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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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驚くばかりの祝福でした!

伏し拝んで、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主をほめたたえた。(歴代誌第二7章3節)

主の日の礼拝で始まった2006年は、主の日の礼拝で暮れようとしています。「年頭の暗唱聖句は?」と見てみますと、「待ち望め。主を。」(詩篇27-14)だったようです。年末の暗唱聖句は、「主は、奇しいわざをなさった。」(詩篇98-1)ですから、主への期待で始めた2006年は、新会堂の完成という、主の驚くべき御業を拝して閉じようとしているわけです。

 こうして、新会堂に落ち着いて、年末の週報を書いていると、「私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。」(詩篇40-02)というみことばが思い起こされます。主を待ち望む者は、備えられた道を、粛々とみちびかれていくものです。引越しやクリスマスと、あわただしかったですが、集われた皆さんが、イエス様の栄光を崇めることができました。

 献堂感謝礼拝には、英点訳の方々の中からKさん、美奈宜の杜のバイブルの集いからKさん、週報を送り続けている方々の中からKさんご家族と、のり子姉のご家族、そして建築に当たってくださった溝江建設の皆さんが、お祝いに駆けつけてくださいました。最近、イエス様への信仰を告白された山本兄も、入院中の病院から集い、喜びを共にすることができました。そして、この日のために聖歌隊が準備したカンタータ「キリストの生涯」の讃美が会堂いっぱいに響き渡り、イエス様の救いのすばらしさを証しました。

 普段、まだまだ礼拝の姿勢がなっていない頼父君も、この日ばかりは、立派に聖書を拝読し、思わず拍手が起こったほどです。大楠兄も正装をして、溝江建設への感謝状を堂々と読み上げてくれました。会食会も、幾名かの方々から幸いなお祝いのご挨拶をいただきつつ、和やかな交友の時となりました。高齢の真菜ご夫妻も集い合うことができ、教会員全員で喜びを共にできたことは、何より幸いでした。

 ソロモンが神殿を奉献したとき、「主の栄光がこの宮に満ちた。」(歴代誌第二7-1とありますが、私たちの献堂礼拝にも、主イエス様が真ん中に立って、力強く教会を励ましてくださいました。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ14-18)と約束された主イエス様は、とこしえに私たちと共にいて、ご自身の教会を建て上げてくださいます。また、「待ち望め。主を。」の信仰をもって、新年を迎えてまいりましょう。



無題 | 16:39:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
待望の開堂(オープニング)です!

新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。
(詩篇98篇1節)

4ヶ月にわたる新会堂の工事も無事に完成を見、カギが教会の手に引き渡されました。ひとりで会堂の真ん中に立って、讃美の歌を歌ってみると、音の響きがすばらしく、天に上って行くようでした。早く、会堂いっぱいに、主イエス様への褒め歌のハーモニーを響かせたいと思いました。

 まずは、本日、「開堂式」と私は名づけましたが、最初の礼拝をお捧げします。土地の取得を決議してから、まるに年が過ぎたところです。私たちには会堂建築への備えは何もありませんでした。あったのは、「主の山の上には備えがある。」(創世記22-14)という、イエス様への信仰だけでした。

 神様はかつて、「わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3-10)と語られましたが、事実、「あふれるばかりの祝福」は、私たちの上にも注がれたではありませんか。イエス様に従って二年間歩んだら、私たちは今朝、この夢のような礼拝堂で、主イエス様に礼拝を捧げているわけです。

 私たちのどこに、ここまでしていただくだけの価値があったでしょうか。それはただ、「神の深いあわれみによる」(ルカ1-78)ものでしかありません。神様は私たちの「からし種」ほどの小さな信仰を喜んでくださったのです。そして、これほどのビッグプレゼントをくださったのです。

 仕上げにピカピカに輝く十字架が教会の壁に掲げられました。イエス様が私たちの罪のために負ってくださった、あの十字架を道行く人たちが、パンを買いに来る若者たちが、郵便局に来る皆さんが、目にすることでしょう。きょう開かれたこの会堂が、その一人一人の救いの場となってほしいのです。
 とは言え、功をあせらず、気負わず、ただ神のみわざに期待して歩んでまいりましょう。みことばは、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」(ピリピ2-14)と教えています。いつまでも、この開堂の感動を覚え、皆そろって、熱い信仰に進んでまいりましょう。



無題 | 18:34:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
心から「メリークリスマス!」と言えるためには?

2001年12月週報より
これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」                  (ルカ伝1章78、79節)

 いま耳にしたニュースによると、皇太子妃のご出産はいよいよ秒読みに入ったようです。多くの日本人は不景気の暗雲を吹き払う明るい知らせを今か今かと待っています。ちょうど、救い主の誕生を待ちわびたユダヤ人のようであるかもしれません。

 誰にとっても「暗黒と死の陰にすわる」ような生活は辛いものです。抜け出そうともがいてはいるのですが、堂々巡りばかりで確かな道が見えてこないのです。「生きる意味がわからない」と言って絶望する若者も多いと聞きます。

 しかし、どの時代の人々をもあわれんでくださる神が天におられることが私たちの希望です。この神からの救いが日の出のように私たちを訪れたのです。それがイエス・キリストの誕生、クリスマスです。
聖書は私たちに「今日」、生き方を変えるように求めています。商業主義のクリスマスに惑わされずに、今年こそ主人公イエス・キリストに目を向けてみませんか。きっと、あなたも魂を照らす「いのちの光」を持つ者となります。

 イエス様は悔い改めようとしない心のかたくなな人たちに向かって、「あなたがたは自分の罪の中に死ぬのです。」と警告されました。救い主はなぜ、このような厳しいことばを使われたのでしょうか。それは私たちが向きを変えて、神のもとへ立ち帰るためです。
 今年こそクリスマスのコーラスを歌って、救い主のご誕生を祝いましょう。ひとり子をお与えになるほどに、私たちを愛してくださる神が天におられることを褒め讃えましょう。イエス様の十字架の死によって、私たちの罪が赦されていることを感謝しましょう。



無題 | 10:06:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
「品格」は、こうして高めることができます。

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(イザヤ書9章2節)

 毎年、年の瀬になると、その年の流行語が話題になります。「イナバウワー」や「ハンカチ王子」と並んで、耳にした言葉に「品格」がありました。どういう人が、どういう意図で使われたかはわかりませんが、「良い言葉が流行ったのだなあ。」と思わされました。人間にとって「品格」は大切な要素にちがいないからです。

 ところが、私の印象では、一番多く耳にしたのは、「品格」とは最も大曲にあるはずの「いじめ」という言葉だったような気がするのです。皆さんは品格ある人たちに囲まれて生活できていますか。それとも、身の回りに陰湿な「いじめ」の実態がありますか。「品格」は単なる流行言葉でなく、私たちの身に付いた特質でありたいものです。

 私にとっても、この「いじめ」という言葉は、頭に浮かんできてほしくない言葉の最たるものの一つです。それは、こどもの頃に自分がしてしまった弱い者いじめを思い出さざるを得ないからです。また、いじめられた惨めな記憶も返ってくるからです。
 私のこの嫌悪すべき記憶は、教会を訪ねて聞いた「罪」という言葉が、実に見事に言い表してくれていました。そのような記憶を持つ私は、まさに聖書が言うとおり、「生まれながら御怒りを受けるべき子」(エペソ2-3)だったのです。

 そんな私でしたが、「私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2-14)というみことばを見つけたとき、私は神の赦しを経験しました。イエス様の十字架の御愛によって、私は罪から救われたのです。
 クリスマス、天使の告知はいずれも、「こわがることはない。」という語りかけで始まります。これは、神があわれみ豊かな、赦しに満ちた神であることを現しています。神は更にこのクリスマス、「あなたの願いが聞かれたのです。」(ルカ1-13)とまで語りかけていてくださるのです。
 私たちの心に救い主イエス・キリストをお迎えするとき、私たちは人としての品格を取り戻し、神のこどもとして生まれ変わります。ここに、「ワンダフルクリスマス!」の感動があるのです。



無題 | 19:58:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
クリスマスの感動とは?

2002年12月週報より
マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。                 (ルカ伝1章46、47節)

 どんな人にも生きているかぎり、いや生かされているかぎり為すべき仕事があります。神は無駄にいのちを与えられません。ですから、いのちを与えておられる方を知り、何のために生かされているかを知ることは極めて大切なことです。

 2000年前、ユダヤの少女マリヤは救い主を世に生み出す母となりました。何の功績もない一介の貧しい娘を、神は特別な御用のために選んでおられたのです。神のご計画を知ったマリヤはそのことを真剣に受け止めました。
 マリヤは「この卑しいはしため」と身を低くして、天より愛の目を留めていてくださる神を褒め讃えたのです。。彼女は圧倒的な神の実在に気づいた時、自分の罪深さを知らされ、ひれ伏さずにはいられませんでした。ここに信仰者の姿を見ることができます。

 神が実にそのひとり子を十字架にかけるほどに私たち罪人を愛してくださったと聞いても、それを冷たく鼻であしらうとしたら、その人にクリスマスは訪れません。偉大な神がこのような貧しい者と親しく関わってくださることへの感動があるでしょうか。

 神はマリヤに特別なご計画をお持ちであったのと同様に、私たち一人一人に果たすべき使命を用意しておられます。それはイエス・キリストを心にお迎えすることです。
 マリヤの胎内でイエス様が育っていかれたように、私たちの中にイエス様のご性質が形造られていくとは恐れ多いことではないでしょうか。

 このクリスマスに、「神にとって不可能なことは一つもありません。」という天使の御告げをもう一度信じなおさせていただきましょう。



無題 | 09:53:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
心の闇、どうしたら光に代わるのでしょうか?

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネ伝1章4; 5節)

 一昨日、電気屋さんが来られ、新会堂に照明器具を取り付けてくれました。夕方になり、辺りが暗くなった頃、初めての明かりが新会堂に灯りました。私の心に、イエス様が語られた、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8-12)というみことばが浮かび上がって来ました。

 電灯はいたるところに灯っています。人々を引き寄せるイリュミネーションの華やかさは、とうてい教会の比ではありません。しかし、それらの華しょくは人の心を照らすことはできないのです。やみの心に、心理の光を輝かせるために来てくださった、イエス様の教会堂に、初めて明かりが灯ったことに、私の心は震えるほど感動しました。

自ら命を絶つ若者についての報道が連鎖的に続いています。まことに痛ましいことです。彼らの心を覆っていたであろう闇の深さを推し量ろうとしても、今の私には万分の一も実感することができないでしょう。それだけ、私はイエス様の光の中を歩ませていただいているからです。

 これまで、教会は奥に引っ込んでいましたが、今度は中高生たちの通学路に出ます。彼らが教会の存在に気づき、足を踏み入れるために、何をすることが有効でしょうか。讃美歌を静かに流してみるのもよいかもしれません。誰でも取れるようにトラクト(福音の小冊子)を置いてみるのも一案でしょう。とにかく、通りがかる人たちが、「ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4-10)という、教会が伝えるメッセージに気づくために、効果的と思われる方法を試みてみましょう。

あと二週後、真新しい会堂は私たちを迎えてくれます。言い表せないほどの神の恵みです。そこで、私たちはイエス様にお仕えし、悩み深き人々の魂の救いのため、主のしもべとして働かせていただきましょう。



無題 | 18:00:23 | トラックバック(0) | コメント(0)