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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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納豆騒動から「信じる」ことについて

ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。     (使徒16章14節)
しばらく前、買い物から帰ってきた家内が、「お店に納豆が品切れなのよ。」と言いました。我が家では朝食に納豆を常食していましたから、どうしたことかと不思議に思っていました。すると翌日、それがある人気テレビ番組の影響であるとわかりました。「まあ、テレビの影響はすごいものだ!」と思っていると、数日後、その番組の納豆ダイエットの効果のデータが捏造されていたということで、今度は店頭に納豆が大量に売れ残っているという現象に早変わりしたとのことです。

 視聴率を上げることが目的になると、番組制作も、そこまでやらざるを得ないのかと、気の毒に思えてきました。イエス様が語られた、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」というみことばが心に浮かんできます。果たして、この真理のみことばに、どれだけの人が即座に反応するでしょうか。あのテレビ番組には踊らされても、神のみことばは耳に入らない人たちが多いのです。

 まあ、物が健康食である納豆ですから、多少の食べ過ぎがあっても、心配するようなこともなかったろうと想像します。結果的には、テレビ会社は信用を失墜し、人気番組も制作中止になったようです。人の人気取りを追い求めると、とかく陥りやすい落とし穴ではないでしょうか。

 教会も会堂も新しくなり、これまで以上に世に向かって福音を発信していこうとしています。そこで、気をつけなければならないことは、「100%の真理」を伝えるということです。そして、伝えるのは、イエス様の「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)です。つかの間のいのちの人気取りとは無縁な領域です。
 私たちがイエス様の福音を紹介しようとしている人たちは神の救いにはあずかっていませんが、多くの人たちが尊敬すべき社会人です。立派に家庭を成し、社会に貢献しておられます。それでも、神の目には失われた罪人です。なぜなら、彼らは人が救われるための方法を知らないからです。

 聖書だけがその方法を、「この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使途4-12)と、イエス・キリストへの信仰による救いを明らかにしてくれています。関心がない人たちに、どのようにして、この重大な真理に気づいていただくことができるでしょうか。一つには、その人の心が福音に開かれるまで、祈って待つことです。これは、何もしないことではありません。花のつぼみが開くだけの温度になるのを待つようなものです。

 イエス様を伝えるにも、功をあせっては危険です。確かに時は迫っているのですが、誰も人の心をこじ開けることはできないし、それができるのは聖霊だけだからです。人ができるのは、聖霊の働く環境を整えさせていただくだけです。
 聖書は、「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」(Ⅰペテロ3-15)と促しています。必ずや、イエス様の救いの希望について話す機会が、この年も多く与えられると信じます。



無題 | 18:37:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
あなたが「宝物」である訳は?

2003年1月週報より

あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
(申命記7章6節)

 もし親から「○○ちゃんはお父さん(お母さん)の宝だよ!」といつも言われて育ったら、どんな難局にも立ち向かう勇気を持てることでしょう。また、夫から「あなたは僕の宝だよ!」といつも言われる奥さんがおられたら、その人はさぞかし落ち着いた輝きを放っていくことでしょう。
 しかし、現実には気恥ずかしさもあって、こうした表現はめったに口にできませんし、耳にするのもまれではないでしょうか。しかし、この天地の創造者であられる偉大な天の父が、私たちを「宝の民」と呼んでいてくださるとは驚くべきことです。

 イエス・キリストを信じる者たちこそ、神の目に高価で尊い「宝の民」です。イエス様は私たちを地上のすべての民のうちから特別に選び分けてくださったというのです。このあわれみに満ちた事実に目を開かれるなら、私たちは力を受けるはずです。

 「私はイエス様の宝なんだ!」といつも自覚しましょう。そして、教会の兄弟姉妹たちもまたイエス様が尊いご自身の血をもって買い取られた聖徒たちであることを認めましょう。この愛に気づかされる時、「あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶ!」と身に余る神のご恩寵を感謝せずにはおれません。

 私たちが一つとなるようにイエス様は熱心に祈ってくださいました。二人が一つとなることでさえむずかしいことです。まして、教会が一つとなれるとしたら、それは神のみわざ以外にありません。そして、教会にこの一致が見られる時だけ、キリストの救いは暗い世に向かって永遠の光を放てるのでしょう。



無題 | 10:34:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
心で聴くとは?

そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。(ルカ伝5章31、32節)

新会堂に移り、少しは人通りがあるので、讃美のCDやテープを鳴らしてみています。聖書に、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10-17)とありますので、通りがかりの人たちに、ハッとする機会を与えたいと思ったからです。ひょっとすると「うるさい!」と言われかねないのですが、適度な音量で、心に訴えかけるような音楽を選んでいます。何か良い反応が起こることを期待しましょう。

 音楽は教会で生まれ、高められていったものであり、今なお、教会から「いのちの調べ」が流れ出ていてほしいものです。キリストの救いをいただいた者だけが歌い、奏でることのできる「新しい歌」があります。その輝きと力強さは、聞く人に何かの気づきを与えることでしょう。そして、足を止め、教会に入る人が現れる日を待ちましょう。

 先日、入院中のYさんを訪ねてみますと、マタイ伝のテープを聴いておられました。クリスマスに来会された折に、お貸ししたものです。「どこかで聞いたような言葉だなあ」と思ったり、こんな奇跡が僕にも起こってほしいなあ」と思ったりしながら、繰り返し聴いておられるそうです。持ち帰りはしたものの、そのままになっていはしないかと心配していたのですが、Yさんの真剣な求道心を見たようで、嬉しくなりました。

 「潤いのない地は水のわく所となり、」(イザヤ35-7)とあるように、聖書のみことばは、聴く人の心に永遠のいのちの泉を湧き出させる力を持っています。病状からも、とかく気持ちが暗くなりがちであると言っていたYさんですが、イエス様への信仰をいただいて、どのように様変わりしていかれるか楽しみです。イエス様は、「失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19-10)と語られましたが、滅びのふちに座していたYさんをも、見出してくださったのです。

 「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」(イザヤ53-6)という表現は、今日の人の姿を言い表しています。それぞれに何かを熱心に追い求めてはいるのですが、神様のもとへは立ち返ろうとしません。しかし、そんな時代だからこそ、灯台としての教会が必要なのです。「背信の子らよ。帰れ。」(エレミヤ3-14)と呼びかけつつ、今もなお、イエス様は失われた人々を捜し続けておられるのです。



無題 | 16:58:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
2007年を祝福の年にするカギは?

2002年1月週報より
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル書4章16節)

 2007年初の礼拝の朝、主イエス様より祝福が、皆様の上に豊かに降り注がれますようお祈り申し上げます。神様はまた、私たちの前に真新しい一年を備えてくださいました。365ページに何が記されていくことでしょうか。
 52回づつある礼拝と祈祷会に、どれだけ神の御前に立つことができるでしょうか。今年の目標の一つに暗唱聖句がありますが、いくつのみことばを記憶に刻むことができるでしょうか。イエス様の御名により、どれだけ具体的なとりなしの祈りをお捧げできるでしょうか。

 「こりゃあ、新年早々きつい問いかけだ!」という声が聞こえそうですね。しかし、聖書は礼拝、みことば暗唱、祈りなどは「恵みの御座」に近づくことであり、神の祝福をいただくことだと告げています。あわれみ、恵み、おりにかなった助けなどは誰もが願っているものです。それらはこの御座から止めどなく流れ出ています。
 そこに近づこうとする者は、「大胆に」と促されています。あなたが必要なのは神の知恵ですか。それをイエス様からしっかり受け取ってください。強く生き抜く力ですか。それは復活されたイエスさまにあります。信仰の管を全開にすれば、あなたの中に注がれる恵みです。

 特に、イエス様から「あわれみ」を受けるというのは慰めです。そこには「ゆるし」があるのです。ゆるしは期待につながり、ほほえんで希望をもつことができるようになります。イエス様のあわれみは、どんな挫折からでも再スタートを可能にします。
 そして、教会は地上に開かれたイエス様の「恵みの御座」です。



無題 | 11:01:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
原点に返ってって、再スタート!

この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」       (マタイ伝4章17節)

ここ数日、ある有名菓子メーカーが消費期限を1日過ぎた業乳を使って製造したシュークリームを販売していたということがトップニュースになっていました。食品の安全は極めて大切ですが、人の心を蝕むような悪質な情報が横行している現実と比較して、何かアンバランスを感じざるを得ません。世界の食料事情と比較して、問題を起こしたメーカーのいっさいのケーキが廃棄されるということに、なんとなく違和感を感じてしまうのも私だけでしょうか。

 イエス様が語られた、「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」(マタイ15-11)というみことばが心に浮かんできました。更にイエス様は、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(6-31)とまで言っておられます。これらの発言は危険なものでしょうか。

 イエス様は、これらのみことばにおいて、食物の衛生に無頓着であっていいと勧めているわけではありません。そうではなく、世のことで心がいっぱいで、大切なことが見えていないことを憂えておられるのです。そして、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(6-33)と、私たちの優先順位を正しておられるのです。

 安部内閣は教育基本法を改正し、郷土を愛し、国を愛する心を強調しましたが、果たして、いじめや学力低下といった問題は解決されるのでしょうか。教育評論家は、「効果なし」と言い切っています。一方、聖書は、「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1-7)と説いています。神様の目を恐れる思いがあるならば、いじめは確実に少なくなるはずです。

 地球の温暖化を防ぐために、各国が具体的な目標数値を決めて、二酸化炭素の排出量を規制しようとしていますが、事はそううまく運びません。どうしたら、よいでしょうか。やはり、この世界の主である神様を恐れるところへ立ち返らなければならないでしょう。人類は地球の管理者として、責任を神から委ねられていることに気づかねばなりません。

 すべての人はイエス様の十字架のもとに来て、神様に「ごめんなさい!」を言うところから始めましょう。そこが人間の正しい出発点です。そこから再スタートする者をこそ、神は豊かに祝福してくださるのです。



無題 | 14:58:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
「いのちの泉から水を汲む」とは?

2001年1月週報より
あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。
(イザヤ書2章3節)
 21世紀に皆さんと共に踏み入ったことに感慨を禁じ得ません。未知の世界、宇宙へ飛び出したような興奮を感じるのは私だけでしょうか。イエス様に導かれて入ってきたこの新世紀に、私たちは何を見、何をすることができるのでしょうか。

 第一に私たちは「水を汲む」のです。自分のいのちを養い、乾きをいやす水を人任せにせず、自分で汲み出すのです。あなたを援助する人はいます。しかし、あなた自身が意欲をもって汲もうとしなければ、その水は活力とはなりません。

 第二に、水はどこから汲むのでしょうか。「救いの泉」とは何を指すのでしょうか。それはイエス・キリストです。この方こそこんこんとわき出している「いのちの井戸」なのです。そして、このお方のみことばから、十字架の死と復活の福音から、私たちは神の恵みを汲み出すのです。

 第三に、この作業を「喜んで」するのです。水汲みの仕事とは礼拝を捧げることであり、みことばを学ぶことであり、祈ることでしょう。また、主にある兄弟姉妹との聖い交わりを築き上げていくことでもあるでしょう。これらを義務としていやいやするのでなく、進んでするのです。皆が教会を豊かな救いの泉とするために、喜んで奉仕しましょう。

 人類の浪費による資源の枯渇が叫ばれています。人間関係もギスギスしてきていると言われます。しかし、ここに汲めども尽きせぬ「いのちの泉」があることを知らせましょう。イエス様は、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と語られました。
 甘木教会が多くの人たちの魂の乾きをいやすオアシスとなるように、共に力いっぱい水を汲み続けましょう。



無題 | 18:22:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
今年のレースに「準備はOK」ですか?

神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ書3章14節)

今年も箱根路を力走する駅伝の選手たちの姿に感動を禁じえませんでした。勝ち負けに興味はないのですが、ひとりひとりのランナーたちが、どれほど厳しいトレーニングに耐えてきたかが思われ、彼らの影のドラマに共感します。特に、私が励まされるのは、思うような結果が残せず、悔し涙を流している選手たちにです。彼ら敗者たちの中にこそ勝利の余韻すら感じてしまう私は、へそまがりなのでしょうか。

 私たちの2007年のレースも始まりました。聖書は、「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12-1)と促しています。事実、私たちの信仰の走路には、私たちの足をすくおうとする妨害が多くあります。神のみことばを尊び、それに従って生きようとすることは明らかに正しいことですが、この罪の世では、顔を背けられたり、鼻であしらわれたりすることも珍しくありません。

 しかし、どんなに他人が揶揄しようとも、私たちが参加しているレースには、そのレースのルールがあります。私たちはクリスチャンですから、そのルールブックである聖書の、みことばに従って生きるだけです。それはまた、神が本来、すべての人に求めておられるルールなのです。そして、イエス様の復活の証人となっていった使徒たちがきっぱりと言ってのけたように、私たちもまた、「人に従うより、神に従うべきです。」(使途5-29)と宣言しましょう。

 年頭の番組で、地球をとりまく深刻な環境汚染に警告を鳴らす人たちの声を聞きました。漫画家手塚おさむが「ガラスの地球を救え」という本を書いたそうですが、一番の問題は地球の支配者である人間の心の汚染であるにちがいありません。
 私たちだけが、この罪の問題の解決者を知っています。そして、この救い主を宣べ伝える務めが、私たち教会に委ねられています。皆が祈りと力を合わせて、この氏名を担い、年末まで走り続けましょう。その結果として、私たちは今年も主の「奇しいわざ」を見させていただくことができると信じます。



無題 | 20:54:02 | トラックバック(0) | コメント(0)
本当の「勝ち組」とは?

わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ伝6章37節)

 私たちは今日、二重の喜びをもって、神に感謝を捧げるために集まりました。一つはクリスマスの恵みを感謝するためであり、もう一つは待望久しかった新会堂の完成を祝うためです。「今年こそ、クリスマスは新会堂で」との掛け声にもかかわらず、来る年に期待することのくりかえしでしたが、とうとう実現を見ることができました。祈りつつ、待ち望む時が長かったからこそ、新会堂に立つ私たちの喜びは大きいのです。

 救い主イエス・キリストの誕生を予言したことばに、「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」(イザヤ9-2)とあります。「やみの中を歩んでいた民」や、「死の陰の地に住んでいた者たち」とは、最近頻繁に耳にする「負け組」と言われる人たちを指すのかもしれません。クリスマスの恵みを深く味わうことができるのは、自らの無力さに落胆している人であり、不安を抱えてへたり込んでいるような人たちです。自信家の壁は厚く、神の恵みが沁み込む余地はないのですが、頭を抱えて、神のあわれみにすがる負け組をこそ、神は愛をもって迎え入れてくださるのです。

 そして、実は、すべての人が神の目には負け組みなのです。どんなに人と比べて「勝ち組み」だと誇ってみても、神様は私たちの本当の姿を見て、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3-23)と語っておられます。私たちは人との比較で自分がどの位置にいるかではなく、神からの勝ち組み宣言をいただく必要があります。

 では、神からの勝ち組宣言は、どのようにしていただくことができるのでしょうか。それは、クリスマスの主人公イエス・キリストをあなたの救い主としてお迎えすることによってです。学業や営業の成績によっては神の賞賛を得ることはできません。磨きこんだ教養も、神の知恵の前には虚しいのです。やみを照らすまことの光として世に来られた救い主を、へりくだった心でお迎えするものだけが、神の承認を受けることができます。
 



無題 | 09:20:45 | トラックバック(0) | コメント(0)