FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

12 | 2006/01 | 02
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

心の高慢は倒れに先立つ

主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。
(箴言15章3節)

昨年、時代の寵児のようにもてはやされた青年企業家が、想定外であったかどうか、その地位から転落したようです。私たちは、「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16-18)という聖書の教えを思い起こします。彼の言葉のように、たとえ、人の心が金で買えたとしても、神は厳正に私たちの心を見張っておられることを覚えたいものです。
一度手に入れたものを失うことは痛いでしょうが、彼が、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119-71)と言える日が来てほしいと願います。神によって付与された能力を、悪知恵として使っては申し訳ありません。神の栄えと、人の幸福のために用いるべきです。

 私たちの主イエス様は、「「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4-34)と語られました。ひたすら、託された使命のために生きられたのです。ご自身の身を挺して、滅び行く魂を救うため労されました。
 中国の若者たちが尊敬するのは圧倒的に先生だそうですが、日本の若者のヒーローはスポーツ選手か芸能人だそうです。彼らの多くはイエス・キリストを知ろうとはしません。いや、むしろ故意に避けているかのようです。

 古い讃美歌は今も、「この人を見よ。この人にぞ、こよなき愛は表れたり。」とイエス様を指しています。そして、「この人こそ、人となりたる、生ける神なれ。」と告げています。
 聖書は、「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10-11)と証しています。教会も今の世に向かって、イエス・キリストを指し示してまいりましょう。



無題 | 15:16:26 | トラックバック(0) | コメント(0)
光のこどもとして生きる

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
(箴言3章5節)

(2002年1月週報より)
 お正月に「科学の見る夢」といったようなラジオ番組があり、遺伝子操作による不老長寿の可能性が話題になっていました。入れ歯や義足に始まり、心臓ペースメーカーにいたるまで、人工臓器の進歩は人の長寿に大いに貢献しました。これからは遺伝子の配列まで変えて不老長寿を手に入れようという試みです。

 イエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」と語られました。これが神が人に与えてくださる「永遠のいのち」です。
 神様に背を向けた所で行われる人間の研究や努力にはいのちがありません。たとえ、それがきらびやかに見えても、人の喝采を集めても、神の祝福はいただけません。

 私たちはイエス様のことばを信じましょう。そして、毎日そのみことばを心に蓄えましょう。それは私たちを罪の誘惑から守ってくれます。魂に神の恵みがみなぎってきます。
 ロボット技術も進み、私たちの生活の中に入り込んでくる日も近いようです。感情を表し、個性を持つロボットが開発されています。しかし、人はその熱心さで祝福の源である神様を知ろうとはしません。

 私たちはイエス様のみことばを忠実に守って歩みましょう。心を尽くして、イエス様の御名により祈りましょう。私たちの人生が華やかである必要はないのです。ひたすらイエス様を礼拝し、光のこどもらしく生きるだけでいいのです。

 私たちの主イエス様は父なる神に栄光を帰し、そのみこころに従い通したのです。そして、私たちの罪のために十字架にかかり、私たちがいのちをいただく道を開いてくださったのです。永遠のいのちは、このイエス・キリストだけが与えるものなのです。



無題 | 10:03:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
望みを持つことの力

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(ローマ書15章13節)

 久しくなかったような豪雪に見舞われて、苦闘しておられる地方の方々のご苦労を思い、心より神の助けをお祈り申し上げます。地球温暖化が懸念され、そのための対策が考慮されている中での、この大寒波です。自然は人間の予測と知恵を超えて、過酷さを増しているように見えます。
幸いにも私たちは数日の暖かな日々を過ごすことができました。そして、「春は遠くない!」と感じました。人々を困らせているあの大雪も、やがて溶け去って、ふきのとうが顔を出す春が来るのです。

冒頭のみことばは神様を「望みの神」と紹介しています。このことを信じる人は幸いです。落胆することはあっても、倒れることはありません。必ず立ち上がります。
1月17日には阪神大震災を記念して、追悼の祈りが捧げられました。あちこちに火の手が上がり、町が廃墟となった11年前を誰もが忘れることはできません。しかし、あの焦土に新芽が芽生え、立派に育ち、神戸は復興を遂げたのです。
震災で家族を失った少年が、今青年となって、大津波で親を失ったこどもたちを励ますヴォランティアをしておられる様子が報じられていました。突然一人ぼっちになってしまった少年の淋しさは想像を絶します。しかし、今青年となった彼の声を聞いて、望みの神が彼を励まし、育ててくださったのだと思い、感動を禁じ得ませんでした。
彼は何事もなく、温かい家族の愛に包まれて育ち得たはずです。その環境は急変しました。受け入れがたい環境の中で苦悶しながら、あの青年の人を思いやる優しさは育まれたのでしょう。

ぬくぬくとした、申し分のない環境だけが幸せなのではありません。病気をしたり、愛する人をなくしたりすることもあります。環境がどう変わっても、神に望みを置く人は幸いです。その環境でこそ咲く花があるのです。
私たちクリスチャンの希望は主イエス様です。この「望みの神」は、世の終わりまで私たちと共にいてくださるのです。



無題 | 19:52:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
悲しみが救いに変わる

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
(第二コリント7章10節)

 人は誰でも多かれ少なかれ「悲しみ」を経験するものです。勝者の歓喜の裏には必ず敗者の流す悔し涙があります。受験の失敗や失恋は若者たちを襲う深い悲しみでしょう。また、家族の争いや別離も悲嘆をもたらすにちがいありません。

 しかし、このように痛みや呻きを伴う悲しみには大きく分けて二つの種類があると聖書は教えています。まず、一つ目の悲しみは結果としてその人をプラスの方向に向かわせるものです。
 順風満帆の時には心をかすめもしなかった「神よ!」という祈り心が、悲しみを経験することによって芽生えてくることがあります。放蕩息子が豚の餌で空腹を満たそうとするほど落ちぶれた時、自分の帰りを待ちわびている故郷の父を思い出したように、神から離れている悲惨に気づいた者だけがイエス・キリストの十字架の意味を知ろうとするのです。

 そして、神は常に私たちが遭遇する悲しみを通して、私たちを救おうと招いておられます。ですから失望、挫折、別離などは絶好のチャンスなのです。それは「恵みの時、救いの日」となります。

 もう一つの悲しみは人をマイナスの方向に向かわせます。その悲しみの原因となった人や出来事を恨み、怒り、憎むだけで、その先に神の慰めが待っていることを認めようとしません。この種の悲しみからは一刻も早く脱出しなければ、その人の体や心がボロボロになってしまうでしょう。

 「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」と聖書は約束しています。あなたが悲しみを味わう時、いつもイエス・キリストに向かいましょう。そこには救いといのちがあります。いつのまにかあなたの悲しみは「深い平安」に変わるでしょう。



無題 | 15:13:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
確かな望みを持つ幸い

たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。(第一テモテ6章17節)

明るい表情をしていたり、何かに前向きである人たちに共通していることの一つは、「望み」を持っていることではないでしょうか。豪雪に閉ざされても勇敢に闘えるのは、やがて来る春の喜びを望み見ているからにちがいありません。苦しい練習に耐えて走り続けるのは、トップでゴールインする感激の瞬間を思い描いているからでしょう。

重い難病と闘っておられる方から嬉しい新春の便りをいただきました。この方は発病以来、筋力が衰えて、今では寝返りすらもままならない状態です。それでも彼女はただの寝たきりの障害者ではありません。
彼女は同じような境遇にある重度障害者が尊厳を持って自立した生活をするためのヴォランティアグループを運営しています。わずかに残った筋力を使ってパソコンを操作し、たくさんのヴォランティアを集め、障害者の生活を支え続けてきました。
ところが、強気一点張りできた彼女が、ついに疲れ果ててしまいました。そこで、神様の助けを求めるようになり、今回バプテスマを受けられたという報告をくださったのです。
その中で彼女は、どれほど自分の業績を誇っていたか、どんなに人を傷つけていたかに気づかされたと語っていました。そして、自分が救われなければならない罪人であることを知らされ、イエス様の十字架の愛に信頼する人に変えられたのです。

私たちは望みを持って突っ走っている時は充実しており、何の恐れも感じません。しかし、そんな望みがついえてしまう事があります。何の希望も見当たらず、お先真っ暗に思えるだけです。
そんな時こそ、しぼむことのない永遠の希望を掴むチャンスです。いやむしろ、じたばたと抵抗する力を失った時こそ、神が私たちを抱き上げてくださるのには都合がよいのです。

パウロという人は、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(第一テモテ1-15)と述懐しています。自分の愚かさに気づき、醜さを認めることは敗北ではなく、神に望みを置く勝利の生活の入り口です。

あなたの望みは何にかかっていますか。それはもろく崩れてしまうようなものではありませんか。
救い主イエス・キリストに信頼する者は確かな希望を見据えています。聖書が、「この希望は失望に終わることがありません。(ローマ5-5)と約束しているからです。



無題 | 14:58:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
苦しみを癒す真の慰めを紹介します

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
(第二コリント1章4節)

 皆さんの身の回りに、あなたがどんな状況に陥ろうとも変わりなく、あなたを慰めてくれると信じきれる人がいますか?両親であれ、配偶者であれ、兄弟であれ、友達であれ、そのような人を一人でも持っている人は幸いです。

 今日のメッセージは、「残念ながらそこまで信じきれる人はいない」という人のためです。聖書に出てくるヨブの経験を見る時、深い苦しみのただなかにある人を慰めることが、どんなにむずかしいことであるかを思わされます。その人の立場になりきれない者のことばは虚しく空回りするばかりです。

 私も「自分の苦しみを慰めてくれる人はいない」と感じた時がありました。それは孤独を味わうことです。ここで生きる意欲を放棄しかねない危機です。しかし、私の場合、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」というみことばを聞くことができました。

 そして、イエス・キリストを信じることによって、魂を満たす神の慰めを知ることができました。不治の病に効く特効薬を発見したわけです。「すべての慰めの神」イエス・キリストは、私たちの罪と苦しみを十字架で担ってくださったのです。だからこそ、私たちに平安を与えることがおできになるのです。

 また、イエス様のみことばと十字架の愛によって慰められている人は他者を慰めることができます。というよりも、イエス様があなたを通して、あなたの隣人を慰めてくださいます。私も今は、どんな苦しみの中にいる人のためにも「できる」ことがあります。それは「すべての慰めの神」に祈ることです。こうして、イエス様の慰めは無限に広がって行きます。



無題 | 09:27:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
2006年を勝利するカギ

主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。       (詩篇27篇1節) 

2006年の歩みは、いや戦いは礼拝で始まりました。あなたはこの一年、どのように過ごすと想像しますか。おのおの期待することを心に描いてみましょう。新年の目標ははっきりしていますか。
教会の年頭の暗唱聖句は、「待ち望め。主を。」です。このみことばには私たちが一年の目標とするにふさわしい信仰の姿勢が明らかにされています。神への信仰なくして、私たちは高い目標をもつことはできません。神の助けと守りをいただいて、日々ベストを尽くしてこそ、私たちは勝利の一年を歩むことができるのです。
昨年にも増して多くのショッキングな出来事を耳目にすることがあるかもしれません。しかし、私たちは、「私の心は恐れない。」、あるいは、「私は動じない。」と告白しつつ前進しましょう。私たちの主イエス様は光であり、救いであり、いのちのとりでだからです。

ダビデの願いは一つでした。もちろん、他にもあれもこれも、きりなくほしいものはあったことでしょう。しかし、彼は「いのちの日の限り、主の家に住むこと」を切望しました。彼はそこで、必要な知恵と力のすべてを授かると信じたのです。
ダビデは「雄々しくあれ。心を強くせよ。」と自分自身を励ましています。それは同時に隣人をも励ますことでしょう。そして、教会全体に勇気を与えるのです。一言は単なる言葉ではなく、人を支えもすれば、倒しもする影響力を持っています。
この一年、イエス様の教会を祝福の集いにするために、一人一人が役割を果たし続けましょう。そうすることによって、道に迷う多くの人々が、「イエス様こそ救いの神」であることを知ることができるのです。



無題 | 13:38:53 | トラックバック(0) | コメント(0)