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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
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「これっぽっち」と思う必要はない

2001年7月週報より
大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。            (ヨハネ伝6章13節)

 最近、売り場面積をのばしているのが「100円ショップ」だそうです。100円でかなりの掘り出し物があるようです。あまり買い物をせずにすむ私などは、「エッ、100円で何が買えるの?」と思ってしまいがちなのですが。

 イエス様のお弟子さんたちも一人の少年が持っていた大麦のパン五つと小さい魚二匹を何の役にも建たないものと見なしました。それもそのはず、これだけでは五千人の空腹は満たせそうにありません。
 ところが、この少年の貧しいお弁当がイエス様の手に捧げられ、祝福が祈られた時、それはひもじい五千人を満腹させ、なおかつ残りのパン屑が12かごにいっぱいになったのです。このことは四つの福音書にはっきりと記されていますから、弟子たちの記憶に強く焼きついた奇跡だったのでしょう。

 私たちはイエス様に時間、能力、持ち物、祈りなどをお捧げする時、「たったこれっぽっちですが」とか、「こんなつまらないものですが」とか思うべきではありません。私たちがギュッと握りしめていたらカビが生えてしまうようなものが、イエス様の御手に置かれる時、それはきよめられ、何十倍にも増えて用いられるのです。

イエス様は金持ちの倉に山と積まれた食料品ではなく、貧しい少年が「イエス様、これ使って!」と差し出した「なけなしの弁当」こそ喜ばれたのです。
 また、「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」というイエス様のみことばは、私たちの捧げ物が尊く取り扱われていることを教えてくれます。あなたの一言の祈りを、小さな善意を、イエス様は決してお忘れになることはありません。いや、その小さいと思われる捧げ物をこそ、丁重に受け入れていてくださるのです。



無題 | 09:27:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
目的を持ったものの強さ

ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。
(第一サムエル記12章24節)

サッカーのワールドカップ大会が世界の耳目を集めています。日本に圧倒的な力の差を見せつけたブラジルチームには、サッカーでイエス様を証しようとしている幾人かのクリスチャン選手がいるということです。彼らは、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(第一コリント10-31)という教えを実践しています。サッカーの勝敗には関心はありませんが、彼らの証を通して、迷える若者たちがイエス様の救いに勝ち取られていくことを祈らずにはいられません。

彼らは物心ついて以来、ブラジルの国民的スポーツであるサッカーに打ち込んできたことでしょう。しかし、壁にぶち当たり、悩み、もがき、イエス様のみことばに触れ、魂の生まれ変わりをいただいたにちがいありません。その日以来、彼らの生きる目的はサッカーがうまくなることだけでなく、サッカーを通して、多くの人たちにイエス様を紹介することとなりました。

 イエス様は、「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5-14)というみことばを、彼らのような、優れた能力を持つクリスチャンたちだけに向けて語られたとは思いません。イエス様のみことばに忠実に従おうとする、すべての教会に語られたのです。どういう立場であっても、イエス様を証しようとすれば、並大抵でない抵抗に遭うことでしょう。それでもなお、堂々とイエス様の看板を掲げて生きている人たちについて聞くとき、私たちにも励ましのカンフル剤が注がれるような気がします。

 イエス様はまた、人に信仰深さを見せびらかすような祈りや讃美を戒めてもおられますから、どのような形でイエス様を紹介するかについては、それぞれの賜物に応じてでよいのです。クリスチャンとしての生活を頑として貫くことは、立派な証です。その生活がイエス様を指し示しています。信仰の希望に立って、堂々とイエス様を礼拝し続ければよいのです。

 さまざまな学びに勤しんで、人間性を磨くことも処世のために必要なことでしょう。しかし、イエス様が語られた、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4-14)というみことばは、人間の知恵を超えた、神の祝福を意味しています。そして、イエス様を信じるすべての人に、永遠のいのちへの水は、豊かにわき出るのです。



無題 | 20:44:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
「いのち」を得るために開く本とは?

2001年7月週報より
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。   (ヨハネ伝5章39節)

 クリスチャンであるなしにかかわらず、「バイブル」が置かれているのを見ると粛然とした気持ちになるのではないでしょうか。「粗末に扱うとやばいかなあ」とか、「了見を入れ替えなきゃいかんかなあ」とか。それだけ、聖書は世界中で権威の書として認められています。
 中には聖書を文学として鑑賞する人もいますし、歴史の文献として研究する人もいます。しかし、イスラエルの民やクリスチャンたちはいのちを与える「神のことば」として聖書を読み続けてきました。

 ところが、イエス様と対立したユダヤ教の学者たちはその熱心な探求にもかかわらず、聖書が示していた救いを受け入れようとはしませんでした。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」という預言に期待しながら、このみことばが指さしていたイエス・キリストを信じようとはしませんでした。

 手紙を受け取った人は、時候のご挨拶よりも何よりも、用件が何であるかに注目することでしょう。聖書が私たちの手に置かれているのは、罪人である私たちが神の御子イエス・キリストを信じて永遠のいのちをいただくためです。

 イエス様は2000年前、ユダヤ人たちのかたくなな心に直面して嘆かれたように、この悩める時代に向かって、「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」と招き続けておられます。あなたがイエス様のもとに行きさえすれば、そこにはすべての人の乾きをいやす「永遠のいのち」が今なお涌き続けているのです。



無題 | 10:10:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
希望に目を留める

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。                 (ヘブル書10章39節)

旧約聖書のサムエル記第一に、夫が戦死し、その知らせを聞いたしゅうとがショック死するという悲劇の場面で、男の子を出産する女性の話が出てきます。彼女は悲嘆のあまり、新しい生命の誕生には目もくれず、放心状態の中で、「栄光はイスラエルを去りました。」と口走り、生まれた子に、そのような意味の名を付けたというのです。

よく、「泣きっ面に蜂」とか、「間が悪い」とか言うように、不幸な出来事が重なることがあります。一家の大黒柱が倒れたりすれば、家族全体の生活が、たちまち一変してしまうものです。そうなると、この女性のように、「栄光は去った。」と決めつけ、放心して、へたり込んでも無理からぬようにも思えます。

しかし、このようなものの見方は正しいでしょうか。この女性に関して言えば、相次ぐ不幸の中ではありますが、無事に男の子が生まれたのです。どうして、このお母さんは、その希望を全く感じることができなかったのでしょうか。どうして、元気に産声を上げている子に注目せず、失ったものだけに心が奪われてしまったのでしょうか。

 私は彼女の口から、「栄光は去った!」という言葉を聞きたくないです。その代わりに、「希望が与えられた!」と言って、生まれた子に目を注いでほしいです。どんな状況に立ち至っても、落ち着いて見回してみれば、私たちは、いくつもの希望の芽をみつけることができるはずです。

イエス様は、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ14-18)と約束されました。また、「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(14-19)と励ましておられます。罪に勝利し、よみがえられた栄光のイエス様は、いつも私たちと共にいてくださるのです。もし、栄光が去ったりすることがあるとすれば、それは私たちの不従順の結果です。

すねて、神様に背を向けていては、光は差し込みません。聖書は、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4-8)と、私たちを促しています。私たちは主イエス様を信じ、祈り続けて、豊かな祝福を授かる教会とさせていただきましょう。



無題 | 20:54:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
死人を生かす「ことば」とは?

2001年6月週報より
まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。   (ヨハネ伝5章25節)

 「死人が聞く」という表現は多くの人にとって奇異に響くのではないでしょうか。どんな刺激にも反応しない状態が死であるはずなのに、死人が聞くことなどあり得るのだろうかと眉をひそめる方が多いのではないでしょうか。

 このみことばを語られたのは他でもないイエス様です。では、私たちはこのみことばをどう解釈できるでしょうか。
 まず、死人が聞くのは「神の子」のことばだと言われています。それはイエス・キリストの語られたみことば、聖書のメッセージです。では、それを聞く死人とは誰を指すのでしょうか。
 ここでは、それは本当の神様を知らないすべての人のことです。また、全人類のことと解釈することもできるでしょう。全世界にイエス・キリストのみことばが宣べ伝えられ、それを心を開いて聞き、宝物として受け入れる人は新しいいのちに生きるという意味です。

 この時代の人の心は病んでおり、光よりも闇を愛していると聖書は人間の罪の性質を表現しています。しかし、どんなにその罪が根深くあろうとも、イエス・キリストのみことばを真剣に聞く者は生きるのです。

 逆に言うと、どんなに教養を深め、あらゆる分野に通じた知識人であっても、イエス・キリストのみことばがその人の心にとどまっていなければ、その魂は死んだ状態のままです。
 あなたは魂を生かすいのちのみことばとしてイエス・キリストを礼拝していますか。あなたが生きるとは、あなたの口から神を褒め讃える歌が出て来ることであり、主イエス様の御名によって祈ることです。



無題 | 09:57:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
本物の感動

 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。   (Ⅰペテロ1章8,9節)

昨日から、サッカーのワールドカップが始まったようです。これを観るために、新型のテレビの売れ行きが好調だそうです。何がそれほどまでに、人々を引き付けるのでしょうか。一つには、目標に向かって、能力を出し切っている選手たちの美しさだろうと思います。

私は先日、テレビ番組の公開録画の券が当たり、楽しいときを過ごさせていただきました。特に、素人の音楽愛好家が九州交響楽団と競演するのを聴き、ディレクターにも乗せられて、思わず手が痛くなるほど拍手してしまいました。一生懸命団員募集をするトランペッター、将来は九協のコンサートマスターになるんだというヴァイオリニストの少年、今は亡き母に捧げるためにフルートを始めたという働き者のママさん、お三方とも日々の精進がしのばれて、感動ものでした。

感動の種は、こうした特別な大舞台だけにあるわけではありません。もっと身近に、いや、たった一人の場面にも感動はありうるのではないでしょうか。信仰の母として知られるハンナの「心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。」(第一サムエル1-10)とあります。
なぜ、この苦悩の状態が感動なのかと思われるかもしれません。しかし、これは神に語りかける幸いであり、感動の原点なのです。心に深い悲しみを抱えつつも、なお神にひたすら祈る姿ほど気高いものはありません。

ハンナの真実な魂の叫びは神に届き、やがて彼女は願ったとおり、男の子の母となります。そして、ハンナはその宝の息子を私物とせず、神様の御用のためにお捧げしました。「私のものは、私のもの」と言って、握り締めていたくなるのが、人間の本性ではないでしょうか。
しかし、ハンナは躊躇なく、神への約束を実行する信仰の女性でした。この信仰の決断は大いなる祝福をもって報われたのです。神にお捧げした長男サムエルは、やがて国を導く預言者となりましたし、ハンナ夫婦には更にこどもたちが増し加えられました。

今、私たちには「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」(ヘブル12-2)様と共に歩む感動があります。それは大衆が歓喜するようなものではありません。いや、むしろ人々から中傷されることがあるかもしれません。しかし、キリストによる魂の救いこそが、永遠に続く無比の礎なのです。



無題 | 18:35:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
聴かなければならない「ことば」とは?

(2001年6月週報より)
その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」                     (ヨハネ伝5章14節)

 38年も病が癒されることだけを願いながら生きてきた男に、イエス様が目を止めてくださり、彼は病床から解放されました。冒頭に記されているのは、その男に向かって語られたイエス様のみことばです。
 もし、イエス様がただの医者であったなら、体が健やかになったことを共に喜ぶだけで十分だったことでしょう。しかし、イエス様は病癒えたこの男に、「もう罪を犯してはなりません。」と戒められました。

 イエス様が来られたのは身体的な束縛を取り除くことではなく、すべての不幸の根元にある罪の解決のためだったのです。だからこの男に、目に見える状況がよくなったことだけを喜ぶのではなく、神に対する罪をしっかりと告白し、悔い改めることを求めたのです。
 次の「そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」は、何かくぎを刺されるみことばです。おどされているようでもあり、ギョッとします。しかし、これもまた私たちがしっかりと聞かなければならないみことばではないでしょうか。

 イエス様が与えてくださる救いは無代価であり、一方的な恵みです。それがために罪との決別が中途半端になる恐れがあります。そんな私たちの弱さにしっかりとくぎを刺してくれるのがこのみことばです。
 私たちがイエス様を主と告白しながら、その生活の中で中心に迎えることを忘れているとしたら、その罪に気づかせるために何かもっと悪い事が起こるかもしれないことを覚えておく必要があるでしょう。これは私たちを悪い誘惑から守る神の愛の表れにちがいありません。



無題 | 10:36:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
災害は何を教えてくれるのか?

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。
(哀歌3章22、23節)

スマトラ沖地震の津波の惨劇の記憶も覚めやらぬ間に、インドネシアが再び震災に見舞われました。犠牲となられた方々の魂は神の御手に委ねる他ありませんが、心身に深い傷を負い、生活の基盤を失われた方々の支えと回復を、切に祈らずにはおれません。救出の現場で懸命に働いておられる方々も、私たちの祈りの支援を必要としています。

自然災害のもたらす被害は甚大ですが、とかく自己満足に陥りがちな私たちに、優しい同情心を呼び覚ます機会をくれます。平穏無事であることは、当たり前ではないことに気づかされます。屋根の下に安心して眠れること、不足なく食べれること、毎日風呂に入れること、どれ一つとっても、感謝せずにはおれない、神の恵みなのです。

ヨブという人は相次ぐ惨事に見舞われたとき、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1-21)と言って、神をほめたたえる信仰の心を失いませんでした。どれほど用心し、善行を努めているつもりでも、災難に遭うこともありますし、病気にもなります。ひとりひとりが選べることは、その出来事を、どう受け止めるかだけです。
ヨブはと言えば、「このようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」(23)とあります。なぜ、ヨブは、そのような態度を取れたのでしょうか。彼は、神の愛を信じ切っていたにちがいありません。神のなさることに、悪いことなどあるはずがないと確信していたのでしょう。
どんなに恵まれていても、そのことに気づけなければ、文句が先になります。とかく、あれも足りない、これも気に入らないと、神に背を向けがちです。このような不信仰な人が、何か良いことを期待できるでしょうか。

聖書は、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(ヘブル11-6)と言い切っています。イエス様が私たちの罪を代わりに負ってくださったので、私たちは赦されていることを、何にも増して、まず感謝しましょう。人の喝采を受けるような業績は何一つ挙げることができなくても、日々のありふれた日常を感謝できる信仰の人をこそ、神は喜んでくださるのです。



無題 | 14:36:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
悪の縛りから解放するもの

2001年6月週報より

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。            (ガラテヤ書5章16節)

 一昨日、大阪でまた惨劇が起こってしまいました。関係者の皆様に神の深い慰めがあらんことをお祈り申し上げます。
 今、せめて私たちが気づかなければならない現実は何でしょうか。それは人間が罪人であるという事実です。そして、神が提供しておられる救いを必要としているということです。
 聖書は人間の姿を、「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」と表現しています。これは神を無視しても、人間が努力さえすればこの世を理想の世界にできるという思い上がりを戒めることばではないでしょうか。

 「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。」という問いかけに、「あなたのことばに従ってそれを守ることです。」と聖書は答えています。更に、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」とも表現しています。
 この罪の問題と苦闘したのが宣教者パウロでしょう。彼は罪の束縛の中にある現実に幾度も幻滅しましたが、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」とキリスト信仰の勝利に歓喜しました。

 この世に理想郷を求めても無理ですが、イエス・キリストと共に歩むところに天国は確実に始まります。私たちの罪の性質が変えられて、神を喜ぶ者とされます。礼拝に集い合い、救い主イエス様を褒め讃えるところに天国はあります。
 「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」と神は招いておられます。



無題 | 10:09:41 | トラックバック(0) | コメント(0)