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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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「よくなりたいか?」という問いかけ

2006年6月週報より
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」             (ヨハネ伝5章6節)

 最近、ハンセン氏病歴を持つ方々の訴えが認められ、政府はその長年の隔離政策を公式に謝罪することになりました。家族とのつながりさえ断たれ、人間としての基本的な人権を剥奪されて一生のほとんどを過ごされた方々の苦悩はいかばかりだったことでしょう。遅きに失したとは言え、関係者の皆様の名誉が回復されたことは本当によかったと思います。

 2000年前、ベテスダという池のほとりにいろいろな病人を収容する場所があり、そこに38年間床に伏している男がいました。彼の苦しみはハンセン氏病患者が味わった苦渋に似ているのではと想像します。それは病気そのものの苦痛以上に、誰にも顧みられない、果ては神にさえ見捨てられたと思わざるを得ないような、社会的な偏見から来るものだったのでしょう。

 しかし、感謝なことに、イエス様が彼に目を止めてくださいました。そして、彼の悲惨を理解してくださったのです。ベテスダの池にさえ入れたら直ると信じてそのチャンスを待ち続けたのに、とうとう誰からも手助けをしてもらえなかった彼に、イエス様は「よくなりたいか」と尋ねられました。
 この問いかけは何を意味していたのでしょうか。それはどんなに暗闇に閉じこめられていても、まだ光に向かって歩みだそうとする意志があるかを確かめようとすることばだったにちがいありません。

 今、イエス様のみことばを聞いている私たちに、イエス様は「よくなりたいか」と問うておられます。どれだけ真剣にイエス様にお頼りする気があるのかを見きわめようとしておられます。
 彼の中に切なる信仰を見て取った時、イエス様は「床を取り上げて歩け」と権威をもって命じられ、彼の状況は一変しました。イエス様への謙遜な信仰があるならば、今なおイエス様はこのような奇跡をすることさえできる神なのです。



無題 | 09:41:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
はやり文化 vs 本物

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。              (第一ヨハネ5章5節)

私は小説や映画にはおよそ関心がないのですが、「ダ・ヴィンチ・コード」という世界的なベストセラー小説があるそうです。それがこの度、映画化され、大変な波紋を巻き起こしているようです。その理由は、その著者が、イエス・キリスト様を聖書の伝えるところに反した内容で描いているためのようです。
既に、多くのキリスト教会がこの映画を強く批難し、上映会社の製品不買運動にまで発展しているそうです。起こっている社会現象そのものは、先ごろのマホメットの風刺画をめぐる、イスラム教徒の反応に類似しているようにも見えます。

私はといえば、今後とも、この小説を読むつもりも、映画に関心を持つこともないでしょう。なぜなら、私は聖書が伝えてくれた救い主イエス様を信じて、罪から救われたのであって、それだけで十分だからです。そして、同じくイエス様を神様と信頼して、「死からいのちに移った」(Ⅰヨハネ3-14)多くのクリスチャンたちを知っています。そして、「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」(Ⅰヨハネ4-15)というみことばに立って、人々をどうにかして、キリストの永遠のいのちに導きたいのです。

確か「ヒッピー」などという言葉がはやっていた頃、「イエス・キリストスーパースター」というミュージカルが物議をかもし出したことがありました。それなりに民衆の人気を博したでしょうが、それは一時の流行でしかなかったのではないでしょうか。キリスト信仰が教える不滅の真理と流行文化とは、おおよそ対極にあるものです。

hayaruこの類の流行文化は、残念ながら人身を迷いの道に誘い続けてきたし、これからも繰り返し起こってくることでしょう。しかし、イエス様は、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24-35)と語られたのです。「愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく」(Ⅰコリント15-58)を合言葉に、互いに励まし合いましょう。



無題 | 13:58:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
ピンチの時、どうしますか?

2001年5月週報より
イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。 (ヨハネ伝4章50節)

 昨今、ときおり耳にするのが親によって傷つけられたり、果ては殺されたりしたこどもたちに関する悲しいニュースです。しかし、基本的には今なお、親は四六時中こどものことを心配し、彼らのために全力を尽くそうとしていると信じます。

 重い内臓疾患をもつわが子のために、財産をはたいて臓器移植を試みる親たちもいます。
2000年前、ある王室の役人の息子が死にかけるほどの病を患っていました。彼の父親はその深刻な場面でどうしたでしょうか。
 彼は高い身分の人であり、知識人であったようですから、息子を有名な医者のもとへもしばしば連れていったことでしょう。しかし、こどもの病気が急に悪化することは決して珍しいことではありません。たちまち打つ手がないような状態に陥ってしまいました。

 その時、この父親はイエス様が近くに来ておられることを知りました。彼はイエス様のなさった驚くべき業について聞き、信仰をもつようになっていたようです。このピンチの場面で、彼は迷わずイエス様に願う道を選びました。

 私たちはどうでしょうか。こどもの問題をイエス様のところへ持ち出しているでしょうか。人間関係のもつれをイエス様に訴えているでしょうか。仕事上の悩みにイエス様のご介入を願っているでしょうか。
 また、彼はイエス様のみことばの約束をいただいた時、素直に従う従順な信仰の持ち主でした。自分の浅知恵に固執せず、イエス様のみことばの権威に基づいて行動したのです。
 死にかけていた彼の息子は、イエス様が「直っています」と言われたその瞬間に癒されました。彼のイエス様への信仰が、彼の絶望的な状況にどんでん返しの回復を呼び込んだのです。



無題 | 09:38:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
母の日に寄せて

麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。             (箴言31章30節)

先日、農協から電話がありました。「市民農園に空きが出ましたが、どうしますか。」という問い合わせでした。いつ申し込んだのかを忘れるほどでしたが、「これは神様の備えだ!」と思い、借りることにしました。
甘木の教会に赴任した当初、ものすごい勢いで成長する雑草に閉口したことがあります。親戚の応援もあって、きれいに清掃された後、草が出ないように、野菜を作ってみることにしました。そのうち、台所から出る生ごみを、EM菌を使って堆肥にすることまで始めました。いつの間にか、花や野菜作りは、私たちの楽しみになっていました。
ところが今回、教会が移転する方向に動き出す中で、私の趣味もこれきりかと思うと、一抹の寂しさを感じていました。しかし、神様はそんなことにいたるまで、ちゃんと配慮していてくださったのです。イエス様が語られた、「あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(マタイ6-32)というみことばを思い出し、畑に立って、空を仰いで苦笑しました。

さて、この五月の第二日曜日は「母の日」として定着した感がありますが、それがバプテスト教会から始まったことをご存知でしょうか。信仰厚いお母さんに育てられた娘さんが、天に召された母に感謝して、教会の婦人たちにカーネーションをプレゼントしたことが、この祝日のきっかけとなったそうです。一人のご婦人がイエス様への真実な信仰に生きることは、家族をはじめ、なんと多くの周囲にいる人たちに幸いをもたらすことでしょうか。

我が子を見ていても、お母さんなしには夜も日も明けません。父親はせめて、円満な母子環境を整えてやるくらいです。また、良い働きを続ける教会には、必ずと言っていいほど、強力な婦人会があります。よく引用される、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ43-4)というみことばは、特に神様がご婦人たちに語っておられるかのようです。
私たちの教会にも、イエス様に真実な信仰でお仕えする姉妹たちがいることを感謝します。少しづつ身体の弱さを感じておられるようですが、ますます「世の光」を証し続けられますよう、男性軍、感謝を込めてお祈り申し上げます。



無題 | 16:02:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
母の日に思う

2001年週報より
あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。
(箴言23章25節)

 若葉香るこの五月、最も美しい季節に「母の日」が設けられていることは何とふさわしいことでしょう。「お母さん、お母さんと、そっと呼んでみる。大人になっても、遠く離れても、あなたはいつも青い空」という歌の一節は万人に共通な感情ではないでしょうか。

 聖書はこの母を喜ばせ、楽しませることを命じています。また、年老いた母をさげすんではならないとも戒めています。私たちをこの世に生み出してくださり、陰に日向に養育してくださった母に感謝することは神を礼拝することの一部です。

 また、「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」と聖書は告げています。とかく、外見のカッコよさに目が向きがちですが、イエス様への真実な信仰に生きる女性をこそ神は高く評価しておられます。実は、このような忠実なクリスチャン女性たちが世界を動かしてきたと言っても過言ではないでしょう。
 パウロと共に宣教した若き伝道者テモテは、彼の祖母ロイスと母ユニケの純粋な信仰から強い影響を受けました。彼女たちは子孫にキリスト信仰を譲り渡すことを教育の目標としたにちがいありません。きっと、教会学校の教師として、多くのこどもたちにも深く関わったことでしょう。

 聖書はまた、女性を「弱い器」と表現し、男性にいたわるように教えています。教会の姉妹たちが「水のほとりに植わった樹」のように、生き生きとしたクリスチャン生活を歩むためには、兄弟たちの思いやりと助けが必要です。
 この記念日は子が母に感謝する日であると同時に、男性が女性をいたわり、その労をねぎらう日でもあります。キリストの教会を建て上げるために多くの祈りと奉仕を捧げておられる姉妹たちに、神の特別な愛顧が豊かにあらんことを。



無題 | 09:45:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
STOP&GO

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
(ガラテヤ書5章22、23節)

しばらく様子見状態だった会堂建築でしたが、ここにきて、また新しい展開に進みそうです。昨年取得した建築用地に課税の通知も届いていますので、あまりのんびり構えているわけにもいきません。そこで、昨日、あるハウスメーカーの展示場を訪ねてみました。
私たちの現状の予算で、せめて礼拝堂だけでもできるかどうかを尋ねるためでした。ところが、そのメーカーによれば、牧師家族も住めるような建物が可能かもしれないという気がしてきたのです。でも、イエス様の復活を疑ったトマスのような警戒心が、まだ私の心のどこかにあることも正直なところです。

「信仰によって歩む」とか、「聖霊に導かれて進む」というのは、もちろん単純に何でも信じるということではありません。祈りつつ、考えつつ、信頼できる方々のアドバイスをいただきつつ、「これが神の導きだ!」と判断して進むことです。ですから、表面的には何も動いていないように見える時が長く続くこともあります。
その間に、さまざまな考えが頭に浮かんでは、消えて行きます。そうした厳しい精査に耐えた道こそが、安心して「神のみこころ」と受け止めるに値するのではないでしょうか。建築用地が与えられて一年、皆さんが朝に晩に、会堂建築のため主の導きを祈り続けてきましたが、いよいよ私たちの指揮官イエス様は、私たちに、次の場面を見せてくださるにちがいありません。

もう一つ書き記しておかなければならないことは、私の実兄の病のことです。私の故郷、千葉に住む兄とは、遠く離れていることもあり、多くの言葉を交わすわけではありませんが、お互いをいたわり合う兄弟の情が熱く通っています。勤めをしながら、受け継いだ田畑を守ってきた兄ですが、避けられない病が起こったのでしょう。
良い家族に囲まれていますので、時間はかかるかもしれませんが、必ず回復すると信じて祈り続けます。兄姉にもお祈りに覚えていただき、感謝します。また、兄は教会の週報の熱心な読者の一人ですので、ここに、「兄貴、がんばるんだよ!」とも書き加えさせていただきます。
私たちの体は「土の器」と表現されているように、やがて砕ける時がきます。だからこそ今、その土の器の中に、イエス様の永遠のいのちが必要なのです。



無題 | 14:36:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
「永遠のいのち」を養う食物とは?

2001年5月週報より
イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。       (ヨハネ伝4章34節)

 自然界の生き物の生態を捕らえたドキュメンタリーの中で、その動物が最も生き生きと描かれているのは餌を手に入れる場面ではないでしょうか。あらゆる注意を払い、全力で目標物に襲いかかる瞬間です。

 また、人間社会にあっても、「食うためには働かにゃあ」などと言われたりするように、労働は食物の獲得と深く結びついています。ある医者はこの食物を「かむ」という行為を「道を求める修業者のような」崇高な営みと表現しています。テレビを見ながら遊び半分で食べ、生活習慣病を引き起こしている時代には傾聴に値することばではないでしょうか。

 さて、イエス様は冒頭のみことばにおいて、食べることをご自身の「使命を果たす」ことと言い替えておられます。つまり、神の国の教えを説き、人に仕え、罪人の救いのために自らのいのちを棄てることこそイエス様の食物だったのです。

 腹いっぱいで着飾ってさえいれば満足するのなら動物と大差ありません。しかし、人間には神とのコミュニケーションによってしか満たされない霊の世界があります。神のみことばを聞き、そのご名を褒め讃え、ご意志に従わなければ得られない魂の平安があります。

 あなたを満足させる食物は何ですか。肉の好きな人、魚党の人、菜食主義者、人それぞれの好みがあるでしょう。しかし、永遠のいのちを養う食物はイエス・キリストのみことばに従う以外にありません。

 教会はまもなく特別伝道集会を開こうとしています。それは救い主を多くの人たちにご紹介するためです。これは教会の食物です。一回一回の礼拝を忠実にお捧げし続けることは私たちクリスチャンの食物です。
 イエス様のように、私に与えられた神の使命を行うことが「私の食物」と言える者に育てていただきましょう。



無題 | 09:18:42 | トラックバック(0) | コメント(0)