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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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終末の時代に、どう生きるべきか?

2001年10月週報より
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。                       (マタイ伝24章35節)

 「私たちが終末の時代に生きている」と言う時、しばらく前の繁栄のさなかであるならば、それを実感する人は多くはなかったでしょう。しかし、国のリーダーたちの口から「正義と悪の戦い」という表現がされ、宗教家を自称する人たちが聖なる戦いと声高に叫ぶのを聞くにつけ、確実にこの世界が終末に向かって進んでいることを実感せざるを得ません。

 人間の英知の結晶のようなジェット機が恐ろしい破壊兵器に変わる現実を見せつけられた今、人にとって真に価値あるものとは何であるかがあらためて問われています。人間の無限の可能性を誇示するかのようにそびえ立っていたタワーははかなく崩れ落ちました。この大惨事に直面し、私たちはせめてイエス・キリストが語られたみことばを真剣に受け止めたいものです。

 イエス様は、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と招いておられます。「イエス様を飲む」とは何でしょうか。それはイエス様が真理であり、いのちであると信じることです。決して過ぎ去ることのない「永遠の真理」であると信じることです。

 私たちを真剣にイエス様へ向けるのは魂の乾きです。不安であり、恐れであり、虚しさです。この罪人の赤裸々な姿を認める者だけがイエス様のもとに来、そのみことばをむさぼるように聞くことができます。
 イエス・キリストの十字架と復活の福音は時代を越え、悩む魂に希望に輝くいのちを与えます。イエス様と共に歩む者こそ「世の光」です。神様の祝福はクリスチャンたちをとおして世界にもたらされるのです。
 あなたの心には神との平和がありますか。「平和の君」なるイエス様があなたと共に生きておられますか。



無題 | 09:33:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
施主は誰ですか?この上棟式?

神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。            (エペソ書1章22節)

新会堂の起工式からおよそ1ヶ月、基礎が据えられ、柱も立って、去る21日(木)に上棟感謝を行なうことができました。17日に来襲した台風13号の猛威の中、前日建てられた足場が倒れはしないかと、ヒヤヒヤしましたが、翌朝、恐る恐る見てみると、簡易トイレが傾いたくらいで、足場は残っていたので、主に感謝しました。一番風が強かったとき、「ガチャガチャ!」という音が何度かきこえたので、ヒヤッとしましたが、それは隣のテラスが吹き飛ばされた音だったようです。各地に被災された方々が大勢おられますので、一日も早い復旧をお祈り申し上げます。

上棟は秋晴れに恵まれ、朝の仕事はじめ、ポーチの柱に、「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。」(詩篇100-4)のみことばを張り、この建物の主がイエス・キリスト様であることを工事の皆さんにお話させていただくところから始まりました。お祝いの昼食は教会の婦人たちによって用意され、喜びの会食となりました。続いて、玄関のあたりに立って、上棟感謝の礼拝をお捧げしました。

 40年近く福岡県で宣教を続けてこられたボード先生から上棟のメッセージをいただくことができ、大切な記念となりました。聖歌隊の讃美も捧げられ、棟梁さんがたからの、お褒めの言葉も聞くことができました。I姉のご配慮で参加者全員に引き出物まで用意され、主の栄光の現れた上棟式でした。

 照明器具や内装の打ち合わせも進んでいますし、今日あたりはワインレッドの屋根が付けられています。みぞえ住宅のスタッフの方々も、職人の皆さんも実に気持ちのよい人たちなので、助かります。現会堂を含む土地の競売もどうやら成立したようで、建築のタイミングとしても完璧ではないでしょうか。

 「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」(詩篇127-1)とあるように、主イエス様がこの工事を導いていてくださいますから安心です。今度は駐車場のために導きを祈りましょう。イエス様の救いは、ほんの一握りの人たちのためだけでなく、すべての人のために用意されたのですから、「人々が集える体制を整える必要がある。」というのが、教会の共通の祈りになってきています。



無題 | 18:25:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
正しい判断をするために

2001年10月週報より
人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。                        (箴言16章9節)

 私たちクリスチャンがいただいている特権の一つが祈りです。人は迷うものであり、気づくと何者かに向かって手を合わせています。しかし、実はそのお方がどういう方であるかに注意を払おうとしません。

 しかし、イエス・キリスト様を信じる人たちの祈りは歴史の支配者と心を通わすことです。この祈りをとおして私たちの願いは神のご計画と一致させられていきます。はじめは自分の勝手な都合だけを並べ立てているのですが、反省させられたり、ちがった角度に目が向けられたりして、最後は神様のご計画にこちらが従うわけです。

 私は先日EHC(全国家庭文書伝道協会)が甘木周辺に福音文書を配布する計画をお持ちであることを知らされました。そのうちのいくつかは、いつの日か教会案内に回りたいと願っていた町村です。「これは神様が送ってくださる助けにちがいない」という思いと、「いや、待てよ。宣教は甘木教会に委ねられたものだから、いつになっても自分たちで行くべきじゃないか。」という葛藤が私の中に始まりました。

 さっそくこのことを祈り始めました。まず判断の基準になることは、それはイエス様に喜ばれることであるかどうかです。イエス様が、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と命じられたことと、今教会がその地区にまで出て行けない現状から判断して、この申し出に協力することは神のみこころであると信じました。

 イエス様のお名前によって祈る者には、そのご計画に従う覚悟が必要です。イエス様のお名前による祈りは自分の願望を神様に押しつけることではなく、私たちが神の主権を認め、そのご計画に従うことです。その時に、私たちの歩みは確かなものとなるのです。



無題 | 09:30:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
悪い習慣から救うもの

酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ書5章18節)

 クリスチャンが酒もタバコも嗜まないというと、「それでは、楽しみがありませんね。」と半分冷笑されたものではないでしょうか。しかし、最近では、タバコは健康の大敵として、広く認識されるようになり、喫煙者の方が肩身が狭くなってきているような気がします。更に、このところ、飲酒にからんだ事故や事件が次々に報道されています。

 いずれの場合も、他者の生活を破壊すると共に、自らの将来をも奪う結果になっています。自分では酒は飲んでも、酒に飲まれはしないと思っていたのでしょうが、アルコールの弊害は見くびってはならないほど恐ろしいものです。人の倫理観を狂わせたり、自己抑制できなくしたりするのであれば、それは悪魔の使いとも言えるでしょう。

 クリスチャンは酒やタバコを禁じられているわけではないでしょう。ただ、それらがキリストと共に生きる生活に、プラスにならないことがわかり、次第に遠のくようになっただけです。聖書は、「あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが」(ローマ6-17)と、酒やタバコがなくてはならなかった、過去の私たちの姿を表現しています。

 神を見失っている人は、その空虚さを満たしてくれる何かを求めます。そこで、酒やタバコは合法でもあり、多くの人たちが軽い気持ちで嗜み始め、やがて、それらの奴隷となってしまうわけです。最近では、更に悪質なドラッグに依存して、ボロボロになる若者も多くあると聞きます。彼らはその結末の悲惨さに早く気づくべきです。

 クリスチャンは、「この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。」(エペソ1-7)とあるように、イエス・キリストを信仰し、罪の奴隷状態から解放されて、神の恵みに浴する者とされました。イエス様の満ち満ちておられる教会に加えられ、イエス様のみことばに聞き従うことによって、私たちの魂は満ち足りることができるのです。

罪から解放されたクリスチャンたちに聖書は、「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(エペソ5-19)と勧めています。私たちは聖霊に満たされ、ますます美しい言葉と音楽をもって、神様の栄光を褒めたたえようではありませんか。



無題 | 11:27:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
あなたを見つめる目がある!

2001年9月週報より
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。      (詩篇8篇4節)

 昨日、こどもが通う保育園の運動会を見に出かけました。天候にも恵まれ、大勢のご父兄の方々が応援に来ておられました。それぞれのこどもたちが走ったり、踊ったり、太鼓を叩いたり、それはそれはにぎやかでした。

 あのこどもたちがあのように張り切って動き回れるのはあたたかいまなざしが自分に注がれているのを実感しているからでしょう。自分の演技だけに注目し、声をかけ、写真を撮っている親やおじいちゃん、おばあちゃんの存在を強く意識しているからにちがいありません。

 逆に、誰も自分のことなど見ていないと思うような子がいたらどうでしょう。その子はうつむいて、目も上げれなくなってしまうでしょう。どうして、全身を揺すりながら、喜びを表現することなどできるでしょうか。

 あなたはこの世界をお創りになった偉大な神が、あなたに特別なまなざしを注いでおられるのをご存知ですか。あなたを特別にはぐくみ、見守っておられる神様に気づいていますか。

 実に、神は私たち罪人を救うために、そのひとり子イエス様を十字架に架けるほどに愛してくださったのです。そして今もなおあなたの心の戸をノックしておられます。私たちが気づかなければならないのは、この愛に満ちた神の存在です。 イエス様は2000年前、あなたを救うためにこの汚れた世にまで下ってくださいました。今は天にあって、あなたのために祈り続けておられます。ずっとそのまなざしは特別にあなたに注がれています。その祈りによって、私は日々新たなる力を受けます。そのまなざしはいつもくじけがちな私に勇気を与えます。

 親や家族の応援がこどもたちにあれほど活力を与えるのなら、この歴史を導く王の王、主の主なるイエス様が私たちのため休む間もなく祈り続けておられる事実は、私たちにどれほど讃美の歌をあふれさせることでしょう。



無題 | 10:11:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
人間の「まるごとリハビリ」とは?

肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。(第一テモテ4章8節)

まもなく、自民党の総裁選挙が行なわれます。候補者の一人、安倍氏が掲げたモットーは、「やり直しがきく社会の実現」だと聞きました。失敗や挫折で終わってしまうことなく、目標へ向かって再チャレンジしていける社会は、誰にとっても望ましいものです。

昨日、ある方を病院にお訪ねしました。半身不随と言語障害に陥った方ですが、ずいぶん発語が明瞭になり、杖を使って歩けるようになっていました。ご本人曰く、「リハビリなんてものが役に立つとは思っていなかったが、専門のリハビリを受けることで、こんなに機能が回復するとは!」80歳台で、酸素マスクを必要としながらも、回復を続けているご様子に、「生命は神の御手にある」ことを実感しました。

安倍氏が掲げるまでもなく、「人生の再チャレンジ」を伝え続けてきているのが、イエス・キリストの教会です。イエス様が目を留め、声をかけてくださったのは、ことごとく落胆を経験した人たちでした。病に苦しんでいたり、失業していたり、仲間はずれだったりしたのです。イエス様はそのような人たちをこそ、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。「(マタイ1128)と招いてくださったのです。

先日、もう一人の方を、入所しておられる施設にお訪ねしました。商売の倒産を経験し、転々とする中で重い病に襲われ、九死に一生を得たとのことです。7年のリハビリを受け、「やっと故郷、甘木に帰って来れた!」と喜んでおられました。障害のない左手を鍛えて、「もう一度、施設を出て暮らしたい。」と願っておられます。私は教会の存在を伝え、祈りの応援を約束して帰ってきました。

体のリハビリは有益ですが、人間の全き回復に十分なものではありません。神に対する罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として頼り、人は初めて、神との正しい関係を回復できます。聖書は、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(イザヤ55-6)と呼びかけています。これらの方々が、提供されている永遠のいのちのチャンスを逃さぬよう、祈り続けましょう。



無題 | 19:58:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
時代の風潮に染まらない生き方

2001年9月週報より
ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。                      (創世記6章9節)

 私たちの教会では今月から、幼児にもわかる聖書のおはなしを礼拝のプログラムに入れています。これはこども向けですから、絵やフランネルグラフ、お芝居など、こどもが聖書ストーリーを楽しく聞くことができるように工夫されています。
 そして、最初に取り上げた聖書の人物がノアです。彼の生きた時代は神様を悲しませる、悪が満ちた世でありました。人をお創りになった神のご計画などそっちのけで、自分たちの欲望の追求と快楽にうつつをぬかす時代でした。

 そんな中で、ノアは神様に聞き従う人でした。周りの人たち99人が「イエス様なんか関係ない」と冷ややかに言う中で、イエス様を褒め讃え、その教えに従って生きることは勇気のいることです。誰も神様のことばを聞こうとしない中で、ノアとその家族は忠実に神様の仕事に励みました。

 私たちの身の回りの人たちを見ると、それぞれ何かに忙しくしておられるご様子です。しかし、イエス・キリストのみことばに耳を傾ける人はまれです。彼らにイエス様の救いの話をしても歓迎されないことが多いでしょう。

 そんな現実にもかかわらず、「現代のノア」でありたいものです。時代の風潮に染まることなく、骨董品のように思われても、イエス様の教えを忠実に守り抜く「本物のクリスチャン」になりましょう。

 やがて、罪と暴虐に満ちたノアの時代は神の裁きによって壊滅していきました。そんな中でノアとその家族だけが新しい世界の相続者となっていったことを覚えましょう。どんなに世から冷笑されても、クリスチャンたちはキリストと共に神の国を受け継ぐ選びの民です。共に集い、イエス様を礼拝することによって、私たちは主が共にいてくださることを実感します。



無題 | 10:34:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
悲劇の海中で実践された愛に感銘を受けて

まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。(ヨハネ伝12章24節)

 学校も二学期に入りましたが、夏休みの最後の思い出にと、こどもたちを乗せて、カブトムシを取りに行った帰りの車に、酒酔い運転の車が追突し、一家の車が海に転落するという事故が起こりました。結果は三人の幼いこどもたちが水死するという、痛ましいものとなってしまいました。平和な家族の生活を一瞬にして破壊してしまった飲酒運転の凶悪さは、すべての人に認識されなければならないでしょう。
 
私自身が失敗の多い者ですから、この件について、誰かを非難するようなことを、これ以上書く資格はありません。むしろ、私の心に残った感動について、書き記しておきたいと思います。それは、水中に没した車に取り残されたこどもたちを救うため、果敢に四度、海に潜り、こどもを抱きかかえ、立ち泳ぎを続ける父親に手渡した勇気あるお母さんについてです。

 詳しいことはわかりませんが、あのお母さんは潜水の特訓を受けた方だったのでしょうか。こどもたちを両腕に抱えて、立ち泳ぎを続けた、あのお父さんは水泳の選手だったのでしょうか。水中でシートベルトをはずし、助け出す技術は、訓練を受けた隊員をしても、容易いことではないでしょう。
 あの勇気と力は、こどもたちを愛する親の奥底から湧き上がってきたものであるにちがいありません。あのご両親は、一生かけてこどもたちに注ぐ愛を、あの瞬間に注ぎ尽くされたのでしょう。そして、お父さんは棺のこどもたちに向かって、「生まれてきてくれて、ありがとう!」と別れの言葉をかけたそうです。

 私もかつて、人生の荒海に投げ出され、海の藻屑と消え去るかのようなときがありましたが、そこで、救い主イエス・キリストを知ることができました。イエス様は私の傍らに飛び込んで来てくださり、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マタイ伝14-27)と私を救い上げてくださったのです。「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。」(40-2; 3)という詩篇は、私の身に起こったキリストによる救いを、見事に表現してくれています。

 親が子を虐待したり、子が親を傷つけたりという悲惨なニュースが、次々に報道されています。それもまた、世の現実なのでしょう。しかし、罪人を救うため、身代わりの刑罰さえ受けてくださったイエス様の愛は、闇の深さに勝利して、今もなお輝いています。この神の愛を見上げることが信仰であり、救いであることを、一人でも多くの苦悩する方々に、お伝えさせていただきましょう。



無題 | 16:33:53 | トラックバック(0) | コメント(0)