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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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苦しむことは役に立つのか?

2002年12月週報より
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。                    (詩篇119篇71節)

 人が抱く素朴な疑問の一つが「良い人なのにどうして苦しむのか」ということではないでしょうか。まして神に仕えている者が苦しみに合うなどとは納得しかねるにちがいありません。
 このような見方の背景には苦しみは罪に対する刑罰であるという硬直した受け止め方があります。寒々とした運命の厳格さだけで、奥に隠されている希望が見えてきません。

 しかし、苦しみには何か他の意味はないのでしょうか。聖書は神のくださる訓練であると述べています。訓練は成長を期待して課せられるものです。可能性のない者を訓練するコーチはいません。
 また、親はこどもを愛すればこそしつけます。皆わが子に期待しているからです。であるとすれば、キリストに従おうとする私たちがイエス様の訓練を受けないということがあるでしょうか。

 イエス様は「霊とまことによる」礼拝を求めておられます。これをあなたはどう受け止めますか。確かに礼拝は恵みです。その恩恵に浴することこそ感謝です。
 しかし、時にはそれはまた訓練であると受け止めてみましょう。訓練であるなら苦しみとなることもあるものです。それでも、「感謝しつつその門に、讃美しつつその大庭にはいれ。」と歌いながら礼拝に向かいましょう。
 イエス様がお与えくださった命令があります。バプテスマと主の晩餐です。これにあずかることも恵みであると同時に主の訓練です。これを受けるに際して葛藤する人がいるかもしれません。しかし、これもまた真のクリスチャンを練り上げるための試金石であり、幸いな主の訓練なのです。



無題 | 09:46:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
新たな出発のためには?

詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。        (エペソ書5章19節)

会堂建築も仕上げの段階に入ったようで、これまで駆けられていたシートが取り除かれ、待望の教会堂が気品ある姿を現しました。万感迫るような、美しい光景です。これから前面に十字架が取り付けられ、教会の看板が掛けられていくわけです。主の着実な導きに、感謝がこみ上げてきます。

 一方においては、教会周囲の皆さんが次々と退去して行かれ、残された建物が業者によって解体されています。早朝、散歩しておられた方にご挨拶すると、「教会は立派に立ち上がりましたが、見慣れた家並みが壊されていくのは恐ろしいことです。」とさびしそうにおっしゃいました。脚のリハビリをしておられる方なので、自分自身の弱った体が壊されるように感じたのかもしれません。

 私の心にはイエス様の、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3-3)というみことばが浮かんできました。イエス様を信じ、新しい生き方を始めたときから、古い生き方の解体が始まったのです。神に背を向けた罪の生活をなつかしみ続けることは、神を悲しませることです。罪に根を張った土台が抜き去られ、イエス様の福音の土台が堅固に据えられなければなりません。

 遠慮なく、土台もろとも引き抜いていく解体作業の徹底ぶりを観ていると、確かに中途半端な解体では、新しい目的は目ざせないことがわかります。教会はイエス様の福音を土台にして集められた「新しい家族」です。目的はイエス様の働きを担っていくことです。新しい会堂はその目的のためにだけ用いられるべきです。

 イエス様が語られた、「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21-13)というみことばを心に留めさせていただきましょう。教会堂は主イエス様を礼拝し、主イエス様のみことばが実践されていく場です。私たちは粛々と主イエス様に栄光を帰す信仰の生活を続けてまいりましょう。



無題 | 18:00:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
暗さにグッバイ!

2002年11月週報より
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。                       (ガラテヤ書5章1節)

 喜怒哀楽に代表される感情は神のすばらしい贈り物です。無邪気に爆発するこどもの笑い声は聞く人の心を思わず和ませます。さびしそうに涙を浮かべた目は見る人の心に思いやりの感情を引き起こします。
 しかし、この感情というものが人を支配しがちなものであることも事実です。たとえば、誰かの一言によって暗い感情の虜になってしまうことがあります。「イエス様を信じてると言ったって、生活がまるでなっていないじゃないか!」というような批判はどこからか聞こえがちです。

 このような無責任な批判のことばによって私たちの心がしぼんでしまってよいでしょうか。そんな時こそ、「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と高らかに主を褒め讃えましょう。

 イエス様は私たちを憂鬱な感情の奴隷状態から解放してくださいました。キリストに信頼する者が罪に定められることは決してないのです。この真理はあなたに魂の自由を与えます。
 勝利あるクリスチャン生活を歩めるか否かは、どれだけ聖書のみことばを土台とできるかにかかっていると言えるでしょう。イエス様が「あなたの罪は赦されました。」と宣言しておられるのに、相変わらず過去の失敗にこだわり続けるとしたら、それは正しいことでしょうか。

 「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」というイエス様の励ましに支えられて生きるべきではないでしょうか。そして、「イエスさま、私を暗い感情の奴隷から救ってくださってありがとうございます!」と感謝をくりかえしながら、イエス様の礼拝へ集い合いましょう。



無題 | 09:31:51 | トラックバック(0) | コメント(0)
「幸いな仲間」に加わりませんか?

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネ伝10章11節)

学校における「いじめ」の問題がクローズアップされています。そんな最中に教育基本法の改正案が衆議院を通過しました。教育現場に国家が統制を加える傾向が強まっていく恐れを感じます。特に、北朝鮮の核武装の脅威の中で、日の丸の旗印が目立っていこうとする動きの一つでしょう。
私たちは何によって自分を、家庭を地域を、国を護ることができるのでしょうか。いじめられないために体を鍛えても、束になって攻撃されたら、防御できません。そうなると、友達をつくって、仲間と共に行動することが必要です。連帯している者が、いじめのターゲットにされることはまれです。

イエス様は個人伝道もされましたが、救われた人を仲間に加えられました。それが教会のはじまりです。そして、教会が集まりをしているときに、聖霊が下ったのです。イエス様は今もなお、私たちを教会の仲間に加えることによって、聖霊の導きにより護っていてくださるのです。
 聖書は、「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」(エペソ1-22)と、主イエス・キリストと教会との関係について教えています。教会の聖なる交わりの中に歩むことは、神様の確かな保護のもとに生きることです。

 更に、イエス様は教会について、「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16-18)と、神様の特別な保護のもとにある教会の磐石を表現されました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11-28)というイエス様の招きは、いじめられて、疲れ果てているような人への教会の招きでもあります。そのような人に、「絶望だ!」と決め込んでほしくありません。「まさしく真理はイエスにあるのですから。」(エペソ4-21)というみことばを信じて、教会を訪ねてみてほしいのです。

 救い主がお生まれくださったクリスマスの祝いが近づいています。教会はこの良き機会に、希望の光、イエス・キリストを、多くの人々に証させていただきましょう。



無題 | 16:47:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
ユニークなマラソンがあります!

2002年11月週報より
このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。     (ヘブル書12章1、2節)

 スポーツ大会は最も人々の関心を引きつけるものの一つです。中でも、毎週のようにどこかで大きな大会が催されているのがマラソンでしょう。聖書は私たちクリスチャンの歩みをマラソンにたとえています。
 では、このレースの目的地はどこでしょうか。それは主催者であるイエス様が連れて行ってくださる天国です。あるいは、神様に祝福された生き方と言った方がわかりやすいでしょうか。

 更に身近な言い方をすれば、日曜の朝ごとにイエス様の礼拝に集って行くことがこのレースの目的です。それがやがて究極のゴールである天国へと通じています。 このマラソンは人と競うものではありません。むしろ互いに励まし合いつつ走るのです。走れない人がいれば支えて歩きます。歩けなくなれば、余力のある人が背負ってあげます。

 しかし、イエス様以外のもの、たとえばこの世の楽しみに目を奪われていてはレースから脱落してしまうでしょう。もちろん、仲間が助けようと手を差しのべますが、その手すら払いのけてしまっては為すすべがありません。

 すべての人はどこかへ向かって日を過ごしています。あなたはただ流されていますか。目的地が見えずに不安ですか。それとも、ガイドであるイエス様に信頼していますか。
 今あなたがどこにいても、そこからイエス様に向かって歩き始めましょう。イエス様は手を取ってくださり、喜び溢れる人生へとあなたを導いてくださいます。



無題 | 09:13:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
「光の子どもらしく歩む」とは?

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。   (エペソ書5章8節)

今回、ボード先生ご夫妻の長年の友人である、BBF宣教副部長のマキャリスタ先生ご夫妻が甘木を訪ねてくださいました。ボード先生から甘木の会堂建築の必要を聞き、その実現のため、アメリカでいろいろと動いてくださったのが、この先生でした。今回の来日において、出来上がりつつある甘木の会堂を見ることを、大変楽しみにしておられたようです。
 先生ご自身もニュージランドで開拓伝道に着手され、会員数300名を越える教会に育て上げた経験をお持ちです。先生に日本の印象をうかがってみると、日本の若者たちの礼儀正しさを上げられました。出会われた日本の若者は極めて限られているとはいうものの、こうした好印象を持っていただいたことに、ホッとする想いがしました。

教会の様子を何枚かの写真に収めておられましたが、アメリカの諸教会への報告に用いてくださるのでしょう。パウロが、「あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。」(エペソ1-16)と記したように、私たちのために祈り続けていてくださる多くの愛兄姉が、アメリカにもおられるのです。このことを思うとき、私たちは励まされます。

 子供たちの楽しみに年末の餅つきをする計画を立てれば、餅つき道具にお神酒を注いで清めの儀式をしようとします。真の神を知らないままに、日本の伝統という名目のもとに、この地域の生活は営まれているのです。やがて、学校をはじめとする公の場にも、そのような慣習がまかり通りかねません。それが、真の神を、どれほど悲しませることであるかに気づこうとしないのです。
そのような時代に生きる私たちに、聖書は、「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」(エペソ4-1)と勧めています。人の生き方を非難するために、私たちは救われたのではありません。この世の流れに迎合することなく、主イエス・キリストの父なる神に仕える者として召されたのです。その目的に沿った生き方をしているか吟味しましょう。

 イエス様は、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」(ヨハネ4-23)と語られましたが、私たちは今、真の礼拝者となっているでしょうか。この地域にあって、真の礼拝をお捧げするために、私たちは召されたのです。そのことによってイエス様を証し続けることこそ、私たちにふさわしい生き方ではないでしょうか。



無題 | 19:15:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
「もし、そうでなくても、」と言えるのは、なぜ?

2002年11月週報より
しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
(ダニエル書3章18節)

 毎年秋にはコツコツと一つことに打ち込んできた人たちに勲章が贈られることが発表されます。一人一人がどのような気構えでその道に精進してきたかに興味を感じます。きっと、どの方もその仕事が何よりも好きだったのでしょう。
 もし金もうけや人から褒められることをめざしていたら、その功績は光を失っていたでしょう。イエス様を礼拝していく姿勢も、そのような邪心のない求めでありたいものです。

 私たちの家族に、友人の中に、クリスチャンがいることはきわめてまれです。地域社会でも異色の存在と見られかねません。それでも、私たちはイエス様を礼拝し続けます。それはイエス様を愛しているからです。
 イエス様を信じることによって病気が癒されることもあるでしょう。良縁に恵まれることだってあるかもしれません。仕事が栄えるかもしれません。祝福はあらゆる面において豊かでしょう。しかし、「もしそうでなくても」と言い切ったダニエルの信仰に習いたいものです。

 クリスチャンとして生きようとする時、ある友は去っていくかもしれません。家族の反対に合うこともあるでしょう。しかし、たとえそうであっても、どうして永遠のいのちを粗末にできましょうか。
 箴言のみことばに、「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。」とあります。最後まで残る宝物は何でしょうか。 心にいただくキリストの平安です。

 イエス様への感謝は表現されないと次第にしぼんでしまいます。代わりに不満が根を張り始めるかもしれません。大いにイエス様の救いを讃美し、言葉をもって祈りましょう。あなたはそのために選ばれた尊い器なのです。



無題 | 10:08:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
すばらしい遺産の用い方を見ました!

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。
(詩篇127篇1節)

昨日、下関の「みらいバプテスト教会」の献堂式に出席させていただきました。海の見える坂の中腹に、清楚な会堂は立っていました。開放的な印象の建物からは、「welcome!(いらっしゃい!)と呼びかけてくださるイエス様の御声が聞こえてくるようでした。

 御教会の土台信者であるN姉のお父様が天に召された後、遺された財が、この会堂建築のために捧げられた経緯を聞かせていただきました。イエス様が、自分の宝は、天にたくわえなさい。「(マタイ6-20)と語られましたが、主のみもとに召され、地上にイエス様のみことばを語る教会堂を遺すことができたとは、これに優る遺産の用い方はなかったのではないでしょうか。
 N姉は即座に、「このお金は私のものではない。神様のものだ。」と受け止め、周りの了解も得た上で、下関に聖書に基づく教会を建設するためにお捧げしたとのことです。そのお証をされるN姉は、イエス様による天国の約束への、揺るがない確信に立っておられました。

 建築にたずさわった工務店の社長さんとも話すことができました。「この仕事は本当に楽しかったです。」と語られる社長さんに、「ご自身が設計した建物で、信者たちが神様を褒め称えるのを聴いて、どう感じられましたか?」と尋ねてみました。「これからが、教会との本当のつながりになるでしょう。」との応えでした。いつの日か、彼がイエス様の救いをいただいたとのニュースが聞けることを期待することにしましょう。

イエス様は、「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。「(マタイ10-42)と語られました。私たちも今、新会堂を建てていますが、この大事業は、イエス様への小さな捧げ物の集大成です。立派に完成したおりには、どんな些細な協力者も皆集まっていただいて、「あなたの水一杯のご奉仕を、神様はこれほどまでに喜んでくださったのですよ!」と、豊かに報いてくださる神様のすばらしさを、大いに褒め称えようではありませんか。



無題 | 18:21:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
「悲しむ者は幸いです。」と言える訳は?

2002年10月週報より
すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。
(イザヤ書61章3節)

 イエス様のみことばに、「悲しむ者は幸いです。」とあります。これを聞いて、「そうかなあ?」と首を傾げる方もおられるのではと想像します。普通は喜びの絶頂にある人こそ幸せ者と考えられているのではないでしょうか。

 では、イエス様はなぜ悲しむ者が幸いであると語られたのでしょうか。悲しみそのものに何か価値があり、生産性があるのでしょうか。そんなことはないはずです。 悲しむ者の希望は神にあります。悲しむ者こそが真剣に神を知ろうと求めます。そして、イエス様に見い出されるのです。その結果、決してしぼむことのない喜びをいただきます。ここにどんでん返しの祝福のカギがあります。

 一方、イエス様抜きの楽しみは色あせてゆき、やがて滅びに終わります。肩で風を切って歩くような自信家がどうして神の慰めを求められるでしょうか。そのような人にとって、神のあわれみなどは女々しいものでしかありません。

 イエス様は、「失われた人を捜して救うために来たのです。」と語られました。自分の心の醜さに気づき、神の赦しを願う者のそばにキリストは立たれます。そして、「イエス様、私のベストフレンド、救い主となってください!」と祈る者の心に住んでくださるのです。

 今、あなたの心にはポッカリと穴の空いたような虚しさがありますか。そこへイエス様をお迎えください。あなたの心は喜びの泉の涌く所となります。
 もし、道に迷っておられるなら、イエス・キリストにガイドを頼みましょう。危険な誘い、まやかしの招きが多い時代です。しっかりとイエス様に手を取っていただき、いのちの道を歩み続けましょう。



無題 | 10:07:48 | トラックバック(0) | コメント(0)