FC2ブログ
 
■カウンター

■プロフィール

甘木BBC

Author:甘木BBC
福岡県朝倉市にある、聖書を神のことばとしてお伝えしているキリスト教会です。
http://amagibbc.com/

■検索フォーム

■最新記事
■カレンダー

07 | 2019/08 | 09
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

このお名前によって祈ろう!

したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル書7章25節)

 万端整え、行くばかりとなっていたJBBF70周年記念聖会への参加でしたが、大型台風の影響を考慮し、キャンセルしました。代りに、夏季休暇に入った姉妹たちと、小さな集いをしました。学びに取り上げたのは、パウロのヨーロッパ宣教の初穂となったルデヤという女性(使徒16-14)です。彼女はパウロの宣 教によって主を信じ、家族とともにバプテスマを受け、福音がピリピの町に宣べ伝えられるために、大きな役割を果たしました。

 まず、ルデヤはイエス様の救いについて聞いたことはなかったかもしれませんが、「神を敬う」人でした。聖霊はそのようなルデヤの「心を開いて」、イエス様を信じる信仰を起こし、パウロの宣教協力者として用いられたのです。
 甘木でも、主がルデヤのような姉妹たちを用いておられることを感謝します。その学びの後、「あさくら音楽祭」のためにコーラスとベルの練習もしました。「ささげ物を携えて、主の大庭にはいれ。」(詩篇96-8)とあります。皆さんでますます良き賛美のささげ物を用意して、主に礼拝をお捧げしてまいりましょう。

 このところ礼拝において、「イエス・キリストの名」の持つ権威について教えられています。ペテロたちはその宣教において、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。」(使徒3-6)と行って、イエス・キリストの御名の権威を用いました。これこそいかなる時代においても、どこにおいても、教会の 宝、福音宣教の推進力です。

 大変動きの遅かった台風10号ですが、いよいよ九州に近付き、日本を縦断するようです。災害のなきよう備えるとともに、ガリラヤ湖の嵐を静められた主イエス様の御名の権威によって、守りを祈り続けます。それは決して、おまじないのようなものではありません。「すべてのものは、この方によって造られた。」
(ヨハネ1-3)とあるように、自然界を創造し、今なお支配しておられるキリストの御名の権威をお借りして祈るのです。愛の神は「耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。」(コリント10-13)と約束しておられます。恐れず、主イエス様の御名により、祈りつつ前進してまいりまし ょう。



メッセージ | 20:53:18
奇跡を起こす「権威あるお名前」
このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。(使徒の働き3章16節)

 暦の上では立秋を過ぎましたので、これからは残暑、秋風の立つ日も近いです。上手に冷房を使って、熱中症にならないように気をつけましょう。今週の火、水と浜松で開かれるJBBF70周年記念聖会に牧師夫妻と田中姉が参加予定ですが、台風10号がどう動くかで、成り行きが微妙になっています。一年がかりで準備してくださった掛川BBCの御労が報われますよう祈るばかりです。

 先礼拝では前回に続いて、足の立たない物乞いの男が主イエス・キリストの御名の権威によって癒され、歩き、跳ねて神を讃美したメッセージを聴きました。これを観た人たちは「驚き、あきれた。」(使徒3-10)とありますから、二千年前の人々にも想像のできない出来事だったのでしょう。では、どのようにして、この奇跡は起こったのでしょうか。

 まず、この奇跡に用いられたペテロは熱心なイエス様の弟子でしたが、イエス様が捕えられたとき、弟子であることを否定したような、弱く、不従順な人物でした。そのペテロが主の十字架、葬り、復活を目撃し、聖霊を受けることによって、イエス様の御名を用いて、力ある御業のできる宣教者へと造り変えられていたのです。

 ペテロは「その男を見つめ」(4)とありますが、その眼力が男の信仰を引き起こし、「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(6)という権威ある命令によって、彼の中にも、「主イエス様には私を立たせる力がある」という信仰が沸き上がってきたのでしょう。癒す側、癒される側双方に、揺るがない信仰があったればこその奇跡でした。

 私たちの細胞の一つ一つは神によって造られ、日々養われています。私たちがその神の権威を認め、心からの礼拝をお捧げするとき、神の力と祝福はドッと私たちのいのちへ注がれてきます。ペテロが告白したように、私たちもまた「イエス様の復活の証人」とさせていただきましょう。そのとき、私たちとその周辺に主イエス様が、どのような祝福の御業を為してくださるでしょうか。信仰に生きる者には、大いなる楽しみと期待があります。



メッセージ | 16:01:13
権威ある御名により祈りましょう!
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
(エペソ書6章18節)

 先日、久しぶりに入所中のM姉をお訪ねしました。ベルを持って来ていることをお伝えすると、施設の方が、「演奏会が始まりますよ」と声を掛けてくださり、十数名の皆さんが集まって、楽しい「夏の唱歌・懐メロ・賛美歌コンサート」が始まりました。熱波に疲れ気味だった皆さんも、爽やかなベルの響きに目覚めたようで、リードして歌い出す人もあり、終わってみたら、一時間が経っていました。あんなに喜んでいただけるなら、今度はもっと準備してお訪ねしようと思います。

 先週、私たちは身体の障害の故に、物乞い生活をしていた人が、「イエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3-6)と命じられたとき、「歩いたり、はねたりしながら、神を賛美」(8)するようになったメッセージを聴き、「イエス・キリスト」の御名が持つ権威に驚きました。イエス様を信じている私たちにも、同じ聖霊の賜物が与えられています。それはイエス・キリスト様の御名による祈りです。魔術を使うことではありません。神への正しい祈りです。
 物乞いの男はお金を恵んでもらおうとしました。ペテロは彼に、「金銀は私にはない。」と伝えました。彼が欲した金銭的な援助を与えることはできませんでしたが、それ以上の祝福、自ら働きに出れるよう、彼の脚力を回復してやることができたのです。ここに、教会の大切な使命が明らかにされています。

 私たちは金銭的援助も力仕事もできないのが現実です。しかし、権威ある主イエス・キリストの御名により祈る特権を授かっています。その賜物を活用すれば、神と人に大いに役立つことができます。各地で福音の証しを続ける諸教会のためにも、難問と苦闘している国の指導者たちのためにも祈りましょう。

 夏休みになり、K姉とMっちゃんが集われ、久しぶりに共に主に礼拝をお捧げできました。ベルの讃美にも加わり、イエス様に栄光が帰されました。Mちゃんの高校受験のためにも祈りましょう。帰りに入所中のI兄もお訪ねし、一緒に「いつくしみ深き」も讃美しました。猛暑の8月も、イエス様にしっかり結びついて、「水路のそばに植わった木のよう」(詩篇1-3)に、「愛、喜び、平安」の聖霊の身を結びつつ歩んでまいりましょう。



メッセージ | 15:44:24
罪はこうして解決される!
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ書6章23節)

 先礼拝は大雨警報が発令されていたので、各自ご家庭で礼拝を捧げていただくよう連絡させてもらいました。ところが、J姉御夫妻がメールに気づかれなかったそうで、集ってくださいました。そのおかげで、御夫妻の思わぬ賜物が発見されました。初めてベルを手にしたT兄がきれいな音を出され、4人で美しい讃美をお捧げできたのです。御夫妻の喜びようを見て、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15-7)というイエス様の御言葉を思わされました。

 近隣の町々には浸水の被害もあったようで、心よりお見舞い申し上げます。また、京都で起こった放火事件の犠牲者、負傷者、関係者の皆様に、愛の神の深き御慰めをお祈り申し上げます。聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、」(ローマ3-23)と人間の罪性を明らかにしています。また、「罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1-15)とも警告しています。ですから、ヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1-29)と指し示した救い主イエス様を信じて、罪の解決をいただく必要があるのです。

 もし、私たちの心の奥に、根深い妬み、憎しみ、恨みがあり続けたら、どうでしょうか。しばらくは紛らわすことができても、いつかは暴発するときがくるでしょう。そんな危険を抱えていた私たちに、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8-1)という神の赦しが宣言されたのです。

 そして、私たちは「まことのぶどうの木」(ヨハネ15-1)であるイエス様に接木されました。もはや「罪の奴隷」(ローマ6-17)ではありません。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5-22 23)の聖霊の身を結ぶ「神の子ども(ローマ8-14)です。

 車も自動運転され、AIによって管理された工場で野菜が造られ、支払いもお金の不要な時代が間近だと聞きます。しかし、そのような環境において、果たして人間は幸せな生活を手に入れることができるのでしょうか。私たちは、「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6-33)、主イエス様への礼拝の歩みを続けてまいりましょう。



未分類 | 23:17:11
「愛の人」に変えられる!
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4章10節)

 今日は参議院議員選挙の投票日です。聖書は、「私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため」(Ⅰテモテ2-2)に、国、自治体などに立てられる人たちのために、「願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」(2-1)と教えています。日本史を顧みても、キリシタン禁令、踏み絵、迫害などの史実を見ることができますし、今日でも、世界には自由に聖書を読むこと、イエス様に礼拝を捧げることのできない国があります。そのような中にあって、私たちは日本国民として、「信仰の自由」が保障されていることを感謝し、政体の中に、神のみこころが為されるよう祈り、選挙権を行使しましょう。

 先週、私たちは、「互いに熱心に愛し合いなさい。」Ⅰペテロ4-8)と教えられました。かつて、私たちは自分中心であり、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣き」(ローマ12-15)などということはできない者たちでした。しかし、イエス様を信じて以来、次第に人を思いやることのできる者へと変えられてきています。それは「御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3-18)とあるとおりです。

 愛を身につけるための道場は教会です。神のみことばを共に拝読し、イエス様の愛を讃美し、神の助けを祈っていくとき、私たちは次第に「主と同じかたちに姿を変えられて」(Ⅱコリント3-18)、悲しむ人を慰め、弱った人を支えることができるようになっていきます。イエス様が私たちの罪を負い、十字架の苦難を耐えてくださったのですから、私たちも「赦しの愛」を実践していきましょう。

 道場である教会で愛を身につけると、社会のいたるところで、キリストの愛を実践することができます。私たちは施設を訪問して、「歌のプレゼント」をしていますが、それもまた教会で養われた愛が身についているからできることです。また、朗読奉仕の皆さんとの交流会に出たところ、何名かの方々から、「いつも短歌を楽しみにしています」と言っていただきました。そうした詩作を続けていることも、社会へ向っての、キリストの愛の実践です。

 痛ましい犯罪のニュースを聞くことが多いことを悲しみます。それだけ、罪に捕えられた人が多いのです。しかし、私たちは知っています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」(Ⅰテモテ1-15)ことを。聖霊の実を結ぶことにより、教会の内でも外でも、キリストの愛を実践し、人々がイエス様を仰ぐことができるよう、証しを続けてまいりましょう。




メッセージ | 23:44:33
次のページ