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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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夢に向かって足並みそろえ

そこで彼らは、「さあ、再建に取りかかろう。」と言って、この良い仕事に着手した。(ネヘミヤ記2章18節)

 みことばに、「心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」(箴言15-15)とあります。皆さんの心も、喜びに踊っていますか。教会堂建築という祝福の事業に関ることのできる私たちは、本当に幸いな者たちです。

 先日、溝江建設から新会堂のミニチュアが届けられました。視覚に障害をもつ兄姉も、敷地のどの位置に、どのような建物が建つのかを触れて観ることができます。この縮小版を観ながら、色を再考してみたり、どこに十字架や看板を設置するか、花壇をどこに作るかなど、夢を膨らませてみましょう。

 このプロジェクトのために、私たちは現地で労していますが、孤軍奮闘しているわけではありません。これは主イエス様の事業であり、バイブルバプテストフェローシップの働きです。実際、敷地も建物もJBBFの名義で登記され、主イエス様の財産なのです。
 私たちバプテスト教会は、地方教会の自治を尊重します。しかし、同時に、BBFという大きな群れの一員とされている恵みを感謝しましょう。そして、進んで、BBFの共通事業に協力させていただきましょう。

 私が甘木に赴任して最初に語ったのは、ネヘミヤの城壁再建からでした。ネヘミヤのチャレンジを受けた人々は、「さあ、再建に取りかかろう。」(ネヘミヤ2-18)と言って、廃墟となっていたエルサレムの再建に着手したのです。甘木にも、とうとう、その気運が満ちたようです。

 田村宣教師が、「世界のどこにも、福音宣教が困難でない地はない。」と書いておられます。甘木周辺の人々だけが、特にイエス様に無関心なのではありません。聖書は、「神を求める人はいない。」(ローマ3-11)とさえ言っているのです。
 朝倉市誕生の年に新会堂が建てられることを、どう受け止めたらよいでしょうか。私たちは6万余の市民に、イエス様の救いを知らせる責任を負わされたのではないでしょうか。この会堂建築は、そのような大きな神の計画の中で進められているにちがいありません。



無題 | 16:53:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
「永遠のいのちのパン」とは?

2001年8月週報より
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
(ヨハネ伝6章35節)

 あなたは食品を買う時、どういう点に注意して買うようにしていますか。表示に注意を払う人たちも増えています。最近では生鮮食品についても、細かい表示が義務づけられています。

 イエス様はご自身を「いのちのパン」と表示されました。これはなんと人の心を掴む表示ではないでしょうか。日本人に対してなら「いのちの米」とおっしゃったのかもしれません。しかし、これは誇大表示と言われかねない大胆な表現でもあります。

 この表示が本当であるか嘘であるかは食べてみる他ありません。イエス・キリストについていろいろと勉強しても、信じない人にはそれがどういうお方であるかはわかりません。
 日々イエス様のみことばをいただき、イエス様の御名によって祈り、聞いたことを実践している人だけが、イエス様が「いのちのパン」であることを実感できるのです。

 ちょっとかじってみてポイと捨ててしまう人には、「いのちのパン」の味はわからないでしょう。聖書は、「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」と、継続の価値を教えています。

 人の体や心を害するものがあふれているこの時代に、永遠のいのちを養うパン、イエス・キリストこそそのお方です。イエス様を礼拝する人は「水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」とあります。
 時の来るのを祈りつつ待つ、希望に生きる信仰者でありたいものです。



無題 | 10:59:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
励まし合い、足並みをそろえて

私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(ヘブル書4章11節)

去る20日に「溝江建設」と正式に契約を取り交わし、教会堂建築がいよいよ表立って滑り出しました。この計画を導いておられる主イエス様が身近に感じられ、襟を正される思いです。5ヵ月後、私たちは完成した会堂でクリスマスを祝うことになるのです。

 その間、建築事については、専門家を信頼し、お任せするところが多いでしょう。私たちのなすべきところは、信仰の足並みをそろえて、「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はい」る(詩篇100-4)ことです。決して、信仰の落伍者を出すようなことがあってはなりません。それどころか、新しい人たちの手も引いて、一緒に入れるよう祈りましょう。

 時々、残念なことに、会堂建築が教会分裂の機会になることがあると聞きます。壁を何色にするかで、そのような悲劇に至ってしまうことがあるというのです。これは笑えない事実であり、一生懸命になるあまり、意見がぶつかることも起こりやすいのでしょう。しかし、私たちは、そのような愚かな轍を踏んではなりません。
 みことばは、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2-3)と教えています。今朝、皆で暗唱するみことばは、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル16-7)です。神様が喜んでくださるのは立派な建物ではなく、みことばに従って、互いに謙遜に仕え合う教会です。

 また、祝福が多ければ、誘惑もあります。先日、私は一通のメールを受け取りました。そのタイトルには「献金の申し出」とありました。夫の残した遺産が数億円あって、自分も癌で余命いくばくもないと言うのです。そして、自分たち夫婦は生まれ変わったクリスチャンであり、この遺産をキリストの働きに捧げたいと書かれていました。
 随所に聖書のみことばが用いられてあり、一見、信仰熱いクリスチャン婦人からの申し出とも思えます。しかし、どこがまちがっているでしょうか。この婦人が本当に生まれ変わったクリスチャンであるならば、なぜ自らが所属している教会を通して献金しないのでしょうか。なぜ、外国の実も知らぬ教会に、そのような大金を捧げようと考えるのでしょうか。
 これは、ただの詐欺なのです。聖書は、「驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」(第二コリント11-14)と警告を与えています。私たちは、そのようなだまし事には目もくれず、忠実にイエス様にお仕えする生活を続けてまいりましょう。



無題 | 20:29:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
人がしなければならない第一の仕事とは?

2001年8月週報より
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」                  (ヨハネ伝6章29節)

 一昨日、初老のご夫婦が教会を訪ね、一泊の宿を請われました。話を聞くと、仕事を求めて自転車で移動しているうちに、甘木に迷い込まれたとのことです。猛暑の中で今にも倒れそうなご様子に、シャワーをしていただき、有り合わせの食事をさしあげました。
 一息ついた頃、共に聖書を開きました。心の貧しさに気づき、「神よ、罪人の私をあわれんでください」とキリストの十字架を見上げる者だけが神の国に入ることをお伝えしました。すると、お二人は素直にイエス様への信仰を告白されました。 「ホームレスにはなりたくない。早く仕事がしたいです。」と前向きな姿勢を聞かせてくれました。ではイエス様は、人が第一にしなければいけない仕事は何だと言われたでしょうか。それはどんな状況にある人でもできることです。神がお遣わしになった救い主、イエス・キリストを信じることです。

 仕事を求めて町から町へと移動したご夫婦が、ここで最も大切な仕事を知りました。それは、私たちの救いのために休むことなく祈っていてくださるイエス様に心を向けることです。謙遜に神の恵みを祈ることです。

 ここにすべての人の生きる目的があります。失業した人でも、寝たきりの人でも、おもいっきり挫折した人でも、誰でもイエス様を信じることはできます。これが人の「生きる目的」です。
 翌朝、「空の鳥さえ養いたもう天の父よ、このお二人を今日もお守りください。」と祈った後、一冊の聖書を持たせ送り出しました。彼らがどこの空の下にあっても、イエス様と共に生きることができるよう祈り続けたいと思います。
 このような突然の来訪者を迎える時、信仰が試されます。しかし、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と招いておられるのはイエス様です。



無題 | 11:00:26 | トラックバック(0) | コメント(0)
アリの知恵から学ぶこと

2001年7月週報より
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。
(ヨハネ伝6章27節)

 小さいけれども、その知恵の故に褒められている生き物が聖書に出てきます。それは蟻です。あなたは蟻のライフスタイルを観察してみたことがありますか。彼らは食料備蓄のチャンスを決してのがしません。人間様が遅れをとって、丹精した野菜を食われてしまうことがしばしばあります。

 蟻のこの知恵を見て、私たちは何を悟るべきでしょうか。イエス様は私たちが熱心に集めるべき食物は何だと言っておられるでしょうか。
 私たちは蟻の勤勉さから学び取る必要があったとしても、神の聖さと正しさとを与えられた人間です。そして、人間は「パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことば」によって生きる者です。

 主婦の皆さんは家族の健康に配慮しながら食事を整えます。では、永遠のいのちを養う食物にどれだけ注意を払っているでしょうか。魂が健全に育つためには神のみことばを聴く必要があります。「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与える。」とあります。

 永遠のいのちにいたる食物は、イエス・キリストだけが与えることのできるものであり、教会はこれを配る所です。そして、私たちはこれを集めたり、人に分けたりします。こうして、イエス様の福音は次々と伝えられ、神の国は限りなく広がって行きます。

 蟻が甘いものに群がるように、私たちはどれだけ神との交わりを慕っているでしょうか。私たちの家庭にイエス様にいていただく必要があるとどれだけ感じているでしょうか。私たち自身の中に、家庭に社会に、世界に、永遠のいのちが躍動し、主イエス・キリストに栄光が帰されるために働く者となりましょう。



無題 | 10:59:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
人はうわべを見るが、・・・

しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」 (第一サムエル16章7節)

最近行なわれた滋賀県知事選挙で、大方の予想をくつがえして、新幹線の誘致に反対する新人候補が当選したというニュースが流れました。これは与野党共に指示する現役候補を破る快挙でした。従来の見方であれば、新幹線の駅ができれば発展が見込めるので、大いに歓迎されるはずでした。しかし、県民は更に問題の深層を見抜く力を養われてきたのでしょう。

 人々の価値観や生活の好みが変わってきたことを象徴する結果のような気がします。もはや、経済効果だけでは、人々は踊らされなくなったのでしょう。伝統や環境を大切にした、落ち着いた暮らしを選ぶ人が多くなったとかもしれません。

 神様はイスラエルの最初の王サウルを、彼の不従順の故に退け、野で羊を飼っていた牧童ダビデを次の王として選んでおられました。ダビデには、いずれ遜色のない七人の兄たちがいましたが、神は彼らではなく、末っ子のダビデを選んでおられたのです。

 今日、私たちは会堂建築の候補業者である「みぞえ住宅」とプランの打ち合わせをします。私たちが見極めるべき点は、まず、この業者を主がご自身の会堂のために選んでおられるか否かでしょう。何社かの方々が図面を提出してくださって、今日に至っています。そして、初めて教会として、みぞえ住宅と具体的な話し合いのときを持つわけです。

 みぞえ住宅は教会堂を建てる目的で設立された会社ではありません。一般のハウスメーカーです。しかし、建築用地が与えられた昨年3月頃から関わりが始まり、親身になって図面も書いてくださいました。
 私たちは共にイエス様の大事業を担う候補業者として、彼らに敬意をもって質問し、要望を伝えましょう。聖書は、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2-3)とクリスチャンの在り様を教えています。どんな場面においても、教会は世の人々に、キリストの愛と聖さを証する責任を負っています。建徳的な姿勢でこの話し合いに臨みましょう。



無題 | 18:05:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
THE 安全対策!

2001年7月週報より
しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
(ヨハネ伝6章20節)

 突然平穏な生活を襲う自己や災害はどこか遠くで起こるものではなく、今日私たち自身と家族をも巻き込む可能性のあるものです。そんな時のために、あなたはどんな備えをしていますか。そうした思いがけない動乱の中で、本当に頼りになるのは何でしょうか。

 イエス様の弟子たちがガリラヤ湖を舟で渡っていた時、彼らを猛烈な突風が襲いました。彼らの内の何人かはベテランの漁師でしたが、この時の嵐は、それまでに経験したことのないひどいものだったようです。更に、彼らを不安にしたのはイエス様が共におられないことでした。

 そんなパニックのさなかに、荒れ狂う嵐を越えてイエス様は彼らに近づいてくださいました。そして、「私だ」と彼らに呼びかけてくださったのです。彼らが最も助けを必要とした時、イエス様は彼らのそばにいて、「恐れることはない」と絶対の安全を宣言されました。

 本当に恐れなければならないのは病気や失業ではありません。そうなった時に「イエス様!」と呼ぶことを知らないことです。全くイエス様との関係が築き上げられていない状態です。
 弟子たちはイエス様を喜んで舟に迎えました。あなたはどうでしょうか。イエス様があなたと共に生活しておられますか。そのためにイエス様と語り合う時間を取っていますか。

 いきなりその時間を多く持つことはできないでしょうから、まず礼拝から始めて、徐々に増やしていきましょう。神からいただく時間は誰でも24時間ですから、何かを犠牲にしないとイエス様と交わる時間は持てないでしょう。
 こうして聖書のみことばに聴き、心を注ぎ出して祈る生活は何物にも代えられないいのちの充実を与えてくれます。



無題 | 09:50:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
老いに、これだけは備えたい!

今一度立って、主があなたがたの目の前で行なわれるこの大きなみわざを見なさい。(第一サムエル記12章16節)

2006年の歩みも半ばを過ぎ、後半戦に突入です。祈り続けてきた会堂建築への期待も現実味を帯びてきました。みことばは、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1-6)と約束してくれています。信仰の姿勢を正して、主のみわざを拝させていただきましょう。

 最近のニュースによれば、日本は高齢化率NO.1社会になったそうです。すべてのビジネスが、シニア(高齢者)をターゲットにした商品開発を試みています。認知症予防の塗り絵なども売れ筋だそうです。しかし、人生の晩年に至った人たちに、本当に必要なものは何なのでしょうか。
 聖書は、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝道者12-1)と教えています。老いへの最高の備えは神を知ることです。イエス様を信じて、罪の成算を終えておくことです。神のふところに安んじるに優る安心はありません。

 巡回バスが高齢者の方々を集めて回り、一日楽しませてくれています。教会の新会堂にも、こうした方々をたくさんお迎えしたいものです。さまざまな苦労を重ねた方々に、イエス様の救いを受け取っていただきたいです。

 人が苦労して積み上げたものを、若者たちが愚かにも灰にしてしまうような事件が多く報道されています。今ある幸せのはかなさを思わされます。イエス様が「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」の例え話(マタイ7-26)をされましたが、多くの人々の人間関係は脆弱なのです。

 復活されたイエス様は弟子たちの真ん中に立たれ、「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20-19)と語られました。今も私たちは礼拝に集い、この祝福のみことばを聴くことができます。「この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5-5)という約束を持つ私たちクリスチャンこそ、安心して生きることができるのです。



無題 | 21:16:36 | トラックバック(0) | コメント(0)