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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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神様からの金メダル

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。       (第二テモテ1章7節)

いまわしい事件や姑息なスキャンダルのニュースが多い中で、冬季オリンピックでの荒川静香選手の氷上での洗練されたパフォーマンスは、世界中の人々に感動を与えました。神様から授かったスケーターとしての天分を、たゆまぬ努力によって最高の輝きにまで磨き上げたことは、多くの若者たちの良き手本となることでしょう。

 神はすべての人に、すばらしい可能性を与えておられます。荒川選手は世界が注目する中で、その訓練の成果を表現しました。しかし、同じような舞台である必要はないのです。私たちもまた毎日、与えられた場に立って、神様の注目の中で生きていることに気づくべきです。そして、神様に最高の評価点をつけていただけるよう励みましょう。
 荒川選手の演技の特徴は、並外れた技術を誇示するというよりも、自分らしさの完成にあるようです。自分の長所・短所を知り尽くし、良いところを最高度にまで引き上げた美と言えるでしょう。
 オリンピックまでの時間は限られていました。目的を達成するためには、一時も無駄にできません。彼女にスケートという、ふさわしいチャンスを与えたご両親も立派な役回りを演じ切ったにちがいありません。彼女から埋もれていた才能のすべてを引き出し切ったコーチたちの働きも金メダルに値するものと言えるでしょう。

 聖書は、「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(ピリピ2-10)と教えています。私たちにはクリスチャンとしての「良い行い」があります。それは世の人々の脚光を浴びるものではないでしょう。しかし、イエス様にお仕えすることは、私たちが召された道なのです。

 人をうらやむ必要は全くありません。神が備えてくださった、クリスチャンとしての良い行いを貫きましょう。イエス様はやがて、忠実にお仕えする者たちに栄光の金メダルをかけてくださるのです。
 真の神をほめたたえる人が極めて少ないことは、神への無礼ではないでしょうか。神を悲しませては申し訳ありません。永遠のいのちをいただいた私たち教会こそ、来る日も来る日もイエス様の救いを感謝し続けましょう。



無題 | 19:53:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
誰もが必要な知識とは?

神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。                      (ヨハネ伝9章31節)

 聖書に、「主を恐れることは知識の初めである。」とあります。逆に言うと、どんなに博学なように見えても、この世界が神によって創られ、今もなお歴史は神によって導かれていることを知らないなら、その人は第一の知識を欠いているということです。

 冒頭のみことばは生まれながらに目が見えず、教育を受ける機会もなく、物乞いをしていた男の口から出た言葉です。しかも、それは当時の教養人たち、宗教指導者たちに向かって発せられたのです。
 何と格調高い真理でしょうか。彼は人の何十分の一しか聖書のみことばを聞けなかったにちがいありません。しかし、わずかな聖書の知識が彼の中に確実に根を張っていったのです。

 筋肉が増していくことは必要ですが、そのためには骨格もたくましく育っていなければなりません。土台のない所に家を建ててはいけません。この世界をお創りになり、今日も私たちをはぐくんでいてくださる「天のお父様」を礼拝することは人間に与えられた第一の義務です。

 神に反逆する者である私たち罪人の身代わりに、神の御子イエス様が十字架にかかってくださったことを信じることは祝福の礎です。この信仰以上に神をお喜ばせする美徳を見い出すことはできません。このイエス様に最大の感謝と、最高の讃美をお捧げするのが礼拝です。
 この男は社会的に見れば恵まれない落ちこぼれであったかもしれませんが、彼の信仰の土台は磐石でした。今も、どの時代にも、イエス・キリストを通して神を知ることが他のいかなるものにも勝り、価値あることに変わりありません。



無題 | 10:13:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
究極のストレス対処法

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
(マタイ伝5章4節)

人間のみならず、生命あるものは皆、ストレスを感じます。耐え切れないほどの大風が吹けば、頑丈な木の枝でさえ折れてしまいます。極端に気温が下がれば、枯れる植物も、凍死する動物もあります。これらは、ストレスが限度を超えた結果、死にまで至らしめる例です。

私たち人間は、これら自然界からのストレスに、ある程度の対策を施す知恵を授かっています。寒冷ストレスに対しては暖房で対処し、大風に対しては、室内に避難したりします。しかし、それもまた、限度を超えれば、平穏な生活に悲惨な破壊をもたらします。
よく「仕事のストレスで病気になった。」などと聞くことがありますが、失業もまた深刻なストレスとなります。人との関わりでストレスにつぶされる人も多くありますが、孤独の苦悩は更に深いものです。こうしてみると、ストレスをほどよく感じて、快適に暮らすのは容易なことではなさそうです。

そのように、人が常に幸福であることは難しいのですが、聖書に学ぶ時、それは可能です。箴言には、「わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただく。」(8-35)とあります。また逆に、「わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」(8-36)とも記されています。
人が神様を求める時、ストレスはその人を真剣な祈りへ導きます。そして、イエス様の十字架の愛を知った人は、物事の見方が一変し、「患難さえも喜んでいます。」(ローマ5-3)とさえ言えるようになるのです。
聖書は更に、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」(第一テモテ6-6)と教えています。これは与えられた情況を愚痴るのでなく、感謝して受け止めることの幸いを説いているのでしょう。

今の時代、人はさまざまなストレスにさらされています。また、その量もしばしば限度を超えがちです。そんな状況の中で満ち足りて生きるためには、神によって、まずその人の罪の赦しが宣言されなければなりません。
真の神が、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」(イザヤ41-10)と約束しておられることを覚えましょう。どのような窮地に立つことがあっても、この約束は、私たちに安んじる心をくださるのです。



無題 | 14:31:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
誰かに、ご挨拶を忘れてませんか

(2002年週報より)
ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。 (ヘブル書3章7、8節)

 子育てをしながら願うことの一つは、気持ちよく挨拶のできる子になってほしいということではないでしょうか。起きて来るなり食事に手を伸ばそうとする3歳の息子に、顔を見て「おはようございます。」と朝の挨拶をするようにしつけています。
 ところが、寝ぼけていることもあって、なかなか素直に挨拶ができません。促せば促すほど、心をかたくなにしているようです。こちらがジレて、その場を離れると、しばらくしてその気になるようです。
 
きっと、天の父なる神様も私たちの素直な挨拶を待っておられるのでしょう。そちらにはお尻を向けたまま、自分の世界に没頭している人間の姿を聖書は「罪人」と呼んでいます。これが無作法の根っこです。神様はこの頑固な姿勢を変えるように求めておられます。
 私たちが朝目覚めるのは神様が揺り動かして「おはよう!」とご挨拶くださるからではないでしょうか。冷気に触れる時、「元気でね」と語りかけていてくださるような気がします。聖書を開けば、私たちを愛するイエス様のみことばがあふれ出てきます。

 それに応えて、私たちは感謝を捧げているでしょうか。いつも天で私たちのために祈っていてくださるイエス様に礼拝の時間を聖別しているでしょうか。キリストのからだなる教会をどれだけ尊重しているでしょうか。
 私たちを憎む者に挨拶をすることはむずかしいことです。しかし、イエス様は私たち罪人を救うために命を棄ててくださったのです。このお方に私たちは心からのご挨拶、礼拝をお捧げしようではありませんか。



無題 | 09:25:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
平和をもたらすもの

いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。
(第一ペテロ3章10,11節)

冬のオリンピックが始まりましたが、デンマーク選手団に厳重な警備が払われたそうです。イスラムの教祖ムハンマドを風刺した漫画がデンマークの新聞に掲載され、それがイスラム教徒の怒りを引き起こした結果、何らかのテロを警戒してのようです。
小泉首相が靖国に参拝した後、中国や韓国の若者たちが半日の暴動に及んだのは昨年のことでした。同じイスラム教徒の中でも、対立する宗派が報復の連鎖をくりかえしています。このように、宗教が紛争の原因となっている事例が目立っています。
かつては大多数の人たちが宗教は平和に役立つものとして尊重していたと思います。しかし、最近では対立を生み出すものとして、特定な宗教に関ることを警戒する傾向があるように見えます。このような状況の中で、教会は世に向かって、どのように証を続けたらよいでしょうか。

 先週、私たちはイエス様の弟子たちが湖の上で大嵐に襲われ、「おぼれてしまう!」と叫び出した場面から聞きました。弟子たちの心は嵐のものすごさに奪われ、イエス様が舟に同乗しておられることを忘れてしまっていたのです。狼狽している彼らに向かってイエス様は、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」(ルカ8-25)と問われました。
 もし、私たちがイエス様を忘れて、宗教紛争について考え続けるなら、堂々巡りして、いやになってしまうでしょう。私たちは宗教の研究家ではありません。それぞれの宗教のどの教えが、あるいは、どのような解釈が破壊行為におよばせるのか判りません。
私たちは、あの目を開かれた人がイエス様について証した時、「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(ヨハネ9-25)と、自分の身に起こった事実を語ったことを覚えましょう。イエス様は私たちを罪の縄目から解放して、物事を正しく見ることができるようにしてくださいました。この救いの事実の上に、私たちの信仰は立っているのです。
 イエス様が罪人であった私たちのために、いのちを投げ打ってくださったように、私たちも隣人を愛し続ける、イエス様の弟子とさせていただきましょう。



無題 | 17:20:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
人を説得する話しとは?

彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
(ヨハネ伝9章25節)

 教会でキリストを信じたクリスチャンたちが、イエス・キリストを信じてどのような変化が起こったかを話すことを「証(あかし)」と言います。これではわかりにくいので「信仰体験談」と呼ぶこともあります。
 いずれにせよ、体験者の話は聞く人の心を動かします。それは体験は哲学ではなく、事実起こったことだからです。キリスト教の歴史はイエス様と出会った人たちの証言の連鎖とも言えるでしょう。
 まず、イエス様の直接の弟子たちがそうでした。彼らは見たことを語り、聞いたことばを書き記しました。新約聖書は彼らの証言集です。「神のことばは生きていて、力があり」とは、それが見聞きした事実をストレートに伝えているからです。

 冒頭のみことばもイエス様の癒しのみわざを体験した男の説得力ある証言です。彼はこの段階ではまだイエス様がどのようなお方であるかわかっていませんでした。しかし、生まれながらに見えなかった彼の目が、イエス様に関わっていただくことによって見えるようになったという事実は、どんな反対者をもってしてももみ消すことのできないものでした。

 私たちの信仰の土台に彼のようなイエス様との個人的な出会いがあるでしょうか。イエス様を信じて確かに生まれ変わったと、どんな場面でも怯まずに証言できる基盤があるでしょうか。
 私たちが日曜の朝、イエス様を礼拝し、その御名を讃美するのはなぜでしょうか。イエス様が私の罪のために十字架上で苦しんでくださり、私が赦されるために祈ってくださったからです。そして、イエス様を私の心に迎えた時、私は新しいいのちをいただきました。だから、イエス様を私の神、救い主として礼拝するのです。



無題 | 10:56:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
健全な人とは?

肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。 (第一テモテ4章8節)

まもなく冬季オリンピックが開かれようとしています。長野で私たちを感動させてくれたスピードスケートの清水選手は一つ一つの筋肉の状態を把握しており、それらと会話ができるほどだそうです。そこまで、自分の体を知り尽くしているということでしょう。
 また、こうした一流のスポーツ選手たちの多くが、強健な精神力を持っていることも事実です。その結果、「健全な肉体にこそ、健全な精神は宿る。」と信じている方々も多数あります。ですから、こどもたちの教育にスポーツは盛んに取り入れられています。

 しかし、体が病や障害に侵されても、精神は健全でありうることを納得させてくれるのが、オリンピックの後開かれるパラリンピックの選手たちです。そればかりでなく、寝たきりの状態でさえ絵や文章を通して、高い精神力を発揮している方々も多くあります。このことからも、紋切り型に健全さを定義することはできません。

 聖書は肉体の鍛錬以上に有益なものとして、敬虔を上げています。敬虔とは読んで字のごとく、神を敬うことであり、神の御前に慎むことです。つまり、それは神への信仰の訓練を指しています。
 更に聖書は、「主を恐れることは知識の初め」(箴言1章7節)と教え、みことばを蓄えることや、祈りの実践の重要さを説いています。昨今報道されている多くの事件は、この敬虔の欠如の結果ではないでしょうか。膨れ上がった知識の山に、「神を恐れる」心が欠けていたら、その人はどこへ向かって突っ走って行くのでしょうか。
 イエス様は私たちに神様と共に生きる道を教えてくださいました。迷い込みやすい私たちに、まっすぐな信仰の道を備えてくださったのです。真の神に仕える道には、永遠の祝福が約束されています。
 悪い誘惑の多い世にあって、イエス様に心の真ん中に坐していただき、いのちの道を歩んでまいりましょう。



無題 | 15:50:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
マイナスをプラスに変えるもの

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。          (ヨハネ伝9章3節)

 何か困ったことが起こるとつい口を突いて出る言葉が「どうして!」です。現在起こっている不幸の原因を過去の何かと結びつけようとする姿勢です。確かにはっきりとした原因があって起こってくる病気や不幸もあります。食生活の乱れや不摂生であれば、それを改善することにより健康を回復できます。
また、お父さんの不在が家庭不和の原因であれば、家族の団らんを努めることによって結束が強められるでしょう。ムダ使いをなくすことによって家計も好転できます。

 しかし、はっきりとした原因を特定できないものも多くあります。たとえば、なぜ神戸の人たちをあの震災は襲ったのでしょうか。テロの犠牲者たちにそうなる落ち度が何かあったのでしょうか。何かの病気や障害を負って生まれてくる人がいるのはなぜでしょうか。
 このような場合に私たちはイエス様の冒頭のみことばを思い起こすべきです。その不幸が礎となって、すばらしい未来が開かれていく、残骸の中から愛が芽吹いていくことに期待すべきです。

 私たちが過去の成算にばかりエネルギーを使ってはもったいないです。イエス様の十字架を見上げましょう。私たちの罪も失敗も、神の御子が身代わりに負ってくださったのです。私たちの過去はもはや赦されているのです。
 その後に何が起こったでしょうか。イエス様は死を打ち破ってよみがえられたのです。私たちはここに希望を持っています。どんなに問題がこみいっていて、お先真っ暗なように見えても、イエス様は「神のわざが現れる」と語られたのです。

 キリスト信仰に生きる人にはいつも期待があります。次の瞬間に神様が何をなしてくださるかを心待ちにします。そして、そのわざを実現するために、私たちは神に協力して全力で働くのです。



無題 | 09:50:37 | トラックバック(0) | コメント(0)