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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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物事を美しく完成するのは?

2001年9月週報より
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
(ヨハネ伝6章63節)

 私は料理は最高の芸術だと思っています。見てよし、嗅いでよし、味わって堪能できるのが料理です。しかし、三拍子そろったこの料理を本当に生かすのはその食卓の主(あるじ)ではないでしょうか。その食膳にあずかっている一人一人に気配りをし、心のこもったもてなしのできる主であればこそ、その料理をいただく人たちは満足できるのです。

 礼拝を準備する奉仕者たちがいます。礼拝堂を掃除し、講壇に花を生け、オルガンを練習し、説教の準備をします。そして、人々が教会へ集まって来るのを待ちます。整然と準備されたはずの礼拝、奉仕者たちの周到な準備だけで、そこにはいのちが満ちるでしょうか。

 礼拝にいのちを与えるのは聖霊です。説教者に聖霊を豊かに与えるのはイエス様です。会衆に感動を与え、キリスト信仰に促すのは聖霊です。イエス様の御霊の働きなしに、礼拝にいのちはありません。

 ある人たちは綿密に人生を計画します。しかし、人間の努力だけではどうにもならないことも起こってくるのが人生です。聖書は、「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」と告げています。
 クリスチャンは周到に準備し、力を尽くして事に当たります。しかし同時に、聖霊の導きを祈ります。この神が一つ一つの準備を結び合わせ、いのちを与えて事を美しく完成してくださるからです。



無題 | 10:09:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
ついに着工しました!

そこで彼らは、「さあ、再建に取りかかろう。」と言って、この良い仕事に着手した。(ネヘミヤ記2章18節)

 去る20日に、私たちは施工会社の溝江建設と共に、新会堂の起工式を行いました。地縄が張られた敷地に立って、いよいよ始まる建築に、主イエス様の導きを祈りました。数軒先には神社があり、公民館のような役を果たしています。しかし、イエス様はこの町に、聖書のみことばを伝える教会を建て、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」(マタイ11-28)を、永遠のいのちに招かんとしておられるのです。
 甘木の人たちはキリストの十字架が通りに面して立つことを、どう受け止めるでしょうか。残念ながら、今すぐは、歓迎されないかもしれません。奥に引っ込んで、ひっそりと活動している分にはかまわないが、「表立って、派手にされては困る。」といったようなところではと想像します。
 そういう点で、この会堂建築は世に対する挑戦であり、激しい反応さえ受ける覚悟が必要なのです。キリスト宣教の足跡をたどると、それは教会迫害の歴史であると言っても過言ではありません。常に、世は教会の前進を嫌ったし、一方、その迫害を経て、教会は成長し続けたのです。
 借家の会堂であれば、そこを閉じて、他へ向かうこともできますが、自前の会堂となると、そうはいきません。私たちはそこでイエス様を証して、そこから天に凱旋する覚悟ができているでしょうか。イエス様は、「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10-39)と約束していますから、教会と共に生き貫けるならば、これに優る祝福はないはずです。

 先日、高温スチームの掃除をデモする人が来られ、エアコンをきれいにしてくれました。料金が千円である代わりに、私たちはその清掃方法の効能をたっぷり聞かせていただきました。私は最後に、「スチーム清掃の力はわかりましたが、心の汚れは落とせないでしょうから。」と言って、教会案内をお渡ししました。
 人々の心は汚れ、傷つき、病んでいます。神の御子イエス様の十字架の血潮だけが、その心を再生させてくださいます。その尊い知らせを伝えるために、私たちは会堂の建築に着手しているのです。



無題 | 19:00:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
ドッキリする表現に隠された真意は?

2001年9月週報より
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。                        (ヨハネ伝6章53節)

 私は上のみことばを掲げることに強いためらいを感じました。なぜなら、その表現は非人道的な印象を与えるものだからです。しかし、誤解を避けるために、敢えてこのみことばを選びました。
 まず、イエス様が「人の子」という表現をされる時、それはキリストご自身を指しています。そして、「人の子の血・肉」とは2000年前、全人類の罪をその身に負いたもうたキリストの十字架を暗示しています。

 また、「キリストの肉を食べ、その血を飲む」とは「イエス様を救い主として信じる」ことです。「食べる」とか「飲む」とは、その人の心の王座にキリストを迎える、つまり「信じる」ことを比喩的に表したものです。

 この説明を聴けば、これが決してオカルトではないことをわかっていただけるのではないでしょうか。むしろ、このみことばは、クリスチャンがキリストの十字架の血潮によって罪を清められ、その復活のいのちに生きる者であることを如実に語っています。

 たまに礼拝に出てみたり、聖書を文学として読んでみたりするだけではキリストを食べる(信じる)とは言えないでしょう。そのような近づき方では、イエス様が約束された永遠のいのちを得るにはもの足りません。

 信じるとはもっとキリストの聖さを渇望するものであり、そのみことばをむさぼり聴くものにちがいありません。そうしたキリストとの不断の交わりの中に満ち満ちた永遠のいのちはあります。
 イエス様は「わたしと父とは一つです。」と言われました。では、私たちはイエス様と一つになろうとしているでしょうか。



無題 | 10:16:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
愛はここに!(Compassion Lives Here)

見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。(詩篇133篇1節)

夏のお楽しみ、合同キャンプが、昨年開所したばかりの博多南BBCの主催で開かれました。蒸し暑い時期にもかかわらず、新鮮な感動を感じたのは、なぜだったのでしょうか。まず、参加者の中に何人かの新顔がおられたからでしょう。そもそも、キャンプの運営に当たった博多南の皆さんは、教会のキャンプというものに初参加の方々ばかりだったのですから。

熊本に宣教地を定めたガイスラー先生ご家族も、何人かの求道中の方々を伴って参加されました。それから、説教者に立てられた東京BBCの斉藤牧師も、九州の諸教会にとっては、新鮮な出会いだったのではないでしょうか。常に参加者の中を回りながら、声をかけておられる姿に、テーマの「愛はここに」の実践をかいま見たような気がします。

大分BBCのニュースも嬉しい驚きを与えてくれました。牧師家の次男、中畑基兄が九月から神学校に入学され、伝道者の道へと踏み出されます。代わりに、亀岡で伝道師をしておられた長女のかおり師が、日曜学校担当の伝道者として着任の予定だそうです。また、真菜兄姉が長年暮らされた庄内町の家が、大分教会の伝道所として用いられ始めました。これもまた、甘木にとっても、大きな喜びです。更に、近々、新会堂用地も取得とのこと、大分市全域を宣教の視野に置いておられる中畑先生の証に、大いに励まされました。

天候にも恵まれ、こどもたちはボブスレーなどの野外活動を満喫したようでした。冷房完備でないと辛い人には難ありでしょうが、費用の格安さ、食事のバラエティなどから、夜須高原青少年自然の家は上等な施設だったと言えるでしょう。
甘木と大分の合同特別讃美は、稲本兄のフルートの美しい調べもあって、参加者に慰めとなったようです。そのうち、甘木も主催の任を果たせるよう祈り始めましょう。そうした前向きな祈りに主は必要な助けを起こしてくださることでしょう。

来年初めには献堂式をして諸教会をお招きしてはどうでしょうか。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」(ローマ12-15)という戒めを、諸教会との交わりにおいて実践しましょう。それはキリストの愛を、近隣の人々に証することにもなるにちがいありません。



無題 | 18:46:37 | トラックバック(0) | コメント(0)
平和の種を蒔き続けよう!

2002年8月週報より
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。                 (ピリピ書2章13節)

 私はボード宣教師に送られてきたアメリカの諸教会の礼拝テープを聞かせていただく恵みにあずかっています。それらのテープを送ってくださる教会の一つがフロリダにあるリバティーバプテスト教会です。そして最近、私が予想していた声の主がラバン・ロー牧師であることを知りました。

 なぜ私がそう予想できたかというと、ロー先生のメッセージの中にハイチやウクライナ、日本という国名が時折出てきたからです。リバティー教会はこれまでにハイチやウクライナにチームを派遣したと聞いていましたし、次が九州であったからです。
 今回甘木に来てくださった兄弟姉妹たちはあの集会で養われているキリスト者たちかと思うと近しさを感じます。そして、同じ聖書からイエス様のメッセージを語り、福音文書を配布してくださいました。

 日本人は特にこの時期、平和を祈る気持ちにさせられます。それは広島・長崎の悲惨な出来事について思い起こさせられるからにちがいありません。戦争の愚かさを記念するこの時に、日米の教会が協力して平和の種、イエス様の福音を甘木の地に蒔けたのです。意義深いことではありませんか。
 この種が芽を出して、神の愛を褒め讃える人たちが起こされるよう祈りましょう。私たちは人の罪を聖めるイエス様を伝える平和の使者です。武器は破壊しますが、イエス様の福音は永遠のいのちを与えます。
 終戦記念日を迎えても、イエス様の平和をいただくまで戦争は終わりません。神に逆らい続けるかぎり、人と人の間に本当の和睦は来ません。ただ手を合わせて祈るだけでなく、イエス様の十字架から流れくる聖き血潮によって罪を赦していただきましょう。そして、あなたも神の平和を伝える使者に加えていただきましょう。



無題 | 18:56:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
平和を作り出す一粒の種になるために

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。(ヤコブ書3章18節)

 先週、私たちはケヴィン・ヘイズ兄、娘さんのジェしか、そして日本宣教に召されているジェニファー姉をお迎えしました。語られたメッセージは、私たちが等しく持っている「時間」の活用についてでした。ヘイズ先生は福岡の教会を励ますために時間を捧げましたし、同僚の方が先生の旅費を捧げて、今回来れたそうです。

 当日は広島に原爆が投下された、悲しい記念日でした。ここ甘木にも戦争の悲惨さを語り継ごうとする人たちがいて、その人たちが、「椎の樹は残った」というミュージカルを上演してくれました。B29の爆撃を逃れて屯田の森に逃げ込んだ31名の小学生に起こった悲しい出来事を、今夢いっぱいの地元のこどもたちが演じて見せてくれたのです。
 これは良い機会ではと思い、私は彼らをこのミュージカルにお連れすることにしました。既に61年もの歳月は過ぎ去ったのですが、決して忘れてはならない事実を、日米のクリスチャンたちが共に見据えてみたいと思ったのです。劇の途中で何人かの観客がケヴィン先生たちに近づいてきて、「今アメリカは日本の最高の友達になった!」と語りかけていました。

 イエス様が語られた、「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12-24)というみことばが思い出されます。戦争の残酷さと愚かさは、この時期、生き証人たちによって語り継がれています。ますます戦火の絶えない今日、その務めを果たし続けることは日本人に課せられた重大な使命にちがいありません。しかし、投下された爆弾が日本を平和に導いたと錯覚してはなりません。

 敗戦によって荒廃した日本人のもとに、アメリカの教会はイエス・キリストの救いを伝える宣教師たちを派遣してくれました。イエス様が天からの宣教師として、いのちを与えてくださったように、アメリカから来た宣教師たちも、イエス様に献身して、日本の失われた魂のために、全霊をもって使えてくれたのです。
 終戦記念のこのとき、私たちもイエス様の一粒の種とさせていただきましょう。まもなく工事の始まる教会堂にイエス様は多くの迷える人々を招いておられるにちがいないのですから。



無題 | 17:46:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
全身全霊で感謝を表す人たち(ヤムハチとは?)

2001年週報より
主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。                      ((詩篇119篇12節)

 去る23日(木)の夕刻、ウガンダ宣教師の佐藤先生ご家族をお迎えして、私たちは幸いな集会をもちました。特に、冒頭の詩篇のみことばを歌った「ヤムハチ」という讃美歌は皆の心に残ったのではないでしょうか。
 日本では、私たちの生活は便利な品々で取り囲まれています。それらがあって当たり前と思うようになっています。一食いただける恵み、今日も家族が守られたことを感謝する素朴さを忘れてはいないでしょうか。

 私たちが当たり前と思っている生活の便利を何も持っていないウガンダの人々が、あれもこれも数え切れない神の恵みを感じ、手を打ち鳴らし、スイングしながらイエス様を褒め讃えています。

 多くのウガンダ人の視力は10、0ほどもあるそうです。見渡す限り何もさえぎる物のない生活は、彼らがはるか遠くの物を見る能力を保っているのでしょう。そこで、私たちの目や心を奪っている「生活の便利品」という魔物を一掃してみたら、神の恵みがもっとはっきり見えてくるのではないでしょうか。
 そして、「もっともっと」という物欲の虜から解放されて、「私は主に何をお返ししよう」と思い巡らす生き方に変わります。この方向転換は私たちの心から虚しさを一掃してくれるでしょう。

 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」と告白しましょう。そして今日も、主に讃美と感謝を込めて礼拝をお捧げしましょう。この真心からの礼拝だけを、私たちは主にお返しできるのですから。



無題 | 10:24:22 | トラックバック(0) | コメント(0)
幸いな旅立ち

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(第二コリント5章17節)

今朝、私たちはアメリカのスプリングフィールドにあるチェリーストリートバプテスト教会のケヴィン・ヘイズ先生と、娘さんのジェシカさんをお迎えしました。ヘイズ先生は昨年、同じ教会から派遣された宣教チームの中心メンバーでした。時間を割き、費用を捻出して、今年もイエス様を証するために帰って来てくださったのです。

特に、ここで出会ったこどもたちをなつかしみ、彼らとの再会を楽しみにしておられます。イエス様が、「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」(マタイ19-14)と語られたように、こどもたちに神様の愛を伝える特別な賜物を授かっておられます。私たちも彼らから、小さな魂をいつくしむキリストの心を学ばせていただきましょう。

これを書いている今、平野姉から、お母様の吉弘ヨソエ姉が召天されたとの知らせをいただきました。イエス様への信仰を告白されて一週間、前日には病床で共にイエス様を礼拝させていただきました。何度か病床の姉妹をお訪ねしてお伝えさせていただいた、「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14-3)というイエス様の約束のみことばのとおり、愛するご家族に見守られ、安らかにイエス様のみもとへと旅立って行かれました。

私どもが七年前、甘木に赴任して以来、故人は私たち家族を、いつもにこやかに迎えてくださいました。その当時、信仰は異にしていたにもかかわらず、礼を尽くして接待してくださったことを、なつかしく思い出します。聞かせていただいた人生の体験談はドラマのように印象的なものでした。そして、締めくくりはイエス様のみもとに帰り「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」(黙示録21-4)天国へと移されたのです。

こうした別れがさびしいものであることに変わりありませんが、クリスチャンには確かな再会の希望があります。私たちの主イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11-25)と語られ、ご自身、死に勝利し、よみがえられました。

クリスチャンたちに主イエス様は、「永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5-24)というすばらしい約束もくださっています。更に、私たちの身の周りの人たちが同じ天国の希望を持つことができるよう、イエス様を証してまいりましょう。



無題 | 19:42:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
引き寄せられて

2001年8月週報より
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。                    (ヨハネ6章44節)

 この時期には各地の花火大会の人出がニュースになります。また、北九州ではロックコンサートに8万人の若者たちが集まったそうです。人々は何の魅力(魔力?)に引き寄せられるのでしょうか。

 その雑踏に比べれば、教会の礼拝に集う人の数は極めて少ないように思えます。しかし、その人たちはこの天地万物をお造りになった神が特別に「引き寄せ」られた尊い聖なる民です。
 「いっちょ、クリスチャンにでもなってやるか」などといきがって、なれるようなものではありません。聖書は、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選んで」くださったと告げています。そして、人を介し、文書を手渡すことによって引き寄せてくださいました。なんという神の特別なあわれみでしょうか。

 またイエス様は、「狭い門からはいりなさい。」とも言われました。私たちが信仰の道に入ることができるのは、神の手に引かれているからです。しかし、実際に足を踏み出して入って行くのは私たちです。たとえ、「いのちの道」は狭くても、私たちはそこへと引かれているのです。

 私たちが丸い地球の上に立っていても転がり落ちないのは、地球が私たちを引っ張っていてくれるからです。ところが、地上で暮らすのはいやだと言って、いつも鳥のように空へ飛び上がっていたら疲れ果ててしまいます。それと同じように、あなたがイエス様のもとへと招かれていながら、それに逆らっていては魂の充足は得られません。

 クリスチャンにとって礼拝はいのちの食卓です。「いのちのパン」なるイエス様を褒め讃えること、その御名によって祈ること、そのメッセージを聴くこと、どの瞬間を取っても、それはキリストのいのちにあずかる恵みなのです。



無題 | 09:53:10 | トラックバック(0) | コメント(0)