FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

02 | 2006/03 | 04
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

強い味方は何処から来るか?

2001年4月週報より

私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。            (詩篇121篇1、2節)

 今日から四月、桜も満開、希望に満ちた出発の季節です。地が温まると何もかも芽吹いてきます。そんな春の躍動に触れようと、思わず土いじりをしてしまいました。枯れていた庭も美しい春の花でにぎわい始めます。これらの生命の躍動はどこから来るのでしょうか。それもまた「天地を造られた主」から来るのです。

 人は悩みの日に雄大な山に目を上げ、何かの答を期待するものです。しかし、その荘厳な自然を創造された神を知るに至る者こそ幸いです。そして、その神を「わが父よ!」とお呼びできるのがクリスチャンたちです。
 イエス様はひとり山に退かれて、「父よ!」と祈ることを常とされました。そして、その弟子たちにもそのように祈ることを教えてくださいました。イエス様を信じる者たちだけが、この天地の創造者に「天のお父様」と呼びかけて、胸の悩みをお話しできるのです。

 世界の各地で地震が頻発しています。その恐怖の体験者たちは思わず、「助けて!」と叫んだことでしょう。しかし、神のこどもとされていて、「父よ!」と祈り得る者は幸いです。この自然現象が示しているように、この世の営みは崩れ去る時があります。だから、聖書は「今は恵みの時、今は救いの日」と呼びかけているのです。

 あなたが既にイエス様を信じておられるなら、あなたを神の愛から引き離すものはありません。そして、天地の造り主があなたの味方であるならば、何を恐れる必要があるでしょうか。イエス・キリストと共に生きることはこのように、ゆるがない人生の土台を持つことです。
 春は旅立ちの季節、イエス様に従って歩み始めることこそ最も祝福された人生の旅立ちです。



無題 | 10:22:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
法律を超越する愛

律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。 (ガラテヤ書2章16節後半)

PSE法(電気用品安全法)が運用直前に、多くの反対行動によって、大幅な修正をすることになったようです。私たちは法律で保証されている製品を安全に使いたいと思います。しかし、危険の伴うかもしれない旧式な品物への愛着もあります。食べ物の嗜好などでも、健康によいかどうかだけで規制できるものではありません。

教育基本法の改正も論議されています。「国を愛する心を養う」と言えば、基本法に盛り込まれてもよいような気がします。しかし、日の丸を負って、「天皇陛下万歳!」と叫びながら進軍を続けた日本の不幸な歴史を忘れてはなりません。私たちは国を愛する前に、あらゆる民族の創造者なる唯一の神様を愛します。
私は日本を愛していますし、日本人であることを感謝しています。年齢と共に和食を好むようになっていますし、日本の芸術などに価値を感じるようになってきました。しかし、イエス・キリストを信じ、聖書のみことばに従って生きることこそが、神の目にかなった生き方であると信じています。

これからしばらく、桜をめでながら、パッと日ごろのストレスを解消するのが多くの日本人の楽しみです。そんな中で、私たちは桜、つつじ、チューリップを次々と咲かせてくださる神様をほめたたえます。イエス様を信じ、罪赦されて桜を見上げれば、神の愛が心に沁みるのです。

いかに法律を作って悪を取り締まろうとしても、法律によって悪を撲滅することはできません。聖書が、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世6-5)と述べているように、人間の罪は根深いのです。

しかし、イエス様は十字架を負って、この人間の罪の問題を解決してくださいました。これは神の愛であり、恵みの救いです。人の業績によってではなく、キリスト信仰によってのみ、すべての人は新しく生まれ変わることができるのです。



無題 | 18:15:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
大きなふところに抱かれて生きる

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
(詩篇139篇1、2節)

 「春」で何を連想するかたずねてみると、「野球」と答える人が多いようです。選抜高校野球やプロ野球の開幕を楽しみにしているのでしょう。
 優秀な選手はコーチの指導するトレーニングを受けます。バッティングやピッチングの技術はもちろんですが、心理カウンセラーの心のトレーニングも受けるそうです。いかに勝負の瞬間に全エネルギーをしゅうちゅうするかを訓練するわけです。
 どのようにするかというと、自分が理想とするフォームでボールを的確に叩く瞬間を心に描くそうです。そして、このイメージが脳裏にある時に、その選手は最高のパワーを発揮できるのでしょう。

 しかし、私たちクリスチャンは心に描くのではありません。現実に私に目を注いでおられる神を意識して生きる者です。この世界をお創りになった偉大な神が、このようなちっぽけな私に愛の眼差しをいつも注いでいてくださることを知り、そのふところの中で安心するのです。
 相手を打ちまかす強い自分を鼓舞するのではなく、清く力に満ちた神の助けを祈るのです。罪深い私をも愛し、いのちさえ惜しまずに与えてくださった救い主イエス・キリストに目を留めて生きるのです。

 どれだけ神のみこころに自分を合わせることができるかが祝福の秘訣です。雲の向こうにはいつも太陽が輝いています。罪を悔い改めてイエス様に従うならば、愛の神は私たちを無限に祝福してくださいます。
 キリスト者の祈りは私たちの私欲を神に押しつけることではありません。私たち自身をイエス様のみこころと一つにしていく課程なのです。



無題 | 09:39:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
The卒業式 The旅立ち式

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ書2章20節)

 まだまだ肌寒さの残るこの季節は卒業式シーズンでもあります。先日も小学校を卒業するこどもたちの将来への夢を聞く機会がありました。塾通いを続けていた男児は私立中学に合格し、「医者になって、多くの人たちを助けたい」と書いていましたし、毎日ソフトボールの練習をしていた生徒たちは、「プロ野球選手になって活躍したい」と書いていました。内心の不安もあるはずですが、中学への期待と希望を言葉にしているこどもたちに応援の拍手を贈りました。

 教会に出入りしたこどもたちの中にも卒業生になった子たちもいます。悪の誘惑の多い時代、教会が彼らのために託されている務めがあります。避けられたり、無視されたり、反発されたりしますが、彼らのためにも教会はいつも祈り、門を開いて待つものでありたいものです。

 卒業は同時に、新たな旅立ちでもあります。英語ではその点に強調が置かれるようで、「出発式(commencement)」という言葉が使われます。一つの区切りの上に立って、次のステップへ踏み出して行く時ということでしょう。

クリスチャンたちがイエス様への信仰を告白した瞬間は、まさに人生の新たな出発式と言えるでしょう。神を知らず、虚しくさまよっていた者を、イエス様が救いの道へと招いてくださったのです。パウロはその経験を、「キリストと共に死んだ。」と表現しました。それはまた、キリストのいのちに生きる、新たな人生の始まりでもあります。

神様に背を向けた、罪の生活を卒業できる人は幸いです。これは自分の努力でできることではありません。イエス様に信頼する信仰の心は神様のプレゼントです。私たちはただ、感謝をもっていただくのみです。
そして、イエス様を信じて、クリスチャンとして生活を始める人たちに、教会は卒業式を執り行います。それがバプテスマ式です。高齢に達してからではありますが、真菜兄姉も、この恵みにあずかる準備をしています。
それは教会にとって、最も祝福された日となることでしょう。今もなお、主イエス様が滅びの中にある魂を、永遠のいのちに生まれ代わらせておられる事実を、ありありと観ることができるからです。



無題 | 17:49:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
真の希望を見据えている人の幸い

そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
(ヘブル書6章11節)

 枯れ葉色の草木に新芽が吹き出してくる様子は「私たちの希望」を想起させてくれます。日曜の朝、教会に集い礼拝をお捧げする私たちの救い主イエス様が与えてくださった希望です。それはキリストのみが与えうるいのちの希望です。
目的があいまいでは充実した今を生きることはできません。希望を感じられないからです。一方、希望をしっかり見据えている人は一心不乱です。雑念にもてあそばれることがありません。

 日曜日を「主の日」と呼びます。それは私のものではなく、イエス様のものだという意味です。イエス様の十字架の愛によって生かされた私が、その愛に感謝してお仕えさせていただく日だという告白です。
 「主の日」、いや礼拝は一日がかりではないのですから「主の時」と言った方がいいかもしれません。これを大切に主にお捧げする時、私たちの生活にけじめがつきます。一週間に大きな期待を持つことができるのです。

 神はイエス様の礼拝者たちを豊かに祝福してくださいます。神の富は無尽蔵であり、その恵みは限りないからです。主は、「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」とあなたに呼びかけておられます。
 イエス様を礼拝する者の心に何を満たしてくださるのでしょうか。単なる気分の高揚でしょうか。おごそかな雰囲気でしょうか。それはキリストのいのち、聖霊の満たしです。
 私たちが礼拝で確認するキリストの望みこそが、人生の荒波に耐える「確かな錨」なのです。



無題 | 10:01:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
問題だらけでも「ゆとり」とは?

キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。(ガラテヤ書1章4節)

次々にスポーツの話題には事欠きません。今度の感動ものはパラリンピックでしょう。日本代表の中には、46歳でフォームを改造して金メダルをめざす車椅子スキーヤーがいるそうです。あくなき挑戦を続けることが、彼らの生活を充実させているのでしょう。
選手たちと言っても、皆生まれながらであれ、事故によってであれ、体に深刻な不自由を抱えた方々です。希望を絶たれ、闇の中でもがいた末、新たな挑戦を見つけたにちがいありません。障害者アスリートたちの限界に挑む姿勢は、どん底に転落することがあっても、その瞬間から新たな可能性が開けていることを教えてくれます。

一方、不幸な事件も起こり続けています。我が子のことを心配するあまり、よその子を危めてしまったり、不登校の中学生が追い詰められて家に放火してしまったりです。おそらく、これらは氷山の一角でしょう。鬱積する悩みに押しつぶされそうな人たちも大勢いるのです。
詩篇の作者は、「私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。」(4-1)と証しています。神様を見上げることが、先の見えない困窮の中でも、彼の心に「ゆとり」を与えたのです。人には、この「神のみことばを聴く」ゆとりが、どんな事態に立ち至ることがあっても必要です。

神の前に静まることによって、直面している状況を高い視点から見定めることができます。今こそ、あなたの人生に光が射し込もうとしていることに気づくべきです。イエス様があなたのそばに立って、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5-31; 32)と語りかけておられるからです。

 イエス様は、罪の鎖に束縛されている私たちを解放してくださいます。私もイエス様によって魂の自由をいただきました。イエス様こそ、信じる人を永遠の祝福に導いてくださる、神がお遣わしになった救い主なのです。



無題 | 15:26:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
「豊かないのち」に通じる門とは?

わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。
   (ヨハネ伝10章9節)

 「お師匠さんの門を叩く」とか、「入門が許される」という場合、芸事なり、武道なりの志しがあるかどうかを見きわめることを意味します。
 冒頭のみことばで、イエス様はご自身を神の国への入り口、門にたとえておられます。別の箇所では「いのちに至る門」という表現もなさいました。では、イエス様は何の志しを確認するお方なのでしょうか。
 それはすべての人の告白です。イエス様がどのようなお方であると告白するかです。あなたはイエス様を三大聖人の一人と見ますか。社会改革者と見なしますか。それとも、あなたの罪を代わりに負いたもうた神のひとり子、救い主と信じますか。このことが門で問われています。

 すべての人はこの地上に生きる間に、イエス・キリストをいのちに導く唯一の門として信頼することができます。その人は「豊かないのちを得る」とイエス様は約束なさいました。
 門のそばまで行っても、入らずに引き返してしまう人も多いのです。これはきわめて残念であり、その重大な結果を恐れなければなりません。聖書は天国の祝福と共に、神に追放された者たちの永遠の滅びについても詳述しているからです。

 一方、イエス様を信じる人たちに約束されている「豊かないのち」とはどのようなものでしょうか。それは一般的に考えられている幸せとはちがいます。逆に、物質的な祝福を失ったとしても、なお輝きを増す魂の豊かさです。イエス・キリストに仕える者だけが味わう平安と喜びです。
 救われたクリスチャンたちも苦闘します。病も経験すれば、人に裏切られることもあるでしょう。しかし、イエス様は、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」と宣言されました。この約束に「豊かないのち」の希望がかかっています。



無題 | 10:06:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
人生のリセット

それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
(コロサイ書2章13、14節)
最近、野党の議員が偽のメールを持ち出して、与党を攻撃しようとするという、愚かしい出来事が国会の場で演じられてしまいました。結果的には攻撃しようとした本人が国会から追放されるやもしれない状態となっています。重要な案件の山積する国会の場で、貴重な時間が空費されたことに、多くの人が怒りを感じているのではないでしょうか。
どのような分野でも、リーダーが誤った方向に暴走することのないように、苦言を呈する人たちが必要です。しかし、その苦言は揚げ足取りであってはならないでしょう。良い方向に進むための、建設的な意見であるべきにちがいありません。
国会の場にまで送り出される人は、特別な正義感を身に着けているはずです。幾多の試練を経る中で、人一倍の倫理観を磨かれてきているものと察します。しかし、どこまでいっても人は未熟であり、大失敗をしかねないのが現実です。

聖書はそうした人間の姿を、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。」(ローマ3-10)と言い切っています。更に、「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」(3-12)とも断定しています。人間は誰もが、神の御前には五十歩百歩の罪人なのです。
先日、息子さんを水の事故でなくされたというお母さんにお会いしました。どれほど自分を責めたことでしょうか。どれほど息子さんに詫びたことでしょうか。人間はどんなに注意しているつもりでも、取り返しのつかないような失敗をすることがあります。

神は罪に苦しむ人間の姿をあわれみ、救い主イエス様をお遣わしくださいました。私たち自身は愚かな過ちの数々を拭い去ることはできませんが、イエス様が代わりに十字架の苦しみを負って、私たちの罪の清算をしてくださったのです。ここに、確かな罪からの救いがあります。
もう、一人で苦しみ続ける必要はありません。救い主イエス様に信頼すれば救われます。そして、クリスチャンとされた私たちは救い主をほめたたえて生きる魂の生まれ変わりをいただき、新しい生き方を歩み出すのです。



無題 | 15:37:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
見えないこと・見えること

イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」      (ヨハネ伝9章41節)

 数年前、実際には目が見える人が、視覚障害者になりすましていたということが報道されたことがあります。どうして眼科医の証明を得ることができたのでしょうか。医学的な検査の上では見えるはずであっても、本人があくまで見えないと主張すればそれを認めざるを得なかったのでしょう。

 冒頭のイエス様のみことばを理解するためには、人間には物を識別する眼と、神を見る霊の目とがあることを知らなければなりません。イエス様と対立した当時の宗教家たちは、生まれながら眼がみえなかった男を無知蒙昧な者として軽蔑していました。
 しかし、イエス様は彼らに向かって、彼らこそ真理に目を閉ざした盲人であると宣言されたのです。人に生きる道を説く教師を自認していた彼らの憤慨ぶりはどれほどだったことでしょうか。

 一方、視覚障害者として生まれ、物乞いをするしか生活の手だてを持たなかった男はどうだったでしょうか。彼は、「主よ、私はあなたを信じます。」とイエス様が世に来たりたもうたキリストであることを認め、心からの礼拝をお捧げしたのです。イエス様は彼の眼も癒してくださいましたが、それ以上に神を正しく知る霊の目を開いてくださったのです。

 あなたに視力が与えられているなら、それを当たり前のこととしないで、神に感謝しましょう。そして、その視力が神のみことばを読み、イエス様にお仕えするために与えられていることに気づきましょう。
 もし、肉体の視力を欠く人であるなら、そのことを介して神のみわざが現れるためにイエス様を信じ、神を褒め讃え続けましょう。イエス様を礼拝し続ける時、その人の霊の目はあざやかに神のみこころを見るようになります。



無題 | 13:37:58 | トラックバック(0) | コメント(0)