑い、滅びを選んでしまいました。イエス様の時代の人々も、イエス様を逆恨みし、十字架に架けてしまったのです。それでもなお、神様は、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6-2)と、滅びの中でもがく人類に救いの御手を差し伸べておられます。

 「救われるためには、何をしなければなりませんか。」(使徒16-30)と問うた看守に向かって、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(16-31)とパウロは、救いの道を説き聞かせました。気象危機に恐れを感じる人たちが発する同じ問いに対する答えも、やはり、「主イエスを信じなさい。」です。なぜなら、イエス様こそ「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1-29)だからです。
 私たちも世の人々と変わるところのない罪ある者です。しかし、イエス様を主と告白することにより、聖徒と呼ばれています。これは、神様の特別な民ということです。混迷するこの時代にあって、救い主を指し示す教会であり続けましょう。



無題 | 16:28:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
新しい生き方の第一歩は?

2003年3月週報より
そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。                  (使徒2章41節)

 教会の第一の使命はイエス・キリストによる救いを伝えていくことです。この尊い責任を負っている教会は当然キリストのいのちに生きていなければなりません。そして、伝える福音の真理に全幅の信頼を置きます。
 「私を闇から光へ移してくださったイエス様は、うめいているこの方の魂をも解放してくださる。」という信仰に立つ語りかけこそが閉ざされた心の壁を砕くのです。これは人の雄弁によるものではありません。聖霊だけが為し得るみわざなのです。

 最近、数名の方々がイエス様を救い主として信じ、魂の救いをいただきました。天に大きな喜びが起こったと共に、教会も神のあわれみを感謝せずにはおれません。しかし、これで責任を果たしたと安心してはなりません。キリストのいのちに移された人たちにバプテスマを施すことが次の使命です。これはイエス様が教会に与えられた命令です。
 バプテスマは魂の救いという恵みをいただいた者が、イエス様を主として従う生活の第一歩です。クリスチャンとして踏み出す最初のステップはバプテスマを受けて、教会へ加えられることです。

 みことばに基づかない歩み方はイエス様のみこころではありません。「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と語られ、ヨハネからバプテスマをお受けになったイエス様の足跡に従わせていただきましょう。
 私たちの教会名には「バプテスト」という文字が付いています。これはバプテスマを聖書が求めるとおりに施行しようと闘った先人に与えられた、栄えあるニックネームなのです。



無題 | 13:59:29 | トラックバック(0) | コメント(0)