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甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

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イエス様の大掃除

「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
    (ヨハネ2章16節)

 洋の東西を問わず、民衆の宗教行為と商売とは不可分の関係にあるように思えます。神社仏閣の周辺には置物やお守り札を売る店が軒を連ねていますし、「おかげさまで」生活を立てている多くの人々の暮らしがあります。もはや、その信仰の対象が何者であり、何を説いているかよりも、自分たちの商売繁盛のためにその神社仏閣が栄えなければならないわけです。
 
 イエス様はこうした人間の我欲に汚染された宗教行為を見て激怒され、エルサレムの神殿で行われていた心を失った形だけの宗教儀式を一掃されました。人々の濁った目が本当の神を見るためには、邪魔物が粉々に砕かれなければなりません。

 私たちの心にも真の神でない者、あるいは物が幅をきかせて鎮座しがちです。それは物欲であり、名誉欲であり、快楽欲です。これらはイエス様によって一掃されなければなりません。いや、それは既に取り除かれたのです。二千年前、イエス様の御からだが十字架の上で苦しみを受け、血が流されたことにより、全人類の罪はことごとく砕かれたのです。そして、このイエス様を仰ぎ見る物は皆、すべての罪からきよめられるのです。
 
 どんなに人が努力して自らをきよめようとしても、残念ながらどうどう巡りをするばかりです。それほど根深く人の性質は罪に侵食されています。これは悲しいけれども、人間の実体です。そのことは毎日報道される人間の有り様を見聞きする時、素直に認めざるを得ないのではないでしょうか。
 
 今朝も教会の礼拝でイエス様の十字架が感謝され、そのよみがえりが讃えられます。ここに救いの希望があり、罪のきよめがあるからです。教会でこの福音以外のことが中心になろうとする時、イエス様は「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と厳しく戒められることでしょう。



無題 | 10:08:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
外なる人は衰えても

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。               (第二コリント4章18節)

私たちはさまざまなご家庭を垣間見る機会がありますが、時として外観のみすぼらしさに比べて、内側の落ち着いた雰囲気にハッとさせられることがあります。ただ門前を通り過ぎる人たちには見えない部分ですが、家族の幸福はこの内側の状態にかかっているのでしょう。

パウロはクリスチャンの姿を、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」(4-7)と表現しています。体は壊れやすい土の器のようですが、イエス・キリストという宝を宿しています。この 事実の故に、クリスチャンは神の目に尊いのです。
更に、「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」(4-16)とも述べています。これは驚くべき証言ではないでしょうか。キリストの永遠のいのちが、信じる者の中で成長し続けるというのです。

残念ながら、この「内なる人」を持たない人々が多くあります。また、その存在にすら気づこうとしないのです。これはイエス様を信じて初めて生まれるいのちです。すべての人は衰えていく体に気を使う以上に、永続する「霊のいのち」に眼を向けなければなりません。

歳を重ねて病を得たり、体の偏重に悩んだりしますか。先が短いことを察して落胆しますか。それは正しい判断ではありません。
パウロは、「ですから、私たちは勇気を失いません。」(4-16)と言うことができました。彼の希望は決して絵に描いた餅ではありませんでした。信仰の眼にはっきりと見えていたのです。
私たちも彼と共に、「ですから、私たちは勇気を失いません。」と告白しましょう。私たちは、そう言うことのできる確かな希望、キリストのいのちを得ているのですから。



無題 | 14:23:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
従うものだけが知る恵み

イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。                                    (ヨハネ伝2章7節)

 結婚式はいつの時代でも、一組の男女が生涯の契りを交わす厳粛な日です。そして、当人たちはもちろんのこと、二人に関わりのあるすべての人たちにとって喜びの日です。イエス様はカナという村でこの最初の奇跡を行い、若い二人の門出を祝福されました。
 
 当時の結婚の宴は一週間にも及んだようで、お客にふるまうぶどう酒が途中でなくなってしまうというハプニングまで起こったようです。そこで、イエス様はこのカップルを祝福するため、水瓶の水を極上のぶどう酒に変えてくださいました。 このような化学変化は通常起こり得ないことですから「奇跡」と呼ばれます。では、この変化はどのようにして生じたのでしょうか。それは冒頭のみことばにあるように、イエス様が命じられたことをそのとおりにした時に起こったことがわかります。
 
 しもべたちは水瓶に水を満たし、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きました。それがイエス様の指示されたことだったからです。彼らが忠実にイエス様のご命令に従っていく課程のどこかでか、この驚くべき変化が起こったのです。 しもべたちがイエス様のご命令をあなどったらどうだったでしょうか。水瓶に水を入れることをばかばかしいとやめてしまったり、イエス様の指示を無視して、自分たちの方法でぶどう酒を手に入れようとしたりしたら、この結婚式はかくも祝福されたでしょうか。
 
 今もイエス様は私たちの教会に、家庭に、職場にご臨席しておられます。そこで私たちが日々直面する困難に解決を与えようとしておられます。私たちはイエス様が求めておられることを一つ一つ踏み行っていきましょう。まず、あなたの人生に関わりを持とうと待っておられるイエス・キリストを心の王座に迎えるところから始めましょう。



無題 | 10:48:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
神に信頼する

ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。            (第二コリント1章9節)

パウロはある苦しい経験を、「私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、」と表現しています。私たちはどのような苦難を経験したことがあるでしょうか。あなたなら、自分の苦しみの経験をどう表現しますか。

 いわれのない差別、陰湿ないじめ、愛する者との別離、病との闘い、失業、孤独、どれを取っても辛い経験です。あなたはそれらの試練をどう受け止めて、どのように乗り越えてきましたか。
 
パウロはまず、自分に頼ることをやめたと述べています。自分の愚かさと、無力さを思い知らされ、自分以外に救いを求めました。そして、彼は死者をも生かす神に信頼することを選んだのです。
絶体絶命の苦境の場面で会得した、いや与えられた生き方の大転換でした。彼はその生まれ変わりを、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2-20)と表現しています。
 
ここに人が苦しみを経験することの目的の一つがあります。決して苦しみの中で、人が神を創造するのではありません。苦しみを経ることによって、閉ざされていた人の眼が「あわれみの神」、「慰めの父」に向かって開かれるのです。
 更にパウロは、「なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」(1-10)と歓喜するかのように告白しています。信仰は女々しいものではなく、かくも強く、確かなものです。
 
あなたは今、苦しみの最中にありますか。そこはまさに本物のクリスチャンとなるための修練の場です。あなたなら、そこでどのような成長の実を結びますか。



無題 | 19:26:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
偽りのない信仰

ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」
(ヨハネ伝1章48節)

 私はかつてある結婚式に出席して、そのカップルの出会いについて聞いたことがあります。二人は踏切の向こうとこちらで電車の通過を待っていたそうです。そのわずか数秒のうちに、彼は彼女が自分の妻になる人だと決めたというのです。やがて遮断機が上がり、歩きだした二人にどのような物語が進展したかはご想像に任せますが、彼の眼力には驚きました。
 
イエス様がナタナエルという若者を召された時にも、一目で彼の魂の質を見抜いておられました。イエス様は、「彼のうちには偽りがない」とナタナエルを賞賛しました。「彼こそ本当のキリスト者だ」とも語られました。
 この「ナタナエル」という名前をこの箇所の他に聖書中に見い出すことはできません。彼はおそらく、イエス様の弟子として目立つ活躍はしなかったのでしょう。しかし、私は彼が偽りのない真実な信仰をもって、イエス様に従い通したであろうことを信じて疑いません。何の顕著な業績をも残せなかったかもしれませんが、「彼こそ本当のキリスト者だ」というイエス様のナタナエルへの評価にまさる褒め言葉があるでしょうか。

 ナタナエルはどうしてイエス様が彼のことをご存じなのかを不思議に思いました。しかし、イエス様はその説教のなかで、「隠れたところで見ておられるあなたの父があなたに報いてくださいます」というみことばをくりかえしておられます。私はナタナエルの偽りのなさは、隠れたところで見ておられる「神の目」を恐れる信仰姿勢の結果であろうと思います。

 イエス様は今日も「偽りのないキリスト者」をさがしておられます。そんな魂が今の時代に果たしているだろうかと思ってしまうほどに、人の心はくらまされています。しかし、イエス様はあなたの中にこそ、この「偽りのない信仰」を見い出しておられます。



無題 | 09:45:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
キリスト者の誠実

私たちがこの世の中で、特にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。        (第二コリント1章12節)

台風14号をかなりの緊張をもって迎えることとなりましたが、幸い教会は皆、守りをいただきました。しかし、北九州BBCは屋根に損傷を受け、十字架塔が傾いてしまったそうです。宮崎をはじめ、甚大な被害に遭われた方々に神の慰めと助けを切にお祈り申し上げます。
 泣く者といっしょに泣きなさい。(ローマ12-15)とか、「苦しみをともにしている」(1-7)とは、どういうことでしょうか。これは頭だけの知識の信仰では知り得ないことです。私たちが受けても不思議ではなかった災害を、他の地域の方々が代わりに被ってくださったと思う時に、とめどなくこみ上げる同情です。
 パウロは自身の行動の動機が「聖さと神から来る誠実さ」であると述べています。私たちも何事にも聖さと誠実さをもってあたりたい者です。キリストの証において、聖さと誠実さが欠けていたら、それは神が求めておられる「霊的な礼拝(ローマ12-1)とは言えません。
 
今日は衆議院選挙の投票日です。キリスト者は政治とどう関ったらよいでしょうか。聖書は、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」(ローマ13-1)と教えています。
 キリスト宣教が阻まれるような政治体制を選択してはなりません。真の神への礼拝を堂々と捧げることのできる社会を選び取らなければなりません。国会でもクリスチャン議員たちが祈祷会を開いていると聞きました。これは「世の光」です。
 政治の選択を誤る民は、戦争や極度の貧困といった人災を招きます。私たちは選挙を通して、神のみこころが政治に反映されるよう祈りつつ、一票を投じましょう。



無題 | 20:48:12 | トラックバック(0) | コメント(0)