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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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意外な所に教師を見つけた!

この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ伝1章12節)

 先日、私は近くにある障害者の施設を慰問するグループに加わりました。歌や舞踊、マジックなどで楽しんでいただいたのですが、終了後、三人の視覚障害者の励ましになればと握手を求めました。一人の青年は言葉もなく、抱きついて放しませんでした。二人目の男性は、いくら声をかけても、背中を叩いても、何の反応も示してくれませんでした。三人目の女性は自分の殻に閉じこもって、とりとめもない言葉を発したり、歌ったりしていました。

 会場で手拍子を打ちながら、「ヘイ!」と元気良く合いの手を入れてくれた障害児たちとの出会いも嬉しかったのですが、この三人のことが、特に心に残っています。道端に座っている生まれながら目の不自由な人を指して弟子たちが、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」と尋ねたとき、イエス様は、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9-2; 3)とお答えになりました。

 彼ら三人は私に教えてくれたのです。実に、たくさんのことを。世の隅であっても、ひっそりであっても、どんなに恵まれなくても、耐えて生き続けることの尊さを教えてくれたのです。何かができることだけが神の栄光を現すのではありません。何もできなく、ただ石のように黙している人も、教師以上に教師であり得るものなのです。

 いじめや差別が原因の悲しい事件が次々に報道されています。親も学校も、これらの根深い問題を、どうしたら解決できるか悩んでいます。私はあの石のように黙し、自分の不幸な生まれを受け入れて、ひっそりと生き続けている人から学ぶことが多くあるのではないかと思わされました。彼の前に座って、彼の手を取って30分も過ごしたら、今直面している苦しみを、もう一歩耐えてみようという気持ちになるのではないかと思うのです。

 教会ではクリスマスの準備を始めています。すべての人の心に永遠のいのちの灯火をともすために、神のひとり子イエス様が、この罪の世に下ってくださったのです。そして、「「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8-12)と私たちを招いてくださいました。

 ヨハネが、「「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1-29)とイエス様を指し示したように、私たちもイエス様を、この病める時代の多くの人々に紹介させていただきましょう。この救い主こそ、「罪人を救うためにこの世に来られた」(Ⅰテモテ1-15)神の御子キリストです。



無題 | 17:26:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
良い実を結ぶために

2002年10月週報より
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
(ヨハネ伝15章4節)

 甘木に住んで得しているなあと思えることの一つが農作物の豊かさです。特に果物、中でも巨峰の立派なことには感嘆させられます。
 あのように姿も立派で美味なぶどうを収穫するためには、農夫たちはどれほどの労力を注いでいることでしょうか。土づくりから枝の剪定、害虫の駆除と木の手入れを続けた末に得られる冠なのでしょう。

 イエス様は「実を結ぶ」クリスチャンの必須条件として「イエス様にとどまる」ことを上げています。イエス様こそ「まことのぶどうの木」であり、この救い主からだけ豊かないのちの祝福は来るのです。
 では、どうしたらイエス様にしっかり結びつくことができるのでしょうか。それには痛みが伴うかもしれません。刈り込みが必要だからです。イエス様に結びつくためには、余分な結びつきを断つ必要があるのです。

 ある時にできることは一つだけです。クリスチャンが礼拝の時間にテレビを見たり、買い物に出かけたりして心が痛まないでしょうか。聖歌に「なお深く主を知らん」と歌われています。イエス様のみことばを聞き、聖霊の満たしを祈る礼拝に集ってこそキリストの平安をいただけるのです。

 イエス様は私たちのどの部分に剪定ばさみを入れようとしておられるでしょうか。何が切り捨てられなければならないでしょうか。「イエス様、あなたのしもべとして良い実を結ぶために、妨げとなっている罪や習慣を刈り込んでください!」と大胆に祈りましょう。
 日頃から入念に手入れされたぶどうの木こそが円やかな房を実らせるように、私たちもまた一歩、イエス様にきよめていただきましょう。



無題 | 09:28:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
私も責任を感じます。

ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、   (ピリピ書3章13節)

まず、取り壊しが教会の前の家から始まりました。様子を見ていると、最近のゴミ出しと同様に、建材別に仕分けされています。住民が愛着をもって暮らしていた家を壊すのですから、せめて使える部分は、どこかで再利用されてほしいものです。
 教会堂もまもなく、あのように壊されていくのかと思うと、粛然とさせられます。しかし、この地で培われた信仰の宝は、何者も壊すことはできないのですから、あと数回となった現会堂での礼拝を、心を込めてお捧げすることにしましょう。そして、19年もの長きにわたってイエス様の御用を果たしてきたこの土地が、どうなっていくのかを見させていただきましょう。

 イエス様を信じることは新しいいのちの始まりです。しかし、それは同時に、古い生き方の終焉でもあります。神様に逆らう罪の性質は砕かれ、新しい土台が据えられなければならないのです。聖書は、「その土台とはイエス・キリストです。」Ⅰコリント(3-11)と言明しています。

 隣り町で「いじめ」を苦に一人の中学生が自ら命を断ったということで、本県のみならず、日本中の教育界が揺れています。私たちも教会案内を配る範囲での出来事ですから、責任の一端を感じます。どうしたら、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ1128)という、イエス様の招きの御声を彼に聞かせてあげることができたのでしょうか。

 一方においては、こどもたちに教会案内を手渡そうとすれば、危険人物として警戒されかねない社会的事情もあります。そうした過度の守りの姿勢が、差別や偏見を助長しているように感じることさえあるほどです。そうしたディレンマの時代に、この地にイエス様の新しい教会堂が建てられています。神様がこの地に住む人々を、なお、あわれみ続けていてくださる証ではないでしょうか。
 聖書は私たちに、「御霊の一致を熱心に保ちなさい。」と諭しています。小さな者たちであっても、一致して祈り、一致して奉仕するとき、イエス様は何十倍、何百倍にも増やして用いてくださることを、私たちは知っています。ますます一致して、迷える人々の救いを祈り続けようではありませんか。



無題 | 19:02:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
心の中心に平安があるとは?

2002年10月週報より
わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
(ヨハネ伝14章27節)

 最近のニュースを聞いて不安を感じる人は多いのではないでしょうか。更なるテロの噂、食物の安全に対する不安、金融システムへの信頼の揺らぎ、「いったい何を信じたらいいのでしょうね。」といったため息混じりのセリフをよく耳にします。
 不安は政治体制や経済の繁栄だけでは取り除けないものであることに気づき、多くの人々は心の持ち方に注目しています。前向きな考えを保ち、不安に打ち勝とうとしています。それをサポートしようとさまざまな宗教が勧誘の手を伸べています。

 では、イエス様が約束された「世が与えるのとはちがう平安」とはどのようなものでしょうか。まず、それは単なる心の持ちようではないということです。前向きに積極的にと頑張り続けても、その先も頑張り続ける力はどこから来るのでしょうか。
 その力、平安、いのちを与えることができるのは救い主イエス・キリストだけです。イエス様の教えは人間の知恵の産物、宗教ではありません。それは神の知恵であり、人を中心から生まれ変わらせるものです。

 つぎに、イエス様を信じる者には神の特別な保護が与えられます。信者の心に住んでくださる聖霊が罪の誘惑をシャットアウトしてくださるようになります。人を不幸にいざなう罪の生活から遠ざけてくださるのです。
 イエス様は人に神との平和を与えるために十字架に架かってくださいました。その尊い血潮は信じるすべての人の心を洗いきよめてくださいます。これがイエス様が今日もなお続けておられる魂の救いの奇跡です。



無題 | 10:13:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
タイミングを逃すな!

信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、              (ヘブル書11章7節)

開所以来19年間、会堂として使用してきた建物が競売によって所有者が代わり、立ち退きを迫られることとなりました。こうなることは、教会には2年前に情報が入りましたから、主の導きを仰ぎつつ、一歩一歩準備を重ねてくることができました。私たちが移るべき真新しい会堂は、着々と仕上がりつつあります。粛々と引越しの容易を始めましょう。

もし、2年前に不動産屋が知らせにきた情報を真剣に受け止めて、動き出していなかったら、今私たちは、どうなっていたでしょうか。私たちは幸い、そうした最悪の事態をあえて想像する必要はないのですが、この経験を通して、主の導きに従うことの大切さを肝に銘じたいと思います。そして、「試練とともに、脱出の道も備えて」(Ⅰコリント10-13)くださった主イエス様を褒めたたえましょう。

聖書は、「すべての営みには時がある。」(伝道3-1)と、タイミングを逸しないように促しています。私は大根の種を蒔こうと思っていたのですが、夫婦とも風邪っ気だったので畑へ行きそびれてしまい、種蒔きの時期を通り越してしまいました。こんな程度のことなら、笑ってすまされますが、人生は真剣勝負ですから、タイミングを逃すことによって、取り返しのつかない結果に至ることもあるわけです。

多くの人たちは、聖書が、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6-2)と語って、イエス様への信仰を促していることを伝えるとき、どう反応するでしょうか。素直にその警告に気づいて、向きを変えてイエス様に信頼しようとする人は少ないのが現実です。神の裁きの日など「ない」と思っているか、まだまだ時間はたっぷりあると思いがちなのです。そして、残念ながら、目先の楽しみに心を奪われて、貴重な時を空費してしまう人たちが多いのです。

消滅の危機を逃れて、甘木の地に教会が保たれたのは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4-17)というイエス様の警告を、この地に住む人々にお伝えするためです。そして、「わたしは、世の光です。」(ヨハネ8-12)というイエス様のみことばを掲げて、道を求める人々の灯台となるためです。
教会は会堂建築において一致して進んでくることができました。これからも、試練は多く襲って来るでしょうが、キリストによる祈りの一致をもって、勇敢に立ち向かってまいりましょう。イエス様は今も変わることなく、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」」(マタイ28-20)と約束しておられます。



無題 | 13:12:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
頼りになる真のヘルパーとは?

2002年10月週報より

その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。 (ヨハネ伝14章17節)

 昨今の社会制度の一つとして定着しつつあるのが介護保険でしょう。年をとったり、障害を負ったりした人の必要に応じて生活援助を与える仕組みです。この制度のもと、実際に介護の手を差しのべる人たちが「ヘルパー」です。

 イエス様が弟子たちに約束されたのがヘルパーの派遣でした。このヘルパーは冒頭のみことばによれば「真理の御霊」と呼ばれています。この助け主はイエス様を信じるすべての人の内に住んでくださる神様です。
 そして24時間、365日、終わりの日までその人の心に住み、正しい道案内をしてくださいます。神のみことばを理解させてくださるのも、悪い誘惑から守ってくださるのも、この聖霊様です。
 イエス様は、「あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」と約束されました。今やイエス様は天で信者のためにとりなしの祈りを続けておられると共に、聖霊をお与えになることによって、我らの内に生き、導いておられます。

 では、聖霊はどう指導くださるのでしょうか。神を知ろうと聖書を読む時、イエス・キリストに満ち満ちている神の奥義を見せてくださいます。そして、罪を憎み、キリストのきよさを思慕する信仰を促してくださるのです。
 聖霊がイエス様のみことばと矛盾することを語ることは決してありません。イエス様への愛を増し加え、喜んでその教えに従えるよう、聖霊の満たしを祈りましょう。ここに世の人々には知り得ない、クリスチャンの力の源泉があるのです。



無題 | 09:36:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
成長して、独立するということは?

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(第一コリント12章27節)

毎年、教会はこの時期に、創立記念集会を開いてきました。そして、私たちは今朝、19周年記念の礼拝をお捧げしようとしています。今、教会は新会堂の建築真っ最中ですから、開所以来使用してきた会堂で記念集会をするのも、今年かぎりとなります。
来年の今頃には、教会は成人式を祝うことでしょう。聖書に、「建物の全体が成長し」(エペソ2-21)とあるように、教会にはイエス様のいのちがありますから、厳しい環境の中に置かれていても持ちこたえ、気づいてみれば、教会としての態をなすに至っているわけです。「成長させてくださる神」(Ⅰコリント3-7)というみことばを実感します。

今回の会堂には四本の通し柱が立っています。これらは他の柱とはちがい、一回り太いのです。しかも建物全体の重量を支えています。一本の大黒柱でもなく、5本の通し柱でもありません。4本なのです。
「キリストのからだ」(エペソ1-23)である教会にも、通し柱となる覚悟のできた四人の土台信者が必要です。これらの人たちは、「誰かが通し柱になってくれるだろう。」とは考えません。自らが教会の働きのいっさいに責任を負う「通し柱」であるという自覚をもっています。

イエス様は宣教して回ると共に、弟子たちを訓練して教会の組織造りをすることに、多くの時を割かれました。来春、母教会であるユニバーシティバプテスト教会の宣教チームが来会される機会に、教会は独立することを求められています。教会が「独立する」とは、どういうことでしょうか。
 独立とは自らの所属する教会の信仰の立場や宣教の歴史を理解し、フェローシップの一員として責任ある行動を取ることです。未成年が二十歳になって持つ責任の自覚に似ています。幸い、まだ数ヶ月の猶予がありますから、この期間を用いて、教会が成人するための心構えを整えていただきましょう。
 必要に迫られての会堂建築ではありましたが、どうやら完成に近づいています。これは、私たちにそれなりの力が備わってきていることの証明ではないでしょうか。ですから、独立というハードルも乗り越えさせてくださると信じましょう。そして、来年は教会の成人式を共に喜び合おうではありませんか。



無題 | 20:07:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
記憶に留めたい「THE知識」とは?

2001年10月週報より
ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。             (ヘブル書2章1節)

 年を重ねていくと、多くの人の悩みの種となるのが物忘れではないでしょうか。私なども時々、歯医者の予約をすっぽかしたり、忘れ物を取りに戻ったりすることがあります。
 しかし、物忘れは工夫の母とも言えるのではないでしょうか。たとえばメモをとることや、誰かと記憶を共有しておくことによって、忘れても被害を避けることはできます。パソコンを活用するようになって、安心して忘れることができるようになったという人もおられるでしょう。

 家族の日常生活から世界のできごとに至るまで、洪水のように押し寄せてくる情報の中で、決して忘れ去ってはいけないのがイエス・キリストについての知識です。あなたはイエス様はどういうお方だと聞きましたか。
 「主(イエス様)は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」と聖書は伝えています。そうです。イエス様は私たちの痛みをよく知っておられ、罪と死の苦しみから永遠のいのちの平安へと導き出してくださる神様です。

 このことは何にもまして、私たちが記憶にとどめなければならない重大な知識です。ですから、私たちはイエス様を忘れないために礼拝に集まります。そのみことばを暗唱します。その救いを褒め讃えます。そのお名前によって祈ります。
 こうして、イエス様は信じる人の内に光となって、力となって、いのちとして生きるようになるのです。それはイエス様について聞いたことがしっかり心にとどまるように、聖書が勧めることを実践したからです。

 キリスト信仰は漠然とした神信仰ではありません。神が人となってくださった救い主イエス・キリストを具体的に知り続けていくことです。そして、ついにはそのご性質に似る者となるまで従い続けていくことです。



無題 | 10:57:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
信念のために闘って勝訴した人たちに拍手!

すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。    (ピリピ書2章11節)

東京都立学校の教職員の中に「君が代」を国歌として歌うことを、その方の信仰上の立場から拒否した方々がおられます。東京とはそれらの職員の行動を規律違反とし、処分を断行しました。この問題が裁判によって争われていましたが、個人の信条が尊重され、処分は違憲であると判断されました。
この類の裁判の原告の中には、クリスチャンの方々も多くおられます。公務員の規則を十重知りながらも、信仰の立場を貫こうとするとき、厳しい闘いにさらされ続けてきたことでしょう。中には、通勤に長時間を要するような学校に転勤を命じられた方々も、多くあると聞きます。
「君が代」を歌わないことは、日本人であることを恥じているわけではないのです。日の丸に注目しないからといって、日本人としての自覚を欠いているわけでもありません。聖書は、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」(ローマ13-1)と教えているのであって、好んで権威に対立することを勧めているわけではありません。
一般には、「長いものには巻かれろ。」という処世術が推奨されます。場に応じて、当たり障りなく身を処すことをもって賢しとする人たちもいるわけです。日の丸や君が代が日本の歴史の中で、どのような役を演じたかなどについては、深く考察することは、あえてしない人たちです。そのような立場もまた、クリスチャンの選択肢の一つとして尊重されるべきでしょう。

ローマ法王が引用した言葉が、他教徒を侮辱したということで、法王が陳謝するということさえありました。ここ日本でも、ある政治家の立場に怒って、その母親の家を全焼させたという事件もありました。思想・信条・言論の自由は身の危険を伴いつつ保障されていると言わざるを得ないような実態です。
そのような中で、個人の信条の保障のために闘われ、勝訴を勝ち取られた400余名の教職員たちに祝意を伝えたいと思います。少数派の信条が、社会規範に反しないかぎり、日本において保障され続けていくために、声を上げる勇気を持ちましょう。私たちの主イエス様は、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28-18)と宣言されました。このお方のみを私たちは神として礼拝する「クリスチャン」なのです。



無題 | 19:02:28 | トラックバック(0) | コメント(0)