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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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弱いときこそ強いとは

  ☆☆☆「あなたのためのクリスマス」のご案内☆☆☆
12月18日(日) 午後2:30  こどもクリスマス会
12月24日(土) 午後7:00  クリスマスイブの集い
   25日(日) 午前10:30 クリスマス礼拝

  しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント12章9節)

よく、「世の中はますます勝ち組と負け組に二極化している。」などと言われます。何をしても、スポットライトを浴びて、にこやかにしている「勝ち組」と、注目されることもなく、不満をくすぶらしている「負け組」があるということでしょう。しかし、勝ち組同士の競争で負け組が出るでしょうし、負け組の中では勝ち組になって優越感を感じる人もあるでしょう。

その点、パウロという人はまさに人もうらやむような勝ち組でした。名門の家に生まれ、最高の教育を受け、教師の立場にあった人です。しかし、彼は、「私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」(ピリピ3-7)と述懐しています。イエス様による魂の生まれ変わりを経験したパウロは、それまで負け組だと見なしていたクリスチャンの生き方こそ、神の目にかなった勝ち組であることを知ったのです。

それまでのパウロにとって、弱点はことごとく恥ずべきことであり、決して受け入れたくないことだったにちがいありません。優れていることだけが価値があり、劣ったものは排除されて当然という考えの持ち主だったのかもしれません。そんな彼がイエス様を知って、全くちがう価値観を持つようになったのです。
彼には悩みの種がありました。持病であったかもしれませんし、宣教上の敵対者の存在であったかもしれません。はじめ彼は、その苦しみの種がなくなるよう、必死で祈り続けたようです。しかし、彼がイエス様からいただいた答えは意外にも、「わたしの恵みは、あなたに十分である。」というものでした。

わたしたちもおのおの、悩みの種を抱えています。教会にも切実な祈りの課題があります。そして、私たちは「こうあってほしい」という筋書きを握って祈っています。
このように、自分たちの願い事を神にお伝えしてよいのです。しかし、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(第一コリント1-25)ことを忘れてはなりません。私たちに弱さがあり、悩みの種を抱えているからこそ、私たちは真剣にイエス様に信頼し、祈り続けることができるのです。
クリスマスの歌が響く頃となりました。今年もクリスマスの驚くべき出来事に感動しましょう。そして、神の知恵の奥深さをほめたたえましょう。



無題 | 15:14:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
力あるお名前

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」              (使徒3章6節)

 経済状況の悪化が失業者の増加に至っている現実を、教会でも見せられることがあります。突然電話があり、[相談したいことがありますが」と問われ、お迎えしてみると、身の上話をされた後で、要するにその場しのぎのお金のむしんだったりします。
 そんな時、大勢に影響のないような額であれば、その話の信憑性は問わないようにしてきました。なぜなら、「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されている」とあるからです。人をだますことはできても、神の目をごまかすことはできません。

 そんな時、教会は彼らが求める食事や交通費しか提供するものがないのでしょうか。イエス様の弟子ははっきりと、「金銀は私にはない。」と言い切りました。そして、ペテロは彼の信じるイエス・キリストの名によって立ち上がるように命じたのです。これこそが、昔も今も変わることなく、教会がすべての人に伝えることのできる福音です。

 私たちの教会も失業の方に経済的援助を与え続ける力などはありません。しかし聖書は、「主を待ち望む者は新しく力を得る」と約束しています。私たちが紹介するイエス・キリストに信頼するなら、その人が今どういう状況にあろうとも、そこから希望に向かって歩み出すことができます。
 あなたが人の生活を援助できるほどのお金持ちであるなら大いにそうするべきでしょう。健康と能力を他者に提供できる人もおられるでしょう。しかし、それらがなくても、私たちは天の父を知っています。そのお方はすべての富と力の所有者であり、求める者にほどこそうと、いつも待っておられるのです。

 ☆☆☆ 「あなたのためのクリスマス」ご案内 ☆☆☆
12月18日(日) 午後2:30  こどもクリスマス会
12月24日(土) 午後7:00  クリスマスイブの集い
   25日(日) 午前10:30 クリスマス礼拝



無題 | 14:02:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
ありがとう!のこころを

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」                (詩篇107篇1節)

先週、甘木では農業祭が催されたようですが、今週も全世界でさまざまな形の感謝祭が祝われます。なかでも、北米で祝われるサンクスギビングデイ(Thanksgiving Day)は、詰め物をした七面鳥やパンプキンパイを囲んでの家族の集まりとして有名です。
 イギリス国教会の下では信仰の自由を持てなかったクリスチャンたち(バプテストを含む)はアメリカ大陸へ決死の航海をしました。やっとたどり着いた新天地で、彼らは神の助けを仰いで種を蒔いたのです。厳しい旱魃の後、とうとう豊かな収穫に恵まれた移民たちは、原住民と共に感謝の集いを祝ったと伝えられています。

 聖書は、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(エペソ5-20)と教えています。私たちの感謝は単なる「ありがとう!」運動ではありません。神様の最高のプレゼント、救い主イエス様を信じるところから始まる感謝です。
 神様に背を向けたままで、誰に向かって「ありがとう!」を言ったらよいでしょうか。イエス様を心にお迎えすることは、神様に向き直ることです。それでこそ、真の神様に「ありがとうございます!」を申し上げることができます。

 次に、神様への感謝は年一度ではありません。私たちの生活のすべてが神への感謝であるべきです。私たちに都合のよいことだけが感謝の対象とは限りません。試練でさえ、困難でさえ、迫害でさえ、キリストの助けを待ち望む者にとっては感謝の理由となり得るのです。
 パウロは、「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」(第二コリント9-15)という最高の感謝の表現を残しています。このみことばをモデルに、私たちはより具体的に感謝の理由を数え上げてみましょう。あなたはいくつ上げることができますか。
 私たちは罪赦されて、神をほめたたえる者とされていることを感謝しましょう。そして、滅びることのない永遠のいのちをいただいていることを感謝しましょう。



無題 | 15:20:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
永遠のいのちの水


わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
(ヨハネ伝3章14節)

 20世紀は石油の利権が重要な争点でしたが、21世紀は水が重大な関心資源となると言われています。水に不自由したことの少ない私たちでさえ、梅雨時に降雨量がすくなかったりすると不安を感じます。
 そのように、水は生命生存に不可欠なものです。それは最も価値ある神の贈り物の一つです。しかし、イエス様はサマリヤの女との対話の中で、もう一つ別の種類の「生ける水」、「永遠のいのちへの水」の存在について語られました。これはいったい何なのでしょうか。どうしたら手に入れることができるのでしょうか。

 サマリヤの女は飲み水、シャワーのための水、洗濯に使う水の他に、人の心の内側を洗い清める水があろうとは全く思い及びませんでした。今の時代の多くの人たちもそうです。物質的なものに関する情報には敏感ですが、内面の魂や霊のことはおろそかにしています。

 イエス・キリストはこの新しい水を与えるお方です。罪にけがされ、変形するほどに傷ついた心を新しくするのはイエス様のいのちのことばです。イエス様の十字架上の祈りは病める現代人をもいやすのです。そして、このイエス様を受け入れる人は魂の平安に満たされます。その平安は何者も奪うことのできない確かな「永遠のいのち」です。
 私たちは様々な問題に直面します。そして、その解決のためによいと言われるいくつかの方法を試みます。しかし、キリストが提供しておられる新しい水を飲もうとはしません。これは絶望の道へと進んで行くことです。
 聖書は「神との和解を受けなさい」と繰り返しています。これが新しい出発点です。ここを通過する者だけが神の豊かな祝福をいただくことができるのです。



無題 | 14:15:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
神様のお役に立つささげもの

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。   (第二コリント9章6節)

 先日、教会案内を配布して回っている途中で、かつてお世話になったことのある方にお会いし、お礼を述べる機会が与えられました。数年前、韓国の学生たちがトラクト配布の手伝いをしてくださった時、途中で車がパンクして困っていた時、親切にスペアタイヤの装着を手伝ってくださった方です。彼は偶然だと言われましたが、私たちは神様の導きに驚いた次第です。
 彼は癌を患っているそうです。また、その時は奥様のお姉さんが心臓の手術を受けている最中でした。私たちは道端で神様に祈りました。彼は涙を流していました。
 彼はハーモニカを取り出し、好きな唱歌を吹き始めました。苦労を重ねる中で、ああして唱歌を吹いて、自分を慰めてきたのでしょう。私たちは讃美歌を歌いました。また、彼は涙を流していました。 
 もちろん、彼にイエス様のはなしをしました。彼は私たちが、どうして生活しているのかと尋ねました。これはよくある質問で、イエス様の働き人が、どのように生活を成り立てているのか不思議なのでしょう。
 イエス様の救いを宣べ伝える伝道者たちの生活を支えるのは、信仰者たちの献金です。イエス様が神の国の訪れを伝え歩かれたように、パウロが宣教旅行したように、今日も教会を通して、永遠のいのちの福音は宣べ伝えられています。この尊い働きを継続させているのが、信仰者たちの捧げ物です。

 聖書は、「神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(9-7)と教えています。イエス様の働きに喜んで捧げることのできる人の心は、何と豊に祝福されていることでしょうか。天国を心にいただいているからこそ、喜んでイエス様の働きに参加できるのです。
 世界中で人々の税金の多くが戦費に当てられています。これに対し、イエス様への献金は滅びの中にある魂を救うために用いられます。私たちもこのすばらしい働きに、喜びをもって加えていただきましょう。



無題 | 15:06:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
永遠のいのちへ通じる道

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
(ヨハネ伝3章36節)

 あなたは初めての場所へ行く時、念入りに地図を調べて目的地への道順を確認してから出かけるタイプですか。それともおよその見当で出発し、その都度正しい道を選んでいくタイプですか。いずれにせよ、目的地ははっきりしているはずです。

 では、あなたの人生の目的地はどこですか。毎日どこへ向かって生きていますか。聖書はすべての人の前に、「永遠のいのち」に通じる道と、「永遠の滅び」に至る道があることを伝えています。あなたはどちらの道に立っていますか。

 人の行き着く所がこのいずれかであるとするならば、誰もが「永遠のいのち」を願うはずです。では、そこへ通じる道とはなにでしょうか。イエス様が「わたしがその道です。」と宣言しておられます。このお方の道案内によらなければ、誰ひとり天国への道を歩むことはできません。

 どんなに血の滲むような努力をしても、それが神の定めたルールに則っていなければ、残念ながら神の祝福を得ることはできないのです。逆に、イエス・キリストを拒絶していく人に、「神の怒りがとどまる」という警告が与えられています。

 しかし、感謝すべきかな、イエス様が十字架の上で「神の怒り」を代わって受けてくださった事実に信頼する者に、「永遠のいのち」は与えられます。今、あなたに求められていることはイエス・キリストを信じて、神との和解を受けることです。もし、違う道を進んでいることに気づいたなら、今すぐ向きを変えて、イエス・キリストを見上げましょう。

 私たちは人生の荒波にもみくちゃにされるような苦しみの日々を過ごすことがあります。そのような時、救い主イエス・キリストの御名を呼ぶことのできるキリスト信仰者は本当に幸いです。



無題 | 09:44:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
神様への献金とは


あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。         (第二コリント8章9節)

 イエス様の救いにあずかり、日々神の恵みによって生かされていることに気づくと、自分に関るものに対する私たちの見方が変わります。たとえば、自分のからだや能力は、神よりお預かりしているものであることを知ります。

 ですから、自分の不摂生で健康を害するようなことがないように、日常の生活に注意を払うようになります。神よりお預かりした能力を発掘し、磨き上げるために熱心に学んだり、勤めたりするようになります。
与えられた時間を賢く用いるようになります。それでなければ、イエス様を礼拝するための時間は他の事で占められてしまいます。

 同様に、お金の管理においても変化が生じます。「自分のお金」という考えから、「神様からお預かりしたお金」と受け止めるようになります。この心の変革(魂の救い)の結果、クリスチャンは進んで神にお捧げ物(献金)をします。

 今年もハリケーンや地震の被災者のための募金の呼びかけがなされ、人々の善意が被災者に届けられました。その他にも数え切れないほどの募金のアッピールがなされています。しかし、イエス様への献金は、世の慈善募金とは本質的にちがいます。

 お金があるからできるというものではありません。その人がどれだけイエス様の恵みに生かされているかが献金に表れます。この信仰者たちの主イエス様への愛と感謝の捧げ物によって、イエス様の救いの福音は、失われた魂にもたらされるのです。

 パウロは、「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(8-2)とマケドニアの教会の献金の実例を上げています。ひとりひとりがこの献金の精神に立つ時、イエス様ご自身が甘木教会の会堂を立派に建て上げてくださると信じます。



無題 | 17:07:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
神様とのコミューケーションの回復

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
(創世記1章27節)

 発達心理学者たちの研究によると、チンパンジーにはかなりの学習能力があるようです。アルファベットを識別し、正しい順序に並べて文章を組み立てたりもするそうですから驚きです。しかし、ある時期を過ぎると、人間のこどもたちの言語能力はチンパンジーのそれをはるかに凌いでしまいます。

 どこからこの決定的な発達のちがいがくるのでしょうか。それは両者の間にデザインのちがいがあるからです。デザイナーである神は人間を地上の生き物の管理者としてお創りになりました。人は「神のかたち」を持つ者として創造されたのです。

 チンパンジーはいくら賢くても創造者である神を認め、礼拝することはできません。しかし、人は神のかたちに創られた者であり、魂の故郷である神を求める者です。

 ところが、神を思慕する切なる願いがありながらも、正しく神を知り得ない多くの人々がいます。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあるのに、どうして神を知ることができない人たちがこれほど多いのでしょうか。

 聖書は、「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり」とその原因が人間の罪にあることを指摘しています。では、神と人間とのコミュニケーションはいかにして回復されるのでしょうか。

 それは人間を創造された神が備えてくださった「救いの道」を信じることによってです。つまり、神と人とを隔てていた仕切りを廃棄されたイエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることです。これは神がお定めになった方法であり、この方法によってのみ人は「神のかたち」をもう一度回復されるのです。



無題 | 09:43:43 | トラックバック(0) | コメント(0)