FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

03 | 2006/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

本物の愛は奇跡を起こす

食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。                (ルカ伝15章23、24節)

戦後、シベリヤに抑留された従軍兵の息子さんの帰りを待って、舞鶴の港に立ち続けたお母さんのことが「岸壁の母」という歌になりました。昨日のニュースによると、北朝鮮に拉致されためぐみさんの救出活動を続ける横田早紀江さんが、ブッシュ大統領に面会し、問題解決への協力を要請したそうです。私は連日、拉致被害者家族の報道を聞く度に、この方々こそ現代の「岸壁の母」だと思わされます。

早紀江さんは、めぐみさんが突然いなくなってしまうという、悪夢のような出来事の中で、聖書の神様を知った方です。この事件はただの悲劇で終わるものではないと信じ続けてきました。事実、あの一人のお母さんの生き様は、堕落した考えや出来事の多いこの時代に、どれほど、いのちの尊さを教え続けていることでしょうか。

我が子に愛を注ぐということは当たり前のことです。動物すべてに本能として備わっています。しかし、どんなに絶望的に見えるような状況の中でも、愛を注ぎ続けるということは当たり前なことではありません。ちょっとした障害物にぶつかると、あきらめてしまうような弱い者です。

イエス様が語られた放蕩息子のたとえ話を私たちはよく知っています。そこには、親を悲しませて家出した上、財産を浪費し尽くし、ボロボロになって帰って来た息子を、最高の愛で迎える父が描かれています。この例えは、罪の泥沼でもがく私たちを救おうとする神の愛を表しています。

すべての人が、その人を命がけで愛してくれる人が一人でもいたら、強く生きることができるはずです。聖書は、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」(1ヨハネ3:16)と伝えています。この神の愛を信じる者は、本当の「いのち」を持つのです。

私たちも身近な隣人を支える愛の人になりたいものです。倒す者ではなく、人が立ち上がるお手伝いをさせていただきましょう。私たち自身が、イエス様の命がけの愛によって救われたのですから。



無題 | 15:13:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
THE求人!

2001年4月週報より
「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」                       (ヨハネ伝4章24節)

 不景気で失業者も増加しているそうですし、新卒者が情熱を傾けられるような魅力ある求人も少ないようです。その結果、フリーターと称して「いつか来るチャンス」に備えている若者たちが増えていると聞きます。
 また、金銭的な利益につながらなくても、確かな価値を感じる仕事にヴォランティアする人たちのこともよく耳にするようになりました。老若男女を問わず、人は心の満たされる仕事を求めます。

 2000年前、イエス様はサマリヤの女に対面した時、「父はこのような人々を礼拝者として求めておられる」と語られました。有名企業からの求人どころではなく、この世界を創造し、歴史を導かれる偉大なお方が求人広告を出し続けておられるというのです。

 その具体的な仕事はイエス様のご名代として生きることです。今イエス様はこの世におられませんが、クリスチャンたちの中に住んでおられます。そして、私たちを用いて神の教会を建て上げておられます。

 また聖書は、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とも語っています。日曜日の朝、礼拝を捧げるために教会に足を運ぼうとする時、いくつもの妨げが起こってきます。それらはどれもこれも大切なことに思えます。その中で毅然として礼拝に向かえる人は神の特別な恩寵を味わった者と言えるでしょう。

 よく礼拝は「聖なる義務」と表現されます。しかし、私は「喜びの献身」だと思います。神の恵みを感謝し、その日を待ちわびて集い行くのが礼拝ではないでしょうか。それはイエス様の愛に打たれた者たちが進んで捧げる愛の応答だからです。



無題 | 09:58:51 | トラックバック(0) | コメント(0)
とこしえのいのち

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。             (ヨハネ伝14章6節)
昨日、昨年末に一家の長を亡くされたご一家を訪ねさせていただきました。時々、週報をお届けしたりして、イエス様を紹介させていただいたご家族です。しばらく足が遠のいていた中で、ご逝去の報を聞きましたので、お詫びの思いもあり、お尋ねした次第です。
奥様はご主人が倒れた時、そばにおられたそうですが、その命を救うことができなかったということで、心に悔いる思いがあるようです。私は少しばかりご家庭の様子を垣間見させていただいた者として、ご主人が伝えたかった最後の言葉は、「ありがとう!」であったにちがいないです、と話させていただきました。まだ若いこどもたちの養育を頼んで去り行く夫が妻に遺す言葉は、心からの感謝以外にないのではないでしょうか。
遺されたご家族のため、神のご加護を祈らせていただき、そのお宅を失礼しました。家族であっても、教会の交わりであっても、この地上での関わりには、いつか終わりがきます。去り行く側と、見送る側に分かれます。そのような時に備えて、わたしたちは今、お互いに対して、何をなしておくべきでしょうか。

 まず、この世での別離はあっても、天国で再会する希望を共通のものとできるよう祈り、救い主を紹介し続けましょう。イエス様は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14-6)と教えてくださいました。天国の門は、「イエス・キリストを信じる者だけに開かれている」と聖書はくりかえしているからです。
先主日に老ご夫妻が実に立派な信仰告白をされ、バプテスマを授かりました。二人のクリスチャンの娘さんがたは、どれほど安堵されたことでしょうか。キリストの十字架の尊い血潮により罪赦され、永遠のいのちを授かった者にとって、やがて訪れる死は隣室へ移るようなものです。それは、直ちに神のふところへ迎えられることです。

 教会の兄姉にも少しづつ体の衰えが目立ち始めています。しかし、それに反比例して、イエス様への信仰は日々大きくなっています。私たちは既に、朽ちることのない「とこしえのいのち」をいただいているのですから。



無題 | 15:06:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
THE 希望!

2001年イースター週報より

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。           (ルカ伝24章5、6節)

 キリスト教会の祝日のうちでイースター(復活祭)は、特に「希望の日」と呼ぶことができるでしょう。長い冬の地中でじっと春の到来を待っていた植物がいっせいに新芽を吹き出すこの季節に、今年も死を打ち破ってよみがえられたイエス様を褒め讃えましょう。イエス様の復活は私たちキリスト教徒の勝利を宣言しているからです。

 イエス・キリストがその聖い生き方によって愛の模範を示された偉人であっただけなら、2000年後の私たちにどれほどの影響力を持ちえたでしょうか。臆病な弟子たちが命がけで伝えたメッセージは何だったのでしょうか。

 ペテロはその説教の中で、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」と力を込めて語りました。イエス様を「知らない」と三度も裏切ったペテロをこれほど大胆にしたのは、彼の眼前に現れた復活のイエス様ご自身です。

 イエス様の弟子たちを捕縛し、その教えを滅ぼし去ろうとしていたパウロを史上最大のキリスト宣教者としたのは何でしょうか。彼の前に立ちはだかり、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」と語りかけた復活のイエス様です。

 ペテロやパウロの証言によって2000年後、この日本に生きる私たちも罪を滅ぼし、死に完全に勝利したイエス様を信じることができるのです。パウロはこの復活信仰を欠いたなら、キリスト信仰のいっさいが「空っぽ」だと言い切りました。
 
このイースターに私たちクリスチャンの希望をもう一度確認しましょう。私たちの体もいつか土に帰る時が来ます。しかし、魂は直ちに神の懐へ帰って行きます。そして、やがてキリストが再び来られる日、私たちにキリストの栄光の体が与えられます。この希望は決して失望に終わることのない「希望」です。



無題 | 10:50:26 | トラックバック(0) | コメント(0)
老夫妻に与えられた最高の祝福!

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、(マタイ伝28章19節)

先日、バプテスマを前にした妙子姉を病院にお訪ねしました。いろいろな話をしたのですが、妙子さんは、「チューリップが咲いたんですよ。」とおっしゃいました。50年も住み慣れた大分から甘木に越して来られ、庭に植えたチューリップの球根から芽が出て、パックリと赤い花弁を開いたというのです。
その妙子姉は、「私は罪深い者です、イエス様。」と救い主への信仰を言い表しました。庭に咲いたチューリップのように、娘さんの初子姉妹によって蒔かれた福音の種が芽生えて、今日バプテスマを受けようとしているのです。イエス様だけが与えることのできる、朽ちない永遠のいのちへの誕生です。

その数日前には、ご主人の勇兄のイエス様への信仰も確認できました。勇さんは別府に作った洋風のお墓の話をしてくれました。今度はクリスチャンになったので、十字架を立てるか、みことばを彫りたいとの願いも伝えてくれました。
でも、私は兄に、「天に召される前に、この地でイエス様にお仕えすることが、まだまだたくさんありますよ。」と申しました。バプテスマは終着点ではなく、主にお仕えする生活の始まりです。主が天に向かえてくださるまで、精いっぱいイエス様のために生きるのです。

イエス様のよみがえりを記念するイースターに、バプテスマを受ける真菜ご夫妻、本当におめでとうございます!そして、教会もイエス様の命令を遂行できて、本当に祝福です。甘木教会には確かにイエス様が生きて働いておられます。

2000年前、弟子たちに向かって、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。「(マタイ28-20)と約束されたように、イエス様は今もなお、私たちの直中に立っていてくださいます。そして、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20-21)と励まし続けていてくださるのです。



無題 | 19:32:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
いのちをもたらした真実の愛

(2002年3月週報より)

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。     (第二コリント5章21節)

 私たちは次の主日を特にキリストの死からの復活を記念する日として祝います。この時期は厳しい冬が過ぎ去り、新しいいのちが大地から芽吹くこともあり、キリスト者の希望を告白するのに最もふさわしい季節です。

 しかし、イースターの前一週間、イエス様がどれほどの御苦しみを味わってくださったかを、しっかりと記憶にとどめましょう。私たちに復活の希望が与えられたのは、罪なき神の御子イエス様が、私たちの罪の清算を完結してくださったからです。

 聖書は克明にイエス様の十字架の場面を描き出しています。イエス様に目をかけられながら、銀貨30枚で師を売り飛ばしたユダという男の中に何が起こったのでしょうか。
 また、イエス様と友に死ぬ覚悟もあると豪語しながら、人前で「イエスなど知らない!」と言い放ってしまったペテロの味わった苦さはどれほどだったことでしょうか。

 イエス様の後について行った人々は皆、十字架の場面を目の当たりにして、厳粛な答えを求められました。その一人はイエス様を十字架に架けたローマ兵の隊長です。彼は非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と告白しました。

 イエス様が荒れ狂う嵐に向かって、「黙れ、静まれ!」と命じられた時、弟子たちは神の権威に驚嘆し、イエス様を礼拝しました。しかし、十字架を背負わされ、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたイエス様に彼らはつまづいたのです。

 では、あなたはイエス様の十字架の死を何と告白しますか。この問いが、この一週間、あなたに問われています。



無題 | 11:47:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
棕櫚(しゅろ)の日曜日(palm Sunday)

もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。   (マタイ伝21章3節)

桜前線も北上し、豪雪に苦しんだ地方にも近づきつつあるようです。半分雪に埋まっていた樹いっぱいに、ピンクの花弁が咲き誇るのを見たら、人々は一冬の苦闘を忘れてしまうのでしょう。凡庸な気候の中で暮らす人々には味わえない、深い春の感動があるにちがいありません。このことは、神様が公平なお方であることを示しています。
ここ福岡だけでも、久留米ではつつじ祭り、飯塚ではチューリップフェアと、花を愛でるイベントが目白押しです。そんな季節、私たちクリスチャンはイースター前の一週間を、私たちの罪のために黙して十字架へと進んで行かれた主イエス様を思いつつ過ごします。そして、この日を特に「棕櫚(しゅろ)の日曜日(palm Sunday)」と呼びます。
それは、イエス様がエルサレムへ入られるのを人々が棕櫚の葉を振りながら迎えたからです。今、月桂樹の葉と共に、棕櫚の葉は勝利の象徴とされています。それは、棕櫚の葉でエルサレムへ迎えられたイエス様が、そこで私たち罪人を救う勝利の御業を成就してくださったからです。
また、その時、イエス様は、ろばの子に乗って入場されました。そのろばの子に何の特別な値打ちがあったでしょうか。何も取り立てて言うような価値のあるわけがありません。しかし、イエス様はそんなろばの子を、あえてご指名してくださったのです。よろよろしながらも、救い主をお乗せしたろばの子の喜びはいかばかりだったでしょうか。
私たちも、あのろばの子のように、特に有能な者であったわけではありません。どちらかと言えば、影の薄い者だったかもしれません。

しかし、イエス様は見出してくださったのです。そして、生まれ変わらせてくださり、尊いイエス様の御用に用いていてくださるのです。
イエス様は今日、私たちひとりひとりに、「あなたが入用なのです。」と声をかけていてくださいます。あなたは、どうお応えしますか。もちろん、喜んで、「主よ、どうぞ、私を用いてください。」と応えさせていただきましょう。



無題 | 15:42:37 | トラックバック(0) | コメント(0)
心の向きを変えるチャンス!

(2001年4月週報より)
そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。                 (使徒3章19節)

 世界中のキリスト教徒は今日から始まる一週間を「受難週」と呼んで記念します。それは二千年前、人類の罪が神の御子を十字架刑に処した事実を心に刻むためです。

 私たちは数え切れない事件の報道を見聞きしています。それと同じように、聖書は二千年前の出来事を今もありありと告げています。神のご介入を待ち続けていたはずの人々が、神の差し伸べた救いの御手をどのように振り払ったかについてもです。イエス様は病の人を癒し、生きる目的を説き、涌き上がるいのちを彼らに注いだのではなかったでしょうか。それなのに、なぜ彼らは「この人を除け」、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けることができたのでしょうか。

 また、その場に立ち合った人々の口からあれほど辛らつな「あざけり」や「ののしり」が、どうしてイエス様に投げられたのでしょうか。彼らの忘恩と残酷は私たちの内にはあり得ないものでしょうか。
 いや、この時代の私たちも彼らと同罪です。決してイエス様に関わろうとはしません。あざけりはしなくても冷淡です。そんな私たちに、聖書は心の「向きを変える」ように説得しています。

 あなたの生活に、家庭に、行く末に関わろうとしておられるイエス様を閉め出すことはもったいないことです。イエス様を信じた人たちの喜びの証を聞いてください。彼らが罪の赦しを宣言され、揺るがない平安の中で歌った感謝の歌は感動に満ちています。

 「光は闇の中に輝いている」と聖書はイエス様を紹介しています。この混迷した時代にあってもイエス・キリストは変わらず、世を照らし続ける燈台なのです。そして、この光に導かれる者たちの味わう祝福こそ永遠のいのちです。



無題 | 11:48:37 | トラックバック(0) | コメント(0)
さあ、新たに出発だ!

神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、十弦の琴をもってあなたに、ほめ歌を歌います。           (詩篇144篇9節)

当地自慢の桜が満開となるこの日、私たちは2006年度最初の礼拝をお捧げします。旧年度、主イエス様は礼拝を通して私たちを教え、慰め、励まし続けてくださいました。今朝「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2-20)と暗唱するように、イエス様は常に私たちの中心にいてくださいました。

偽メール問題で大失態を演じた民主党は指導部が総退陣して出直すそうです。正直に非を認めて謝罪し、やり直そうとすることは良いことでしょう。罪がきよめられてこそ、新しいいのちは芽生えるからです。
またこの春、親しんできた甘木市は二つの町と合併して朝倉市としてスタートしました。どのような地域に発展していくかが楽しみです。私たちも当地に立てられた教会として、主イエス様の付託に対して、ますます責任を果たしてまいりましょう。

昨年度、新会堂の建築のため祈り続けてきましたが、まだ具体的な着手には至っていません。しかし、主は確実に私たちを導いておられます。神のみわざは棚ぼた式に期待すべきものではないことを、主はまず私たちに教えようとしておられるのでしょう。

親が管理能力のないこどもに大金を任せることがあるでしょうか。無責任なしもべに店舗を開いてやる経営者がいるでしょうか。私たちはどれだけ、イエス様の教会に責任を負う覚悟があるでしょうか。そのことを主は問うておられるにちがいありません。
私たちは主の御前に真実な信仰をもって歩み、謙遜にお仕えさせていただきましょう。身にそぐわないような衣装を着たら、衣装負けしてかえって恥ずかしいです。

この一年、主イエス様は、「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。」(詩篇100篇4節)と私たちを礼拝に招き続けてくださいます。そこは祝福に満ちています。大いに期待して、集い続けましょう。



無題 | 15:01:10 | トラックバック(0) | コメント(0)