彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
(ヨハネ伝9章25節)
教会でキリストを信じたクリスチャンたちが、イエス・キリストを信じてどのような変化が起こったかを話すことを「証(あかし)」と言います。これではわかりにくいので「信仰体験談」と呼ぶこともあります。
いずれにせよ、体験者の話は聞く人の心を動かします。それは体験は哲学ではなく、事実起こったことだからです。キリスト教の歴史はイエス様と出会った人たちの証言の連鎖とも言えるでしょう。
まず、イエス様の直接の弟子たちがそうでした。彼らは見たことを語り、聞いたことばを書き記しました。新約聖書は彼らの証言集です。「神のことばは生きていて、力があり」とは、それが見聞きした事実をストレートに伝えているからです。
冒頭のみことばもイエス様の癒しのみわざを体験した男の説得力ある証言です。彼はこの段階ではまだイエス様がどのようなお方であるかわかっていませんでした。しかし、生まれながらに見えなかった彼の目が、イエス様に関わっていただくことによって見えるようになったという事実は、どんな反対者をもってしてももみ消すことのできないものでした。
私たちの信仰の土台に彼のようなイエス様との個人的な出会いがあるでしょうか。イエス様を信じて確かに生まれ変わったと、どんな場面でも怯まずに証言できる基盤があるでしょうか。
私たちが日曜の朝、イエス様を礼拝し、その御名を讃美するのはなぜでしょうか。イエス様が私の罪のために十字架上で苦しんでくださり、私が赦されるために祈ってくださったからです。そして、イエス様を私の心に迎えた時、私は新しいいのちをいただきました。だから、イエス様を私の神、救い主として礼拝するのです。