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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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温暖化、終わりの日に、どう備えるか?

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
(ローマ書10章13節)

先日、札幌にお住まいの姉妹が教会に立ち寄ってくださいました。福岡に降り立って、どこにも雪がないのに驚いたと話しておられました。甘木は例年であるならば底冷えもするし、雪が積もることもあるのですが、今年は手袋もマフラーも、出さないまま、春になってしまいそうです。

 雪国に暮らしたことのない私たちには、何ヶ月も雪に埋もれた生活は、さぞかし辛かろうと思えます。しかし、春になって、雪が溶け、黒い土が顔を出したときの感動を聞くにつけ、暖かい地で過ごすことの申し訳なさから解放されたように感じたものです。ところが、この暖冬を経験し、肌を刺すような寒風に当たることもなく、春になってしまうことに、風情のなさを通り越して、不安をすら感じてしまいます。あらためて、冬の厳しさが、どれほど生きることに深みを与えているのかに気づかされました。

 私たちのライフサイクルも、よく四季にたとえられます。ポカポカした穏やかな春もあるでしょうが、病気をしたり、愛する人を亡くしたりする冬もあるのです。この人生の冬は、できれば避けたいものです。むしろ、ずっと冬は来なければよいとさえ願います。しかし、確実に冬は来るのです。

 聖書は私たちに、「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4-12)と告げています。また、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9-27)とも明言しています。ぬくぬくとした春がずっと続くのではなく、厳しい冬が来るのですから、冬支度をするように勧められているのです。

 では、すべての人がすべき冬支度とは、どのようなものでしょうか。それは、神様のもとに立ち返り、主イエス様の十字架の愛を仰ぎ見て、罪の赦しをいただくことです。私たちの神への忘恩のために、神の御子が十字架の罰を身代わりに受けてくださったことを知り、信仰をもって仰ぐ者だけが、神の御怒りから救われるのです。

 一方、たとえ病や災いを経験したとしても、イエス様を信じる者には永遠のいのちがあるのです。聖書は、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5-17)と、滅びが過ぎ去って、いのちに移ったことを保証しています。
あなたは、「神に会う備え」ができていますか?昨今の不気味な温暖現象の中で、神を恐れることに気づき、救い主イエス・キリストを礼拝する者こそ幸いです。



無題 | 17:43:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
人が充実して生きるためには?

2003年2月週報より
万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
(コロサイ書1章16節)

 人は時折、「自分はどうしてここにいるんだろう」とか、「私は何のために生きるんだろう」と真剣に考えることがあるものです。そして、この問いかけにどれだけの人が正しい答を得ているでしょうか。
 聖書はズバリ、この疑問に答えています。この世界に存在するありとあらゆるものはイエス・キリストのためであると宣言しています。これを聞いて、おそらく多くの人たちは唐突に感じるのではないでしょうか。

 クリスチャンや教会がイエス様にお仕えするものであることは納得できても、「万物が」と言われると言い過ぎているように感じるのも無理からぬことでしょう。
 でも、「聖書は神のみことばである。」と信じるなら、人間の浅はかな先入観を捨てて、健康も、仕事も、家庭も、趣味も、持ち物も、すべてイエス・キリストのためであると受け止めてみてはいかがでしょうか。生きることへの迷いが消えて、不思議な力が満ちて来るのを感じます。

 一方、経済的になんの不足もなく、好きな趣味をおもいっきり楽しんでいても、理由のわからない空しさを引きずっている多くの人たちがいます。その不満はどこに原因があるでしょうか。
 それは目的を見失って生きているからです。イエス・キリストの片鱗も脳裏にないからです。このような人は一日の始めに、「イエス様、今日一日、あなたのために生きます!」と祈ってみましょう。これを続けてみましょう。
 大きなことをしようなどと思わずに、小さなことでもイエス様のためにすることが祝福のカギです。



無題 | 15:55:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
虚しさから人を救うものは?

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。
(伝道者の書12章1節)
昨年の後半は会堂建築のため、教会案内の配布に出かけることが、ほとんどできませんでした。感謝なことに、会堂も立派に完成し、新しい方々をお迎えする体制も整いましたので、トラクトの配布を再開しました。いじめ事件で傷ついた、お隣の筑前町の一軒一軒に、「いのちを見出す場所」の冊子を入れさせていただきました。これはまさに、「パンを水の上に投げ」(箴言11-1)るような働きです。しかし、神様は、「ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」と、収穫の日が来ることを約束しておられます。

 また、「主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(使徒2-47)とあるように、教会を成長させてくださるのは、主イエス様ご自身です。教会はイエス様の手足としての、ご奉仕を忠実にさせていただくだけです。そこに集うクリスチャンたちが、「心を一つにし」(2-46)、「喜びと真心をもって」仕え合っていてこそ、世の人々は、教会において、神の愛が実践されているのを見るのではないでしょうか。

 ダビデは、「一つのことを主に願った。」(詩篇27-4)と言いましたが、果たして、それは、どれほどの富だったのでしょうか。実は、財でもなく、権力でもありませんでした。ただ、「いのちの日の限り、主の家に住むこと」でした。彼にとって、真の神を拝するに優る喜びは、なかったのです。
 この時代の人々は、ダビデの頃に比べ、比較にならないほど、多くの楽しみをもっています。それらに興じることによって、人々は果たして幸せを得ているのでしょうか。「空の空。すべては空。」(伝道1-2)とあるような、虚無感にさいなまれている若者たちが、ますます増えているのが現実ではないでしょうか。

 その虚しさに耐え切れず、自暴自棄になったり、他者をいじめる方向に、はけ口を求めたりしてしまうのでしょう。このような状態は、神を見失った人々が迷い込む末路です。イエス様は、そのような人たちに向かって、「わたしのところに来なさい。」(マタイ11-28)と招きの声をかけ続けておられます。そして、「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、たましいの安らぎを約束しておられるのです。
 今もなお、イエス様は教会の主です。その真ん中に立って、主は両手を大きく広げ、弱った魂、道を求める人たちが訪ねて来るのを、今か今かと待っておられるのです。



無題 | 19:08:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
豊かなシニアライフに、なくてならないものは?

2003年2月週報より
あなたはあなたの神に会う備えをせよ。        (アモス書4章12節)

 教会が祈りつつ準備してきました美奈宜の杜での第一回「バイブルの集い」は豊かな祝福の時となりました。お仕事の第一線から退かれた方々のシニアライフのために開発されたコミュニティが美奈宜の杜です。
 よく管理された静かな環境の中で、住民の皆様は多彩な趣味を楽しみながら生活しておられます。昨年には温泉も開業し、端から見ると悠々自適なリッチな熟年生活のように見受けます。

 しかし、どんなに楽園のような施設であっても、神のみことばを聞くことができなければ、やがて退屈な生活となっていきます。そこで、イエス様はT姉妹(美奈宜の杜在住)の心に働いて、讃美歌を歌い、バイブルのみことばを味わう集いを願うようにされました。そして、今回それを実現してくださったのです。

 聖歌の一曲一曲には信仰の喜びが溢れています。人生の荒波を経験した人たちが、イエス様に出会っていただいた恵みの数々が証されています。出席者の幾人かは聖歌の歌詞がご自身の歩みとダブって、感慨ひとしおだったようです。
 教会はこの地域に立てられた「イエス様のからだ」として、しなければならない当然のことをさせていただきました。また、これからもますますさせていただかねばなりません。

 人はおもしろおかしくその日を過ごせればよいのでなく、いつ神にお会いしてもよいように備えしなければならない者です。この世の営みから解放された熟年者たちは福音を聞く時間を持っています。中にはきっと聞く耳を持っている方もおられるはずです。
 イエス様は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こる」と語られました。魂の救いは神に属するみわざです。そして、愛なる神は私たちを用いてこの奇跡を今なお起こしてくださると信じましょう。



無題 | 10:10:51 | トラックバック(0) | コメント(0)
不幸の連鎖を止める「全き赦し」(The Perfect Forgiveness)とは?

キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。
(第一テモテ1章15節)
ある中学生が、いじめのグループに加わってしまい、友達にけがを負わせたことを後悔して、投身自殺したという報道がありました。事の重大さに気づいた少年は、自らの命をもって、詫びる以外ないと決め込んでしまったのでしょう。ちょっとした差別やからかいから始まったことでしょうが、玉突き事故のように、一人の将来ある命を犠牲にする結果にまで膨れ上がってしまったのです。まことに厳粛であり、痛ましいことです。

 更に凄惨なことは、この出来事の当事者として、暗中模索を続けなければならない、深い傷を負った多くの人たちが遺されていることです。その人たちは悔やんだり、憎んだり、関係がズタズタに裂かれたりしながら、耐えがたきを耐えて生き続けていかなければならないのです。どうしたら、この不幸の連鎖を止めることができるのでしょうか。

 私はそのような立場に置かれた人たちに、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」Ⅰヨハネ1-9)という神の赦しのみことばを、お伝えしたいです。罪や過ちは誰もがしてしまうものであり、幾度も失敗をくりかえしてしまうのが、人間の悲しい本性です。そんなとき、深い悔恨から、自らを危めて詫びるというのは、何の解決にもならない選択です。

 私たちは自らを見つめ、反省することも必要でしょう。しかし、その反省はキリストの十字架を仰いで、してほしいのです。そこには神の赦しが湧き出ているからです。イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8-11)と語りかけてくださいます。神の権威に基づいた、このみことばによって、人はあらゆる罪から救われるのです。
 残念ながら、あの少年は、この赦しのことばを聞くことができなかったのでしょう。これは、教会の責任です。こうした悲しいニュースを聞くたびに、申し訳なく思います。聖書は、「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」(ローマ10-14)と、福音を宣べ伝えることの緊急性を説いています。

 いじめの原因を家庭に帰したり、解決法を学校に期待したりしても、どうどう巡りにならざるを得ないでしょう。神の光に照らされないかぎり、罪の問題に対する根本的な解決はないからです。しかし、聖書は、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8-1)と、罪の解決を明らかにしています。このことをお伝えするためにこそ、教会は世に置かれているのです。



無題 | 16:59:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
朝の10分が、あなたを変える!

2003年2月週報より
主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。                          (詩篇5篇12節)

 聖書には、「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」とあります。また、ダビデも「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。」と祈りました。
 朝目覚める時、それは感謝の時です。復活の朝のようです。安らかな眠りをいただけた人にも、悶々と夜を過ごした人にも、まっさらな一日が始まるのです。祝福の朝明け、私たちも神の御前に出させていただき、静思の時をもたせていただきましょう。

 エレミヤは、「主のあわれみは朝ごとに新しい。」と表現しています。私たちも夜明けと友に主の恵みを拾い集めましょう。リフレッシュされた脳裏にみことばがしみ入り、一日の活力となります。
 心惑わされることの多い時代です。先手必勝、朝のみことばと祈りで誘惑の道を封じましょう。今日なすべきことに優先順位を付けましょう。迷っていると何もしないうちに日が暮れてしまいます。朝のデヴォーション(静思の時)は一日の道筋をまっすぐにしてくれます。

 年と共に一週間が飛び去って行く早さに驚かされます。だからこそ、貴重な時を無駄にせぬよう、朝ごとに聖霊による整えをいただく必要があります。効果的なデヴォーションの方法については牧師に相談することもできます。
 朝のデヴォーションでいただいた恵みを分かち合うことなどは、クリスチャンならではの兄弟愛の実践ではないでしょうか。そして、皆で神の祝福を感謝し、ますますイエス様を褒め讃えましょう。きっと朝の10分はあなたの一日を変え、家族を祝し、教会の徳を高めることでしょう。



無題 | 12:12:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
心の底から人を赦せるためには?

「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
(マタイ伝18章21、22節)

今、政治の世界では、女性に対して大変失礼な発言をした大臣の罷免、または辞任を求める声が高まっています。社会的に影響力の大きい立場の方の不適切な表現ですから、厳しく糾弾されるのもやむをえないでしょう。しかし、聖書はすべての人間の姿を、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3-10)と表現し、誰ひとり、神の御前に、完璧でなどありえないことを説いています。

 更に、イエス様は、罪の現場で女性を捕らえ、さらし者にしようとする卑怯な男たちに向かって、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8-7)と語られました。この言葉に、おそらく、しばしの沈思黙考の末、一人、また一人と、その場を立ち去ったというのです。自らのあり様を省みるとき、徹底的に他者を批難できる人はいないはずです。厳格な規律の粛清と共に、せめて、教会だけでも、人を赦すことの美しさを説き、実践していきたいと思わされます。

 しかし、どんなに赦しの大事さを自戒しても、赦しを実践することは、実に血を吐くような訓練を要することです。ただ、罪のない神のひとり子イエス様が十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23-34)と祈られ、「私のような罪人を赦してくださった。」と痛感する者だけが、他者を心から赦すことができるのです。

 安部首相の掲げるスローガンの中に、「やり直しのきく社会の実現」というような表現があったような気がします。挫折した者にも、次のチャンスが与えられる社会ということでしょう。そこに必要なのが失敗を帳消しにしてくれる「赦し」です。

 受けて最も嬉しいのは「赦し」ではないでしょうか。また、与えて最も価値あるものも「赦し」にちがいありません。神様はその最も尊い「罪の許し」というプレゼントを、イエス様を信じるすべての人にくださるのです。



無題 | 19:15:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
ピンチの中でも、ゆとりある判断をするためには?

2003年週報より
平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。             (詩篇4篇8節)

 心を病む人たちの多くが訴えるのが不眠です。実際に眠れていない場合もあるでしょうし、眠ったような気がしないという場合もあるでしょう。いずれにせよ、何か心に刺さっていることがあって、神経が休まらないのでしょう。
 それに引き替え、横になったとたんに寝息が聞こえてくるような人はなんと幸いでしょう。イエス様を信じて罪の赦しをいただいたクリスチャンたちにもこの恵みが約束されています。神との正しい関係が回復される中で、私たちの心はやすらぎ、深い魂の休息をいただけます。

 また、苦しみの時に、ゆとりをいただけるとも約束されています。経済的にはどのくらいの保障があったら、人はゆとりを感じるのでしょうか。ピンチのさなかでさえ堂々とゆとりをもって的確な判断ができるとすれば見上げたものです。そのようなゆとりをキリスト信仰はくださるのです。

 更に、イエス様に救われた者には特別な種類の喜びが約束されています。それは「穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさる」喜びだと表現されています。神を褒め歌わずにはいられないいのちの躍動が起こるからでしょう。

 これらの祝福は神の御教えに根を下ろして生活する者に伴ってきます。ある期間、光の見えないトンネルの中を進むようなことがあったとしても、必ず明るい展望が開けます。イエス様が、「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」と約束しておられるからです。

 みことばは、「恐れおののけ。そして罪を犯すな。」と警告しています。祝福の道を明らかにすると同時に、聖書は神の祝福を失う愚かな生き方についてもくぎを刺しています。迷うことなく、イエス様に拠り頼む信仰者の歩みを続けようではありませんか。



無題 | 10:26:27 | トラックバック(0) | コメント(0)